第39話 礼装のまま
三月十四日は、よく晴れていた。
朝から風がなくて、川の音がいつもより大きく聞こえた。
私は、いつもの時刻に起きて、宝物庫へ行った。扉を開けて、壁に手を当てて、湿りがないことを確かめた。ない。棚の並びを目で追って、番号どおりであることを確かめた。番号どおりだ。
閉めて、鍵をかけた。
それで、午前が終わった。
*
午後は、照合をした。
侍従だった方が、向かいの机に座っていらっしゃる。この方は、たしかに数えるのがお上手だった。二十日で、南の綴りの半分を突き合わせてしまわれた。
「オルデン様」
「はい」
「三十七年前の、堰の分水でございますが」
「はい」
「城の控えに、二度出てまいります。日付が違います」
「両方お出しください」
私は、そこで少し手を止めた。
止めてから、続けた。
「同じ向きにずれておりましたら、脇へ」
「かしこまりました」
*
窓の外が、明るい。
王都は、ここより暖かい。三月十四日なら、庭に何か咲いているだろう。
式は、たぶん昼過ぎだ。宮廷の婚礼は、日の高いうちに始めて、暗くなる前に終える。参列者が帰る道の明るさまで、次第に書いてある。
書いてあることを、私は覚えている。
覚えているのは、去年、次第の写しを扱ったからだ。あのときは、私自身の婚礼のために組まれていた。
組んで、一度も使わなかった。
*
「オルデン様」
「はい」
「手が止まっておいでです」
私は、綴りを見た。
同じ行を、三度読んでいた。
「……失礼しました」
その方は、何も仰らなかった。
何も仰らずに、湯を注いでくださった。
*
日が傾きはじめたころ、城の外が騒がしくなった。
最初は、市のほうの声かと思った。市が立つ日ではない。立たない日に人が集まるのは、たいてい、何か起きたときだ。
窓を開けた。
中庭を、人が走っている。
*
ベルナー様が階段を上がってこられたのは、それからすぐだった。
息が上がっていらっしゃる。この方が走るのを、初めて見た。
「オルデン様」
「はい」
「国境の関所から、早馬が」
「何が」
「王都が」
その方は、そこで一度、息を継がれた。
「王都に、軍が入ったと」
*
私は、窓の枠を握った。
「いつ」
「今日でございます」
「今日の、いつ」
「昼過ぎと」
昼過ぎ。
式が始まる刻限だ。
「……人数は」
「わかりません。報せは、それだけでございます」
*
私は、窓の枠を握ったまま、動けなかった。
式が始まる刻限に、軍が入った。
偶然ではない。
偶然でないことを、私はこの四月ずっと知っていた。知っていたのに、今日という日をただの婚礼の日として数えていた。九十日、と数えた。あと二十日、と数えた。
数えていたのは、日付だけだ。
その日に何が起きるかを、私は数えなかった。
数えられたはずだった。
立替保証は、旧い婚約に付いていた。新しい婚姻が成立すれば、旧い取り決めは正式に終わる。終われば、軍と商会のあいだに、誰の保証もなくなる。
保証がなくなる日を、両方が知っている。
知っていて、片方が先に動く。
書式のとおりだ。
*
降りていった。
階段を下りながら、私は数えていた。
軍が王都に入る。入るには、東の街道を通る。街道の駐屯から王都まで、通常の行軍で四日。急いで三日。
三日前に発っている。
三日前に発つには、その前に決めている。決めたのは、五日か六日前だ。
その日に、何があったか。
——立替保証の期日ではない。
期日は、今日だ。
今日、婚礼が成立すれば、旧い婚約に付いていた保証は正式に効力を失う。失えば、軍が商会に負っている立替は、その日から誰の保証もなくなる。
軍は、それを知っていた。
知っていて、その日に着くように発った。
*
城の広間に、人が集まっていた。
ベルナー様が仕切っていらっしゃる。関所へ人をやる。峠の道を確かめる。市に触れを出す。順に指示が出て、順に人が出ていった。
この方は、こういうときに落ち着いていらっしゃる。
私は、隅に立っていた。
立っているだけで、何もできない。
できることが、ひとつもない。
*
夜になって、二報目が来た。
国境の関所からだ。峠を、人が越えてきているという。ひとりやふたりではない。夜のうちに、二十人を超えたと。
