第38話 屋根の北側だけ
書状が届いたのは、三月の十日だった。
王都からではなく、峠の宿場からだ。閣下の一行は、婚礼の四日前に王都へ入る手筈になっている。宿場で一泊なさったときに出されたのだと思う。
封を開けると、四枚あった。
*
一枚目から三枚目までは、領務だった。
北の橋の欄干の修繕について、費えの上限を示すもの。南の三家からの申し出について、返事を保留するようにという指示。それから、東の石切場の採石量を、今年は減らすようにという指示。
三枚目を、私は二度読んだ。
減らす理由は、書いていない。
書いていないけれど、たぶん、掲示のせいだ。三十年前の日付のことが領内に回った。回った直後に増やせば、居直ったように見える。減らせば、そう見えない。
こういう手当てを、この方は速い。
*
四枚目は、短かった。
三行しかない。
——南は雨でした。峠は乾いていました。王都は、まだ見ておりません。
それだけだ。
それだけなのに、私は三度読んだ。
三度目に、いちばん下に、もう一行あることに気づいた。字が小さくて、余白の下のほうに寄せてある。
——雪は、もうなくなりましたか。
*
私は、その一行をしばらく見ていた。
見てから、窓を開けた。
三月の十日で、風はまだ冷たい。城の中庭は乾いている。街道も乾いている。市の道も、橋も、どこにも雪はない。
北の棟の屋根だけ、まだ少し白い。
日が当たらないところは、遅れて溶ける。
*
返事を書いた。
領務の三枚には、それぞれ返した。欄干の費えは上限で足りる。南への返事は保留する。採石量は二割減で組み直した。組み直した表を添えた。
四枚目に、何と返すかで、手が止まった。
*
止まったのは、書くことがないからではない。
書くことは、決まっている。屋根の北側にまだ残っている。それだけだ。事実だから、書けばいい。
書けばいいのに、書けない。
書けないのは、それを書いたあとに何を書くかが決まらないからだ。
三行で終わらせれば、こちらは事実を返しただけになる。
四行目を書けば、事実ではないものを書くことになる。
*
四行目に、何を書きたいのか。
私は、ペンを置いて、考えた。
考えたけれど、言葉が出てこない。
出てこないので、いつもどおりにした。紙を一枚出して、線を三本引いた。
左に、わかること。
真ん中に、わからないこと。
右に、決めなければならないこと。
*
左に、書いた。
——契約は三月三十日に切れる。切れれば立場がない。立場がなければ、この城にいられない。
——第七条がある。いつでも出ていける。三十日を待つ必要はない。
——閣下は四月に戻られる。入れ違いになる。
三行とも、書面に書いてあることだ。
真ん中に、書いた。
——なぜ、四行目が書けないのか。
右に、書いた。
——出るか、出ないか。
これは、二十日前に一度書いた。書いて、そのままにしてある。
*
私は、右の欄をしばらく見ていた。
出るか、出ないか。
出るしかない、と思っていた。立場がなくなるのだから、いられない。それは左の欄に書いてある。書いてあることは、正しい。
正しいのに、二度とも、二択で書いた。
二択で書くというのは、両方が選べるということだ。
——いられないのに、いる。
そんな選び方が、あるだろうか。
*
あるかどうかを考えて、私はひとつ思い出した。
第七条だ。
いつでも、いかなる理由によっても、解除できる。
あれは、出ていくための条項だ。出ていく側に、何の義務も負わせない。
負わせないということは、残ることにも、何の義務がないということだ。
義務がないのに残るのは、選んだということになる。
——だから、書いたのか。
私は、そこで手を止めた。
止めて、指を組んだ。組んだ指に力が入って、また、ゆるめた。
*
いられないのに、いる。
その形を、私は書面のなかで一度だけ見たことがある。
二百年ほど前の裁定だ。ある村が、二つの領のあいだに挟まれて、どちらにも属さなくなった。属さないので、税を納める先がない。納めないので、どちらの領も守らない。
その村は、三十年そのままだった。
三十年たって、ようやく取り決めができた。取り決めの一行目に、こう書いてある。
——当該村落は、いずれにも属さず、両者これを守るものとする。
属さないまま、守られる。
書式としては、めちゃくちゃだ。属していないものを守る義務は、どこからも出てこない。
それでも、三十年もった。
もったのは、守っていた人がいたからだ。
義務がないのに守るのは、選んだということになる。
*
あの方は、あれを「私のためです」と仰った。
行き場がないから受けたのだと思われるのが厭だ、と。取り決めは、両方が断れるときにだけ成り立つ、と。
断れるようにしておいて、それから。
それから、どうなることを望んでいらしたのか。
訊いていない。
訊いていないので、わからない。
わからないけれど、いま、私にはひとつだけわかることがある。
*
私は、立ち上がった。
部屋を出て、階下へ降りて、ベルナー様を探した。
厨房の脇で見つかった。
「オルデン様。いかがなさいました」
「棚を、お願いしたいのです」
「棚」
「あと二列。いえ、三列」
ベルナー様が、少し驚かれた。
「三列でございますか」
「はい。南の綴りの照合が、あとひと月では終わりません。侍従だった方の分もございますし、これから届くものもございます」
「……これから」
「はい」
*
ベルナー様は、しばらく私の顔を見ていらした。
「オルデン様。棚は、注文いたしますと、届くのに二十日ほどかかります」
「存じております」
「今日お頼みになりますと、届くのは、三月の末でございます」
「はい」
「三月三十日を、過ぎるかもしれません」
私は、頷いた。
「過ぎると思います」
*
ベルナー様は、何も仰らなかった。
仰らないまま、しばらく厨房の壁を見ていらした。
それから、こう仰った。
「三列で、よろしゅうございますか」
「三列で」
「かしこまりました」
*
部屋に戻って、私は四枚目の返事を書いた。
三行で済ませた。
——屋根の北側に、まだ少し残っております。日の当たらないところは、遅れて溶けるようでございます。あとひと月ほどで、なくなると思います。
書いてから、四行目を書いた。
四行目は、一行だ。
——棚を、三列注文いたしました。届くのは、月の末でございます。
*
書いてから、封をした。
封をして、卓に置いて、それから、椅子に座った。
座って、自分がいましたことを、頭のなかでもう一度なぞった。
私は、三月三十日以降に届くものを注文した。
注文したものは、届く。届いたときに、受け取る者が要る。
誰も要らないとは、誰も仰っていない。
私が要ると決めた。
*
窓の外が、暗くなっていた。
灯りをつけずに、私はしばらくそのままでいた。
こわい、と思っていたのが、二十日前だ。
いまも、こわい。
こわいのは、たぶん、これから先のことがひとつも書式になっていないからだ。契約が切れたあと、私がどういう立場で、どこに住んで、何をして、誰から給金をいただくのか。
何ひとつ、決まっていない。
決まっていないものの上に、立とうとしている。
十一年、こんなことをしたことがない。
*
膝の上で、手を組んだ。
組んだまま、私は小さな声で言ってみた。
「……残ります」
誰も聞いていない。
誰にも申し上げていない。あの方にも、マルタにも、ベルナー様にも。棚を三列頼んだだけだ。
それでも、声に出すと、決まったことになった。
私は灯りをつけた。
つけてから、目のあたりが熱いことに気づいた。
三度目だ。
一度目は馬車のなかで、二度目は照会状を読んだ夕方で、今度が三度目。
三度とも、理由が違う。
今度のは、いちばん、わからなかった。
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