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第36話 三月三十日

 書面が届いたのは、二月の末日だった。


 城の役所から回ってきたものだ。封は、この領のもの。中身は、契約に関する定期の通知だった。


 ——本契約第三条に基づき、乙が三派の承認を受けた調停者であることの確認を求める。確認の期限は、失効日の前日とする。失効日は、三月三十日。


 一枚だ。


 書式どおりの、事務的な文面だった。


  *


 私は、その一枚を三度読んだ。


 三度読んで、不備がないことを確かめた。


 確かめてから、卓に置いた。


 置いてから、指が冷たいことに気づいた。


  *


 確認は、できない。


 三派の承認が有効であることを確かめるには、三派すべてから、そう言ってもらう必要がある。三派はいま、同じ紙について同じことを言えない。言えないから、この半年、私は何もしなかった。


 言えないものを、あと三十日で言わせることはできない。


 できないので、契約は失効する。


 三月三十日。


  *


 わかっていた。


 十二月に数えて、同じところに来た。二度数えて、二度とも同じだった。あのときから、この日は決まっていた。


 決まっていたものが、紙になった。


 紙になると、違う。


  *


 私は、椅子の背にもたれた。


 もたれてから、背もたれがあることに驚いた。書斎の椅子には、背もたれがなかった。もたれると眠くなると、父様が仰った。


 いま、もたれている。


 ——三十日後、わたくしはここにいない。


 いない、というのは、この椅子に座っていないということだ。この部屋にも、この城にも、この領にもいない。


 どこにいるか。


 決めていない。


  *


 行き先を決めるのは、二度目だ。


 一度目は、地図を広げて、条件を三つ数えた。乾いていること、火の気のないこと、どの派にも属していないこと。


 三つとも、木箱のための条件だった。


 二度目は、木箱がある。置き場所は決まっている。ここに置いてある。


 置いてあるものを、持ち出すかどうかから決めなければならない。


 持ち出せば、また同じことになる。国内には置けない。国外にも、あてがない。


 置いていけば——


  *


 置いていくと、あれは領のものになる。


 二の条項がある。所有と処分の権は私個人に留保する。留保されているものは、私が出ていけば、私と一緒に出ていく。


 置いていくには、譲るしかない。


 譲れば、あれは領の記録になる。領の記録になったものは、三派にとって、片方の国の持ち物だ。


 どちらの紙でもなくなるどころか、はっきり片方の紙になる。


 ——だめだ。


 私は、そこまで考えて、両手で顔を覆った。


 覆ってから、覆ったことに驚いた。


  *


 こわい。


 その言葉が、いちばん近かった。


 不快でも、悲しみでもない。腹の下のあたりが冷たくて、指の先まで届いていない感じ。


 こわいと思ったのは、いつ以来だろう。


 三年前の冬、書斎の床に散らばった束を拾ったとき。あのときは、こわいと思う前に手が動いた。動いてしまえば、こわがる暇がない。


 いま、手が動かない。


 動かす先がない。


  *


 私は、卓の上の一枚を裏返した。


 裏返して、しばらくして、また表に返した。


 ——第七条。


 いつでも、いかなる理由によっても、解除できる。違約金も、返還義務も、引き継ぎの義務も負わない。


 あの条項がある。


 いつでも出ていける。


 出ていけるということは、出ていく日を自分で決められるということだ。三月三十日を待つ必要がない。


 待たずに出れば、こわがる時間が短くて済む。


  *


 そう考えて、私は自分の考え方に気づいた。


 こわがる時間を短くするために、早く出る。


 それは、決めているのではない。


 逃げている。


 ——十一年、そうやってきた。


 婚礼の話が出るたび、来年に、来年にとお願いした。あれも、決めていない。先延ばしにしていた。


 先延ばしにしていたら、三年で二領が傾いた。


 私は、卓の上の一枚を、抽斗に入れた。


 入れて、鍵をかけた。


  *


 午後、マルタが入ってきた。


 私は卓に向かっていた。向かっていたけれど、何も書いていない。紙は出してある。ペンも出してある。


「お嬢様」


「なあに」


「お書きになりませんか」


「書くことがないの」


 マルタは、盆を置いた。


 置いてから、下がらなかった。


「お嬢様。左と右のほかに、もうひとつ欄をお作りになったらいかがでしょう」


 私は、顔を上げた。


