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第35話 名をお書きください

 その方が着いたのは、二月の終わり近くだった。


 峠は開いているが、まだ雪が残っている。それを越えてきたにしては、装備が軽すぎた。外套一枚と、鞄がひとつ。


 城の門で倒れて、ベルナー様が中に運ばせたという。


  *


 翌日の午後に、会った。


 三十くらいの方だった。顔に見覚えはない。ただ、着ているものの仕立てで、宮内の者だとわかった。


「殿下付きの侍従を、しておりました」


 でした、と仰った。


 この半年で、その言い方を二度聞いた。


  *


「お暇を出されたのですか」


「出ました」


「出た」


「はい。……逃げてまいりました」


 その方は、湯の椀を両手で持っていらした。手が震えているのは、寒さのせいばかりではないと思う。


「何から」


「わかりません」


「わからない」


「わからないので、逃げました」


  *


 話は、要領を得なかった。


 得ないので、私は順を追って伺うことにした。いつ、誰が、何を。書面を読むときと同じ順だ。


 三度伺い直して、ようやく形になった。


  *


 この冬、王太子殿下は裁定を出し続けていらっしゃる。


 ご自分で決めると宣言されたのが、秋。それから五月で、出された裁定は二百件を超えた。


 速い。


 速いのは、相談されないからだ。相談しなければ、その場で決まる。


「二百件でございますか」


「数えたのはわたくしでございます」


 その方は、そこで初めて顔を上げられた。


「数えるのが、わたくしの仕事でございましたので」


  *


 二百件という数を、私は頭のなかで割ってみた。


 五月で二百件。ひと月に四十件。二日に三件近い。


 書斎で、私が返事を書いていたのは、多い日で四十通だった。四十通のうち、裁定にあたるものは、月に十件あるかないかだ。残りは照会と、確認と、写しの請求で、返事を書けば済む。


