↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/50

第39話 礼装のまま

 三月十四日は、よく晴れていた。


 朝から風がなくて、川の音がいつもより大きく聞こえた。


 私は、いつもの時刻に起きて、宝物庫へ行った。扉を開けて、壁に手を当てて、湿りがないことを確かめた。ない。棚の並びを目で追って、番号どおりであることを確かめた。番号どおりだ。


 閉めて、鍵をかけた。


 それで、午前が終わった。


  *


 午後は、照合をした。


 侍従だった方が、向かいの机に座っていらっしゃる。この方は、たしかに数えるのがお上手だった。二十日で、南の綴りの半分を突き合わせてしまわれた。


「オルデン様」


「はい」


「三十七年前の、堰の分水でございますが」


「はい」


「城の控えに、二度出てまいります。日付が違います」


「両方お出しください」


 私は、そこで少し手を止めた。


 止めてから、続けた。


「同じ向きにずれておりましたら、脇へ」


「かしこまりました」


  *


 窓の外が、明るい。


 王都は、ここより暖かい。三月十四日なら、庭に何か咲いているだろう。


 式は、たぶん昼過ぎだ。宮廷の婚礼は、日の高いうちに始めて、暗くなる前に終える。参列者が帰る道の明るさまで、次第に書いてある。


 書いてあることを、私は覚えている。


 覚えているのは、去年、次第の写しを扱ったからだ。あのときは、私自身の婚礼のために組まれていた。


 組んで、一度も使わなかった。


  *


「オルデン様」


「はい」


「手が止まっておいでです」


 私は、綴りを見た。


 同じ行を、三度読んでいた。


「……失礼しました」


 その方は、何も仰らなかった。


 何も仰らずに、湯を注いでくださった。


  *


 日が傾きはじめたころ、城の外が騒がしくなった。


 最初は、市のほうの声かと思った。市が立つ日ではない。立たない日に人が集まるのは、たいてい、何か起きたときだ。


 窓を開けた。


 中庭を、人が走っている。


  *


 ベルナー様が階段を上がってこられたのは、それからすぐだった。


 息が上がっていらっしゃる。この方が走るのを、初めて見た。


「オルデン様」


「はい」


「国境の関所から、早馬が」


「何が」


「王都が」


 その方は、そこで一度、息を継がれた。


「王都に、軍が入ったと」


  *


 私は、窓の枠を握った。


「いつ」


「今日でございます」


「今日の、いつ」


「昼過ぎと」


 昼過ぎ。


 式が始まる刻限だ。


「……人数は」


「わかりません。報せは、それだけでございます」


  *


 私は、窓の枠を握ったまま、動けなかった。


 式が始まる刻限に、軍が入った。


 偶然ではない。


 偶然でないことを、私はこの四月ずっと知っていた。知っていたのに、今日という日をただの婚礼の日として数えていた。九十日、と数えた。あと二十日、と数えた。


 数えていたのは、日付だけだ。


 その日に何が起きるかを、私は数えなかった。


 数えられたはずだった。


 立替保証は、旧い婚約に付いていた。新しい婚姻が成立すれば、旧い取り決めは正式に終わる。終われば、軍と商会のあいだに、誰の保証もなくなる。


 保証がなくなる日を、両方が知っている。


 知っていて、片方が先に動く。


 書式のとおりだ。


  *


 降りていった。


 階段を下りながら、私は数えていた。


 軍が王都に入る。入るには、東の街道を通る。街道の駐屯から王都まで、通常の行軍で四日。急いで三日。


 三日前に発っている。


 三日前に発つには、その前に決めている。決めたのは、五日か六日前だ。


 その日に、何があったか。


 ——立替保証の期日ではない。


 期日は、今日だ。


 今日、婚礼が成立すれば、旧い婚約に付いていた保証は正式に効力を失う。失えば、軍が商会に負っている立替は、その日から誰の保証もなくなる。


 軍は、それを知っていた。


 知っていて、その日に着くように発った。


  *


 城の広間に、人が集まっていた。


 ベルナー様が仕切っていらっしゃる。関所へ人をやる。峠の道を確かめる。市に触れを出す。順に指示が出て、順に人が出ていった。


 この方は、こういうときに落ち着いていらっしゃる。


 私は、隅に立っていた。


 立っているだけで、何もできない。


 できることが、ひとつもない。


  *


 夜になって、二報目が来た。


 国境の関所からだ。峠を、人が越えてきているという。ひとりやふたりではない。夜のうちに、二十人を超えたと。


 その多くが、王都から逃げてきた者だと。


