第33話_こちらの誠意は尽くした
峠が開いたのは、二月の半ばだった。
開いた三日後に、使者が来た。
名乗ったのは、王太子妃となられる方の家の者、ということだった。ヴィント男爵家の家令だという。
ベルナー様が、応対に出られた。
*
私は、東棟の部屋にいた。
ベルナー様が上がってこられて、扉のところで仰った。
「オルデン様。お会いになりますか」
「ご用件は」
「書状の取り回しについて、直接ご教示を賜りたいと」
私は、机の上の綴りを閉じた。
「文面は」
「口上でございます。書面は持っておりません」
*
書面がない。
それだけで、だいたいわかった。
書面を持たせないというのは、記録に残さないということだ。残さないのは、記録に残ると困ることを頼むときだ。
あるいは——残す必要を、そもそも考えていない。
「ベルナー様。口上を、そのままお聞かせいただけますか」
「そのままで、よろしいのですか」
「そのままで」
ベルナー様は、少し言いよどんでから、話された。
*
「——先般、宰相府に書状の分け方が届いたと聞き及んだ。あれではまだ足りない。妃殿下がお困りである。残りについても教示を賜りたい。ついては、お手元の記録のうち、宮内の取り回しに関わる部分を写して寄越されたい。急ぎである」
私は、ベルナー様の顔を見た。
「……以上でございますか」
「以上でございます」
*
しばらく、何も言えなかった。
言えなかったのは、腹が立ったからではない。
二枚は、届いていた。
届いて、読まれて、足りないと判断された。判断されたということは、使われたということだ。使われたのなら、それでいい。それを望んで出した。
問題は、そのあとだ。
——残りについても、教示を賜りたい。
残りがある、と思っていらっしゃる。
*
残りは、ない。
あの二枚が、私の十一年の分け方の全部だ。語と印で分ける、というのは、そういう方法だ。方法を書いたので、あとは自分でやるしかない。
やるしかないものを、やらずに、続きを求めていらっしゃる。
求めているのは、たぶん、続きがあると思っているからだ。
教われば分かると思っている。
二枚読んで足りなかったなら、三枚目があるはずだと思っている。
——ないのだ。
三枚目はない。あるのは、四十通を毎朝開けて、日付を見て、語を見て、印を見て、それを二年か三年続けることだけだ。
続けたところで、たいていのことはわからない。わからないまま、決める。決めて、間違える。間違えて、直す。
それを、私は十一年やった。
*
「ベルナー様」
「はい」
「口上に、お礼の言葉はございましたか」
ベルナー様が、少し目を上げられた。
「……ございません」
「対価のお話は」
「ございません」
「では、返事はいたしません」
*
「お会いになりませんか」
「会いません」
「先方は、しばらく城に留まると申しております」
「留まっていただいて構いません」
私は、机の上の綴りを開き直した。
「取り次がないでください」
*
ベルナー様は、扉のところで少し立っていらした。
「オルデン様。差し出がましいのですが」
「はい」
「腹を立てていらっしゃいますか」
私は、手を止めた。
止めて、少し考えた。
「……いいえ」
「では、なぜ」
「返せるものが、ないからでございます」
*
嘘ではなかった。
嘘ではないけれど、それが全部でもなかった。
残りがない、というのは事実だ。事実だけれど、会って、そう申し上げることはできる。三枚目はございません、あとはご自身でなさるほかありません、と。
申し上げれば、たぶん、あの家令は納得しない。納得しないので、押す。押されても、私には出すものがない。ないものを出せと押されつづける。
それが厭だった。
厭だ、という言葉を、私は最近覚えた。
*
昼過ぎ、窓から中庭が見えた。
その家令は、中庭で待たされていた。椅子は出されている。茶も出ている。ベルナー様は、そういうところは抜かりがない。
私は、その方を上から見ていた。
五十くらいの方だ。背が丸くなっている。上着は仕立てのいいものだけれど、袖口が擦れていた。新調していないのだと思う。
男爵家は、豊かではない。
豊かでない家の娘が王太子妃になると、家が急に忙しくなる。忙しくなっても、人は増えない。増やす銭がないからだ。
