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第32話 出どころは問わず

 三日、仕事にならなかった。


 照合の続きを開いても、字が入ってこない。入ってこないので、同じ行を三度読む。三度読んで、意味が取れたころには、なぜそれを読んでいたのかを忘れている。


 こういう状態を、私は知らなかった。


 熱があるときとは違う。熱のときは、手が動かないだけで、頭は動く。いまは逆だ。手は動く。動くのに、行き先がない。


 四日目に、あきらめた。


 あきらめて、机の抽斗から、六枚の照会状を出した。


  *


 答えられる問いは、二つだ。


 日付の見方と、急ぐ順の決め方。


 書けば三行で済む。書式を添えれば、もう少し確かになる。


 問題は、宛先だった。


  *


 エルナ様宛に出すことはできない。


 出せば、その紙は「オルデン嬢が男爵令嬢に送ったもの」になる。あの広間で捨てられた女が、その場所に座った女に、教えを垂れた形になる。


 そう読まれれば、あの方はもう使えない。使えば、負けを認めることになる。


 人は、負けを認めながら仕事をすることができない。


 私も、できなかったと思う。


  *


 軍務府の方宛に出すことも、できない。


 あの方は、私の一存です、と書いてこられた。返せば、往復になる。往復した記録が残れば、あの方が困る。


 困る人を増やすのは、書式に反する。


  *


 夜中に、一度だけ、エルナ様宛の文面を書いてみた。


 書いてみたというより、手が勝手に動いた。


 ——お手紙、拝見いたしました。


 そこで止まった。


 次に何を書くかを考えて、思いついたものが全部、上から物を言う形になった。日付をご覧ください。急ぐ順は、こうお決めください。


 どう書いても、そうなる。


 教える文面というのは、そういうものだ。教える側が上に立たないと、文が組めない。


 組めないので、私はその紙を丸めて、暖炉に入れた。


 入れてから、燃えるのを見ていた。


 燃えるのを見ながら、こう思った。


 ——上から物を言いたくないのではない。


 言いたくないのは、事実だ。事実だけれど、それより先に、私はあの方に読まれたくない。


 私が書いたものだと知られたくない。


 知られると、あの方は、たぶん受け取れない。


 ——本当にそうだろうか。


 わからなかった。


  *


 二日考えて、三日目に思いついた。


 思いついた方法は、冬に自分でやったことと同じだった。


 ——誰が求めたかを、残さない。


 求めた者が残らなければ、その紙は誰のためのものでもなくなる。誰のためのものでもない紙は、誰でも使える。使っても、負けにならない。


 私は、机に向かった。


  *


 作ったのは、二枚だ。


 一枚目に、日付の見方。届いた日付と、書面に記された期限。期限のあるものを先に、ないものを後に。期限が同じなら、関わる家の数が多いほうを先に。


 二枚目に、渡し先の見分け方。


 これは長くなった。宮内のどこに何を扱う者がいるか、という話は、名簿では書けない。名簿は毎年変わるし、名簿どおりに動いていない。


 だから、名簿ではなく、書面のほうから書いた。


 ——この語が入っている書状は、ここへ。この印が押されている書状は、ここへ。


 語と印で分ける。人ではなく、紙で分ける。


 人は替わる。紙の形は、そう簡単には替わらない。


  *


 書きながら、私は妙な気分になった。


 これを、私は十一年、頭のなかだけに置いていた。


 置いていたのは、書けなかったからではない。書く必要がなかったからだ。私が全部やるのだから、私が覚えていればいい。


 いま、書いている。


 書くと、思っていたより短かった。


 二枚だ。


 十一年ぶんの分け方が、二枚に収まった。


  *


 収まったことに、私は少し腹を立てた。


 腹を立てる相手が、また自分だった。


 二枚で済むものを、私は書かなかった。書かなかったので、誰にも渡らなかった。渡らなかったので、いま、四十通が毎朝積まれている。


 守るために隠した。


 隠したから、残らなかった。


 両立していない、と三日前に思った。思ったけれど、両立させる方法はあった。


 ——語と印で分ければ、誰が支えているかは知れない。


 紙の形だけを書けばいい。私の名も、私のやり方も、そこには要らない。


 思いつかなかっただけだ。