  *


 三報目は、夜半だった。


 城の門に、人が着いた。


 私は、そのとき広間にいた。ベルナー様が扉のほうへ行かれて、しばらくして戻ってこられた。


 顔色が変わっていた。


「オルデン様」


「はい」


「ご覧になりますか」


「……何を」


「参列していた方が、おひとり」


  *


 門のところに、女の方が座っていらした。


 三十くらいの方だ。地面に座り込んで、動けなくなっていらっしゃる。


 礼装のままだった。


 絹の、明るい色の。裾が泥で真っ黒になっていて、片方の靴がない。上に、誰かが貸したらしい外套がかけてある。


 髪に、まだ花が挿してあった。


  *


 私は、その花を見ていた。


 白い、小さな花だ。宮廷の婚礼で、参列の婦人が挿すものだ。次第に書いてある。婦人は白、未婚の娘は薄紅。


 三日、馬に乗って峠を越えて、それでも挿さったままだった。


 抜く暇がなかったのだと思う。


  *


「……お水を」


 声が出た。


 出てから、それが自分の声だと気づくのに、少しかかった。


 誰かが水を持ってきた。その方は、椀を両手で持って、こぼしながら飲まれた。


 飲んでから、こちらを見上げられた。


「……式の、途中で」


「はい」


「外が、急に。それで、みなが」


「はい」


「殿下が、お立ちになって、それから」


 その方は、そこで言葉に詰まった。


  *


「あの」


 私は、膝をついた。


 ついたことに、あとで気づいた。


「参列の方は、みなさま、お逃げになりましたか」


「わかりません」


「隣国からの方は」


 その方が、私を見た。


「……隣国」


「アーレンス辺境伯が、参列していらしたはずでございます」


 言いながら、声が固くなるのがわかった。


 固くならないようにしようとして、うまくいかなかった。


  *


「見ておりません」


「……そうですか」


「広間の、東の側にいらしたと思います。わたくしは西でしたので」


「東」


「東の扉から出た方は、庭のほうへ。西は、正面へ」


 庭のほうへ。


 庭は、王宮の東にある。東の門は、軍が入ってくる側だ。


  *


 私は、立ち上がろうとした。


 立ち上がれなかった。


 膝に力が入らない。


 誰かが腕を支えてくれた。マルタだった。いつのまにか、隣に来ていた。


「お嬢様」


「……ええ」


「お嬢様。中へ」


「ええ」


 返事をしているのに、足が動かない。


  *


 ベルナー様が、こちらへ来られた。


「オルデン様。こちらは、わたくしどもで」


「……はい」


「お部屋へ」


「はい」


 言われたとおりに、動いた。


 動きながら、私は自分の顔に手を当てた。


 当てて、濡れていることに気づいた。


 人が十人以上いる場所だった。


  *


 部屋に入って、扉を閉めた。


 閉めてから、私は扉に背を預けて、そのまま座り込んだ。


 マルタが、何か言っている。聞こえているのに、意味が入ってこない。


 ——動じてはいけない。


 七つのときから、そう教わった。


 困ってもいけない、と。


 十一年、守った。書斎で九人の名前を読んだときも、広間で捨てられたときも、叔父様に出ていけと言われたときも。


 いま、守れていない。


 守れていないのを、十人が見た。


  *


 マルタが、床に膝をついた。


「お嬢様」


「……ごめんなさい」


「なぜ、お謝りになるのですか」


「人前で」


「人前で、なんでございますか」


 私は、答えられなかった。


 答えられないまま、両手で顔を覆った。


 覆った手のひらが、熱かった。


  *


 どれくらいそうしていたかは、わからない。


 窓の外が、少し白んでいた。


 マルタが、まだ横にいた。


 私は、顔を上げた。


「マルタ」


「はい」


「峠は、開いているわね」


「開いております」


「関所の人数を、増やしていただかないと」


 声が、ようやく、いつもの調子に戻った。


「越えてくる方が、増えるわ。二十人では済まない。名簿が要る。誰が、いつ、どこから来たか。書いておかないと、あとで誰も戻せなくなる」


 マルタが、私の顔を見た。


「……名簿を、お作りになるのですか」


「作るわ」


 私は、立ち上がった。


 立ち上がってから、指がまだ震えていることに気づいた。


 気づいたけれど、机まで歩けた。


読んでくださりありがとうございます!


・本作を★★★★★で評価

・ブックマーク


この二つで応援していただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。