第37話 城が自分の間違いを書いた
閣下が発たれて、五日経った。
五日目の朝、私は抽斗を開けた。
二つ入っている。三十年前の日付の写しと、侍従だった方の十四枚の写し。どちらも封をしていない。
三十年前のほうを取り出した。
*
ベルナー様に、掲示の文案をお見せした。
読まれて、しばらく黙っていらした。
文案は、こうだ。
——三十一年前、二十九年前、三十年前の三件について、城の控えと南の綴りに日付の食い違いがある。城の控えのほうが、いずれも二週間早い。同じ向きに揃っているため、写し違いとは考えにくい。
その下に、三件の日付を並べた。
いちばん下に、こう書いた。
——書き換えた者の名は、残っていない。名を残す慣行が、当時なかったためである。
*
「オルデン様」
「はい」
「これを、閣下のご不在中に出されますか」
「はい」
「なぜ、お待ちにならないのですか」
私は、少し考えた。
考えて、正直に申し上げた。
「お戻りになってから出しますと、閣下がお決めになったことになります」
「そうなりますな」
「そうなりますと、閣下が父君の代の非をお認めになった、という形になります」
「悪い形ではございません」
「悪い形ではございません」
私は、そこで頭を下げた。
「ただ、負っていただく理由がございません」
*
ベルナー様は、文案をもう一度読まれた。
「これを出しますと、南が騒ぎます」
「騒ぎます」
「石切場の帰属を、覆せと言い出す者が出るかもしれません」
「覆りません。三十年経っておりますので」
「覆らないと知っていて、言う者はおります」
「おりましょうね」
私は、そう申し上げた。
「そのときに、この掲示が要ります」
*
「……と、申しますと」
「言い出す者は、必ず、城は日付を書き換えた、と言います。言われた側は、その場で確かめられません。確かめられないと、言い返せない」
「はい」
「掲示が出ておりますと、確かめられます。城が自分で出したものですので、争いようがございません」
ベルナー様は、文案を持ったまま、こちらを見ていらした。
「……先に出しておくと」
「はい。先に出しておくと、武器になりません」
*
掲示は、翌日に出た。
北の橋と、南の四か所。城の門にも貼った。
貼った日の午後、私は北の橋まで見に行った。
人が七人ほど、前にいた。
読んで、話して、また読んでいる。ひとりが指で日付をなぞって、隣の者に何か言っていた。
私は、少し離れたところに立っていた。
*
石を運ぶ荷主が、通りかかった。
あの方だ。橋で羊毛と揉めて、半刻を明朝に繰り越した方。
「あんた」
「はい」
「これも、あんたかい」
「……はい」
「城が悪いって書いてあるな」
「書きました」
その方は、掲示をもう一度見て、それから、こう言われた。
「城の人間が、城が悪いって書くのか」
「そうなります」
「珍しいこともあるもんだ」
二度目だった。
*
南から人が来たのは、その二日後だった。
ハーゲン様と、南の三家の当主が二人。
城の一室で会った。三人とも、掲示の写しを持っていらした。
「オルデン殿」
「はい」
「これを、あなたが出されたと聞いた」
「出しました」
南の当主のおひとりが、身を乗り出された。
「では、石切場を返していただけますな」
*
「返りません」
私は、そう申し上げた。
「三十年前の帰属は、三十年経っております。この領の定めでは、二十年で争えなくなります。第十一条でございます」
「……調べておいでか」
「調べました」
「では、なぜこれを出した」
*
「返らないからでございます」
三人が、こちらを見た。
「返るのでしたら、出しません。返る話を城が自分から出すのは、ただの譲歩でございます。譲歩は、そのとき限りのものです」
「では、これは何だ」
「記録でございます」
私は、卓の上の写しを指した。
「三十年前に、この城は日付を書き換えました。それが起きたということが、これで残ります。残っておりますと、次に同じことをする者が出たときに、皆が気づきます」
「三十年後の話をしておられるのか」
「はい」
*
南の当主が、笑われた。
笑い方に、棘があった。
「あなたは、三月で出ていくと聞いておるが」
「出ます」
「出る者が、三十年後の心配をするのか」
私は、少し黙った。
黙ってから、こう申し上げた。
「出る者しか、できません」
*
「……なんと」
「残る者は、書けません」
私は、卓の写しに手を置いた。
「残る者がこれを書きますと、明日から、書いた者として扱われます。城の非を暴いた者と、そう呼ばれます。呼ばれた者は、その先ずっと、城の側からも南の側からも半分ずつ疑われます」
「そうなるな」
「わたくしは、出ます。出る者を、疑っても仕方がございません」
*
ハーゲン様が、そこで初めて口を開かれた。
「オルデン殿」
「はい」
「あんたは、出ていくために、これを書いたのか」
私は、その問いに、答えられなかった。
考えたことがなかった。
考えたことがなかったので、考えた。
考えて、たぶん、そうなのだと思った。
「……出ていく者にしかできないことを、探しておりました」
「探して、これを見つけたと」
「はい」
*
ハーゲン様は、しばらく私を見ていらした。
それから、南の二人のほうを向かれた。
「石切場は、返らん」
「しかしハーゲン殿」
「返らんものを言い立てても、疲れるだけだ。それより、これを見ろ」
その方は、掲示の写しの、いちばん下の行を指された。
——書き換えた者の名は、残っていない。名を残す慣行が、当時なかったためである。
「これから、名を残す」
「……は」
「南の綴りにも、書いた者の名を入れる。城もそうする。三十年後に、また同じことが起きたら、そのときは名がある」
*
三人が帰られたあと、私は部屋に戻った。
窓を開けた。
三月の初めで、風がまだ冷たい。雪はもう、屋根にしか残っていない。
——なくなりますので。
冬に、この方はそう仰った。雪は三月にはなくなると。
なくなりかけている。
*
夕方、マルタが入ってきた。
「お嬢様。門のところに、人が」
「どなた」
「北の橋の役人の方と、市の方が三人と、それから、石を運んでいらっしゃる方が」
「何かございましたか」
「いえ、その」
マルタは、少し言いにくそうにした。
「お礼を申し上げたいと」
*
降りていった。
門のところに、五人立っていた。手ぶらではない。ひとりが、布に包んだものを持っている。
「オルデン様」
北の橋の役人が、前に出られた。
「掲示のことでございます」
「はい」
「あの、うまく申し上げられないのですが」
その方は、そこで詰まった。
詰まって、それから、こう仰った。
「城が、自分の間違いを書いたのは、初めてでございます」
*
布の包みは、石だった。
東の石切場の石を、掌に載る大きさに削ったものだという。表面が磨いてあって、灯りにかざすと少し光る。
「つまらないものでございますが」
「……いただきます」
「橋の敷石と、同じところの石でございます」
私は、それを両手で持った。
思っていたより、重かった。
*
部屋に戻って、机の上に石を置いた。
置いて、しばらく座っていた。
——嬉しい。
その言葉が、いちばん近かった。
近いというより、それしかなかった。ほかの言い方を探して、見つからなかった。
十一年、書面で人に礼を言われたことがない。名を書かなかったので、言いようがなかった。
言われてみると、こういうものか、と思った。
*
石を、灯りにかざした。
中に、細かい粒が入っている。光が当たると、それが少し動いて見える。
私は、それをしばらく見ていた。
見ながら、二十一日、と数えていた。
数えてから、今度は、逃げるために数えたのではないことに気づいた。
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