 十一年、思いつかなかった。


  *


 宛先は、宰相府の書記官宛にした。


 あの夜、控えの間で「長らくお勤めいただき、ありがとうございました」と仰った方だ。覚書を閉じて、もう一枚めくって、それで終わりにされた。


 あの方に出す。


 文面は、こうした。


 ——書状の取り回しについて、旧来の分け方を書き出しました。出どころは問わずご利用ください。写しは自由です。


 三行だ。


 差出人の名は、書かなかった。


  *


 書かない、と決めてから、少し迷った。


 書かなければ、誰が送ったかわからない。わからない紙を、府が使うだろうか。


 使うと思った。


 困っている者は、出どころを気にしない。気にする余裕があるうちは、まだ困っていない。


 いま、府は困っている。


  *


 書き終えてから、二枚を並べて読み直した。


 読み直して、一箇所だけ直した。


 二枚目の終わりに、こう足した。


 ——分けた者の名を、控えに残されたい。分け方を誤ったとき、誰に訊けばよいかがわからなくなる。


 足してから、少し笑ってしまった。


 同じことを、北の橋の役人にも申し上げた。ハーゲン様にも、掲示の訂正でも。


 四月で、三度言っている。


 三度言うということは、たぶん、私はそれをいちばん大事だと思っている。


 思っているのに、十一年、自分の名は一度も書かなかった。


  *


 封をして、卓に置いた。


 置いてから、しばらく見ていた。


 三度目だ。


 一度目は、応接室で叔父様に「三日いただければ書き出せます」と申し上げた。断られた。


 二度目は、街道の宿から書式を送った。使われたかどうか、わからない。


 三度目が、これだ。


 ——扉は、開いている。


 毎回、そう思っている。


 毎回そう思って、毎回、こちらから開けている。開けたあとで、通るかどうかは向こうが決める。


 通らなくても構わない、と思っているつもりだった。


 思っているつもりで、三度とも、しばらく封を見ていた。


  *


 置いてから、灯りを消して、寝台に座った。


 座って、三度目のことを考えた。


 三度とも、私は同じことをしている。


 こちらから開けて、相手が通るかどうかを待つ。通らなければ、それはこちらの落ち度ではない。そう思うことにしている。


 思うことにしているのは、そう思わないと、次が開けられないからだ。


 叔父様のときは、三日こもられた。通らなかった。


 通らなかったけれど、あの方は入られた。


 入られたことを、私は三月経ってから知った。知らないままだったら、私はいまも「使われなかった」と思っていた。


 ——通ったかどうかは、こちらにはわからない。


 わからないものを、落ち度かどうかで数えても、意味がない。


 私は寝台に横になった。


 横になってから、それでも待つのだろうな、と思った。


  *


 翌朝、ベルナー様に頼んで、南の街道の便に乗せていただいた。


 峠はまだ開かない。南から回ると、王都まで十五日ほどかかる。


 十五日。


 三月十四日まで、あと五十日ほどある。


 間に合う。


 何に間に合うのかは、自分でもよくわからなかった。


  *


 部屋に戻ると、マルタが照合の綴りを並べ替えていた。


「お嬢様。お仕事に戻られますか」


「戻るわ」


「よろしゅうございました」


 その子は、綴りを一冊、私のほうへ滑らせた。


「日付の合わないところが、また二つ出ました」


「見せて」


 開くと、字が入ってきた。


 三日ぶりだった。


  *


 その晩、日付の食い違いを四つ、印をつけて脇に寄せた。


 脇に寄せたものが、これで六つになった。


 六つとも、写し間違いでは説明がつかない。片方が、後から書き換えている。


 書き換えたのは、南か、城か。


 どちらかは、まだわからない。


 わからないので、右の欄に書いた。


 ——誰が、いつ、なぜ書き換えたか。


 書いてから、その下に、もう一行足した。


 ——書き換えた者の名は、残っているか。


 残っていない、に決まっている。


 名を残す慣行が、この領にはない。


 ないので、これから作る。


 私は、そこまで書いて、ペンを置いた。


 置いてから、いまの一行に気づいた。


 ——これから作る。


 三月に、私はここにいない。


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