その多くが、王都から逃げてきた者だと。
*
三報目は、夜半だった。
城の門に、人が着いた。
私は、そのとき広間にいた。ベルナー様が扉のほうへ行かれて、しばらくして戻ってこられた。
顔色が変わっていた。
「オルデン様」
「はい」
「ご覧になりますか」
「……何を」
「参列していた方が、おひとり」
*
門のところに、女の方が座っていらした。
三十くらいの方だ。地面に座り込んで、動けなくなっていらっしゃる。
礼装のままだった。
絹の、明るい色の。裾が泥で真っ黒になっていて、片方の靴がない。上に、誰かが貸したらしい外套がかけてある。
髪に、まだ花が挿してあった。
*
私は、その花を見ていた。
白い、小さな花だ。宮廷の婚礼で、参列の婦人が挿すものだ。次第に書いてある。婦人は白、未婚の娘は薄紅。
三日、馬に乗って峠を越えて、それでも挿さったままだった。
抜く暇がなかったのだと思う。
*
「……お水を」
声が出た。
出てから、それが自分の声だと気づくのに、少しかかった。
誰かが水を持ってきた。その方は、椀を両手で持って、こぼしながら飲まれた。
飲んでから、こちらを見上げられた。
「……式の、途中で」
「はい」
「外が、急に。それで、みなが」
「はい」
「殿下が、お立ちになって、それから」
その方は、そこで言葉に詰まった。
*
「あの」
私は、膝をついた。
ついたことに、あとで気づいた。
「参列の方は、みなさま、お逃げになりましたか」
「わかりません」
「隣国からの方は」
その方が、私を見た。
「……隣国」
「アーレンス辺境伯が、参列していらしたはずでございます」
言いながら、声が固くなるのがわかった。
固くならないようにしようとして、うまくいかなかった。
*
「見ておりません」
「……そうですか」
「広間の、東の側にいらしたと思います。わたくしは西でしたので」
「東」
「東の扉から出た方は、庭のほうへ。西は、正面へ」
庭のほうへ。
庭は、王宮の東にある。東の門は、軍が入ってくる側だ。
*
私は、立ち上がろうとした。
立ち上がれなかった。
膝に力が入らない。
誰かが腕を支えてくれた。マルタだった。いつのまにか、隣に来ていた。
「お嬢様」
「……ええ」
「お嬢様。中へ」
「ええ」
返事をしているのに、足が動かない。
*
ベルナー様が、こちらへ来られた。
「オルデン様。こちらは、わたくしどもで」
「……はい」
「お部屋へ」
「はい」
言われたとおりに、動いた。
動きながら、私は自分の顔に手を当てた。
当てて、濡れていることに気づいた。
人が十人以上いる場所だった。
*
部屋に入って、扉を閉めた。
閉めてから、私は扉に背を預けて、そのまま座り込んだ。
マルタが、何か言っている。聞こえているのに、意味が入ってこない。
——動じてはいけない。
七つのときから、そう教わった。
困ってもいけない、と。
十一年、守った。書斎で九人の名前を読んだときも、広間で捨てられたときも、叔父様に出ていけと言われたときも。
いま、守れていない。
守れていないのを、十人が見た。
*
マルタが、床に膝をついた。
「お嬢様」
「……ごめんなさい」
「なぜ、お謝りになるのですか」
「人前で」
「人前で、なんでございますか」
私は、答えられなかった。
答えられないまま、両手で顔を覆った。
覆った手のひらが、熱かった。
*
どれくらいそうしていたかは、わからない。
窓の外が、少し白んでいた。
マルタが、まだ横にいた。
私は、顔を上げた。
「マルタ」
「はい」
「峠は、開いているわね」
「開いております」
「関所の人数を、増やしていただかないと」
声が、ようやく、いつもの調子に戻った。
「越えてくる方が、増えるわ。二十人では済まない。名簿が要る。誰が、いつ、どこから来たか。書いておかないと、あとで誰も戻せなくなる」
マルタが、私の顔を見た。
「……名簿を、お作りになるのですか」
「作るわ」
私は、立ち上がった。
立ち上がってから、指がまだ震えていることに気づいた。
気づいたけれど、机まで歩けた。
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