この方も、半年前まで、こんな遠くまで来る立場ではなかったはずだ。
窓から離れた。
離れてから、机に戻って、綴りを開いた。
開いて、三行読んで、また窓のほうを見た。
*
その日の午後、マルタが厨房から戻ってきて、こう言った。
「お嬢様。あの方、階下でずいぶん喋っておいでです」
「お客様のことを、そう言うものではないわ」
「はい。……ですが」
マルタは、盆を置いてから続けた。
「聞こえてしまいましたので」
*
その家令は、厨房の者に愚痴をこぼしていたのだという。
こぼしたのは、こういうことだった。
——妃殿下は、もう長くない。
言い方が乱暴なので、マルタは二度言い直した。二度目でも、意味は同じだった。
ヴァレン商会が、王家への貸付を絞りはじめている。婚礼の費えも、当初の話より削られた。式の次第も、家格を整える手続きが間に合わず、簡略なものになる。
男爵家に付いた商会の者が、このごろ来なくなった。
——切られる。
そういう話だった。
*
「お嬢様。よろしいのですか」
「なにが」
「あの方は、切られるのでございましょう」
私は、綴りから顔を上げた。
「そうかもしれないわね」
「切ったのは、あの商会でございますよね」
「そうね」
「担いだのも、同じ商会でございますよね」
この子は、そういうところに気がつく。
私は頷いた。
*
担いだ側が、担いだ相手を捨てる。
筋は通っている。
商会は、王太子殿下を担いだ。担いだのは、殿下がご自分で裁定を下すと仰る方だからだ。決める者がひとりになれば、話が早い。早ければ、商会は動きやすい。
動いてみたら、効かなかった。
効かなかったので、抱えを吐き出して、三割の損を出した。
損を出した者は、次に、身軽になろうとする。
身軽になるというのは、抱えた荷を降ろすことだ。
男爵家の娘は、荷だ。
*
夕方、家令の方は帰られた。
三度、面会を求められて、三度とも取り次がなかった。
最後に、ベルナー様に言付けを残されたという。
「——こちらの誠意は尽くした、と」
「そうですか」
「お伝えしました」
誠意。
その言葉を、私は少し考えた。
書面もなく、礼もなく、対価の話もなく、急ぎであるとだけ告げる。それを誠意と呼ぶには、こちらとあちらで、言葉の意味がずいぶん違う。
違うのは、たぶん、あの家がまだ「求めれば来る」側にいるからだ。
求めれば来る。
男爵家は、この半年、そうやって生きてきたのだと思う。求めれば来た。何もかも来た。
来るのが当たり前になった人は、来ないことに理由があると思わない。
こちらが意地悪をしていると思う。
*
部屋に戻って、灯りをつけた。
机の上に、六枚の照会状がある。裏返したままだ。
私は、それを表に返した。
——前の方は、どのようになさっていたのでしょうか。
丁寧な字だ。
この字を書いた方と、今日の口上を持ってきた方は、たぶん、同じ考えでいらっしゃる。
教われば分かる。
求めれば来る。
どちらも、支えられてきた人の考え方だ。
支えられていたことを、知らない。
*
私は、六枚をもとの順に揃えた。
揃えて、抽斗に戻した。
戻してから、鍵をかけた。
この抽斗に鍵をかけたのは、初めてだった。
*
鍵をかけてから、宝物庫の鍵のことを思い出した。
二本、袂に入れてある。扉の錠前と、内側の格子。半年近く、ずっと持っている。
持っているだけで、一度も、誰かに渡すか渡さないかで迷ったことがない。
迷わないのは、あれが預かりものだからだ。預かりものは、渡す先が決まっている。決まっていないうちは、渡さない。それだけのことだ。
いま鍵をかけた抽斗は、預かりものではない。
あれは、私宛に届いたものだ。
私宛に届いたものを、私は初めて、しまい込んだ。
しまい込む理由が、自分でもよくわからない。
わからないので、右の欄に書くことにした。
紙を出して、書いた。
——なぜ、あの六枚を鍵のかかるところに入れたか。
書いてから、その下に、もう一行足そうとして、やめた。
やめたのは、下に書くべきことが、たぶんひとつしかないからだ。
ひとつしかないものを書くのは、答えを書くのと同じだ。
私は、右の欄に答えを書かないことにしている。
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