 裁定は、十件で足りていた。


 足りていたのは、その手前で消えていたからだ。橋の上で荷が向かい合ったとき、役人が収める。収まらないものだけが上がってくる。


 上がってくる前に、たいていは収まる。


 二百件というのは、収める者が誰もいなくなった数だ。


  *


 二百件のうち、取り消されたものが、いくつあるかを伺った。


「ございません」


「一件も」


「一件も。殿下は、お取り消しになりません」


 私は、少し考えた。


「では、間違いは」


「ございます。ずいぶん」


「どうなさっておいでですか」


「……重ねておいでです」


  *


 間違えた裁定を取り消さずにいると、次の裁定でそれを前提にすることになる。


 前提にすると、二件目も傾く。


 三件目は、二件を前提にする。


 四百年、それをやらせないために、確かめる者がいた。


 いまは、いない。


 二百件が、どういう形に積み上がっているかを、私は考えようとして、やめた。


 やめたのは、考えても仕方がないからではない。


 考えたら、たぶん、私は書式を作りはじめる。


  *


「それで、なぜ逃げてこられたのですか」


「商会が」


 その方は、椀を置かれた。


「ヴァレン商会が、宮内から人を引きはじめました。この一月で、七人でございます。みな、書面を扱う者から」


「引く、と申しますと」


「よそへ移る話がついたのだと思います。給金を出しておりますのは、いまや商会でございますので」


  *


 府の給金が、遅れている。


 遅れているぶんを、商会が立て替えている。立て替えているうちに、誰が主人かがわからなくなる。


 わからなくなったところで、商会が人を選びはじめた。


 連れていく者と、置いていく者を。


「あなたは」


「置いていく側でございました」


 その方は、そう仰った。


「数えるだけの者は、要らないそうでございます」


  *


 私は、しばらく黙っていた。


 黙ってから、こう伺った。


「殿下は、ご存じですか」


「ご存じないと思います」


「なぜ」


「お伝えする者が、もうおりません」


  *


 担いだ側が、担いだ相手を捨てる。


 筋は通っている。


 商会は、殿下を担いだ。ご自分で決める方だから、話が早い。早ければ、商会は動きやすい。


 動いてみたら、効かなかった。効かなかったのは、四百年ぶんの鈍さのせいだ。


 鈍いものは、賢い一人が動かしても曲がらない。


 曲がらないので、商会は損を出した。三割下げで吐き出した。


 損を出した者は、次に、身軽になろうとする。


 身軽になるというのは、抱えたものを降ろすことだ。


 殿下は、荷だ。


  *


 私は、椀に湯を足した。


「こちらに、置いてほしいということでよろしいですか」


「……ご迷惑でなければ」


「迷惑ではございません」


 その方が、目を上げられた。


「ただ、条件がございます」


「なんなりと」


「いま伺ったことを、すべて書面にしていただきます」


  *


 その方の顔が、固くなった。


「書面に」


「はい。いつ、誰が、何をしたか。数字は数字のまま。伝聞は伝聞と書いてください」


「……それは」


「日付を入れて、いちばん下に、あなたのお名前をお書きください」


  *


 その方は、椀を握ったまま動かれなかった。


「名を、でございますか」


「はい」


「名を書きますと、戻れません」


「はい」


「わたくしは、いずれ戻るつもりで」


 私は、そこで少し待った。


 待って、それから伺った。


「お戻りになるおつもりですか」


 その方は、答えられなかった。


 答えられないまま、しばらく湯気を見ていらした。


「……いいえ」


「では、書けます」


  *


 なぜ名を書かせるのかを、私は説明しなかった。


 説明すると長くなる。それに、この方はもう半分わかっていらっしゃる。名を書いた紙は、書いた者を縛る。縛るから、信じられる。


 信じられる紙は、四百年残る。


 残ってどうするのかは、私にもわからない。


 わからないけれど、残さなければ、この方が数えた二百件は、この世のどこにもなかったことになる。


 数えた者が、この方しかいないからだ。


  *


 書いていただくにあたって、もうひとつだけ申し上げた。


「よくないことも、そのままお書きください」


「よくないこと、と申しますと」


「あなたご自身の落ち度でございます」


 その方が、湯の椀を持つ手を止められた。


「……ございます」


「ございましょうね」


「二百七件のうち、七件は、わたくしが写し間違えました。間違えたまま出ております」


「では、七件と書いてください」


「書きますと」


「書きますと、残りの二百件が信じられるようになります」


  *


 その方は、しばらく黙っていらした。


「……そういうものでございますか」


「そういうものでございます」


 落ち度のない書面は、たいてい嘘だ。四百年ぶんを読むと、それがわかる。落ち度が書いてあるものほど、あとで役に立つ。


 役に立つのは、書いた者が自分に不利なことを書いたという一点で、その紙が信じられるからだ。


「わたくしは、褒められたくて逃げてきたわけではございません」


 その方が、そう仰った。


「では、ちょうどようございます」


  *


 三日かけて、その方は書かれた。


 十四枚あった。


 字は、丁寧ではない。急いで書いたのがわかる。数字だけが、やけに正確だった。二百七件。取り消されたもの、零件。府から人が引かれたもの、七人。名前が、七人ぶん並んでいる。


 いちばん下に、その方の名があった。


  *


 私は、その十四枚を読んで、それから、写しを二通作った。


 一通は、宝物庫へ。


 もう一通を、どうするかは決めていない。


 決めていないので、抽斗に入れた。


 抽斗には、三十年前の日付の写しが入っている。封をせずに置いたままだ。


 二つ並んだ。


 どちらも、まだ出していない。


  *


 その晩、ベルナー様が来られた。


「オルデン様。あの方を、どうなさいますか」


「置いてさしあげてください」


「かしこまりました。……お仕事は」


「数えることが、お上手だそうでございます」


 私は、そう申し上げた。


「照合の手が足りません。お願いできますか」


 ベルナー様が、少し笑われた。


「明日から、お使いください」


  *


 部屋に戻って、灯りを消した。


 消してから、暗いなかで、こう思った。


 ——満足だ。


 その言葉が、いちばん近かった。


 湯を出して、話を聞いて、名を書かせて、仕事を用意した。それだけのことだ。それだけのことに、私は満足している。


 満足しているのは、たぶん、あの方が数えた二百七件が、これで残ったからだ。


 残ったところで、誰も読まない。


 いまは、誰も読まない。


 いつか、誰かが読む。


 読んだときに、そこに名前がある。


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