「もうひとつ」


「はい。わかることと、わからないこととは別に」


「別に、何を」


「決めなければならないこと、でございます」


  *


 私は、しばらくその子を見ていた。


 見てから、紙を一枚、新しく出した。


 三本、縦に線を引いた。


 左に、わかること。真ん中に、わからないこと。右に——


 右に、何と書くかで、少し手が止まった。


 止まって、書いた。


 ——三月三十日までに、決めること。


 その下に、一行だけ書いた。


 ——出るか、出ないか。


 書いてから、私はペンを置いた。


 置いて、その一行を長いこと見ていた。


 三月三十日に契約が切れる。切れれば、立場がなくなる。立場がなければ、この城にいられない。


 いられないのだから、出るしかない。


 出るしかないのに、なぜ「出るか、出ないか」と書いたのか。


  *


 夕方、ラウル様に呼ばれた。


 城の一室ではなく、玄関の前だった。


 荷が積まれている。馬が六頭、供が十二人。峠を越えて、王都へ行かれる。


「オルデン嬢」


「はい」


「明朝、発ちます」


「……はい」


「通知は届きましたか」


「届きました」


 その方は、荷のほうを見ていらした。


「三月三十日ですね」


「はい」


「私が戻るのは、四月に入ってからです」


  *


 私は、そこで頭を下げた。


「お発ちの前に、お伺いしたいことがございます」


「どうぞ」


「三十日に契約が切れましたあと、宝物庫の扱いを、どのようにいたしましょうか」


 ラウル様は、こちらを向かれた。


「どのように、とは」


「わたくしが出ますと、あれも出ます。二の条項がございますので」


「そうですね」


「置いてまいります場合は、譲渡の書式が要ります。いま作っておけば、間に合います」


  *


 しばらく、返事がなかった。


 やがて、その方は仰った。


「作らないでください」


「……はい」


「作れば、使うことになります」


「……」


「私は、あれを領のものにしたくない。それは、あなたも同じでしょう」


 私は、頷いた。


「では、作らないでおきましょう」


  *


「オルデン嬢」


「はい」


「三月十四日の返事ですが」


 私は、顔を上げた。


 忘れていた。忘れていたというより、決めないまま、日が過ぎた。


「……行きません」


「わかりました」


「理由を、お作りいただかねばなりませんが」


「病でよいでしょう。冬の峠を越えられなかったことにします」


 その方は、少し笑われた。


「峠は開いていますが、王都からは見えません」


  *


 私は、頭を下げた。


 下げてから、顔を上げるのが少し遅れた。


「閣下」


「はい」


「お戻りになるのは、四月に入ってから」


「そうです」


「わたくしは、三十日でございます」


「そうですね」


 その方は、そこで、少しのあいだ何も仰らなかった。


 馬の一頭が、鼻を鳴らした。


「では、入れ違いになりますね」


「……はい」


  *


「オルデン嬢」


「はい」


「第七条を、覚えていらっしゃいますか」


 三度目だ。


「覚えております」


「あれは、期限とは関係がありません」


「……はい」


「三十日を待つ必要はありません。明日でも、明後日でも、出ていけます」


 私は、その言い方を頭のなかでなぞった。


 なぞって、意味が取れなかった。


 早く出ろと仰っているのか。


 それとも——


  *


「同じことです」


 ラウル様は、そう続けられた。


「三十日に出るのも、明日出るのも、待たされて出るのと、自分で出るのとの違いだけです」


 私は、荷のほうを見た。


 六頭の馬に、十二人。ひと月半の旅だ。


「……閣下」


「はい」


「それは、待たなくてよいという意味でしょうか」


「いいえ」


 その方は、はっきりそう仰った。


「待ってもいいし、待たなくてもいい。どちらでも、あなたが決めたことになる、という意味です」


  *


 翌朝、一行は発たれた。


 城の門で見送った。マルタと、ベルナー様と、それから侍従だった方と、四人で立っていた。


 橋を渡って、西の道へ入る。西が王都だ。


 見えなくなるまで見ていた。


 見えなくなってから、私は指を折った。


 三十日。


 折ってから、なぜ折ったのだろうと思った。


 数えたところで、決まるものではない。


 決めるのは、私だ。


 ——それが、こわい。


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