第31話 いつでも出て行っていいと書きますか
詮議の話が領内に回ったのは、その数日後だった。
商況の束は城の役所が写して、写しが各所に回る。回れば読まれる。四頁目の一行を読んだ者が、意味を考える。
考えれば、答えはひとつしかない。
*
評議は、七日後に開かれた。
城の大広間に、領内の主だった方々が集まられた。数えると十九人。南から六、北から五、城から八。
私も呼ばれた。
呼ばれた理由は、私が議題だからだ。
*
ハーゲン様が、最初に口を開かれた。
「南の者から預かってまいりました。順に申し上げます」
その方は、紙を広げられた。
「一。向こうの府が記録の所在を詮議している。詮議の先は当領である。二。当領は、記録を持つ理由がない。三。持つことで得るものがなく、失うものが多い」
読み上げ方が、事務的だった。
自分の意見ではない、ということを、その読み方で示していらっしゃる。
「以上でございます。……わし個人は、これに賛同しておりません」
*
北の方が、続けられた。
「街道の荷が、この冬で二割落ちております。向こうが締まっているからです。締まりが解ければ、戻ります」
「解けるとお思いか」
「あの女——失礼、オルデン殿が記録をお返しになれば、解けるのではありませんか」
私は、そこで口を開こうとした。
開く前に、ラウル様が仰った。
「返しても、解けません」
*
「なぜでございます」
「記録は、あの国の書庫にあれば効くというものではないからです。誰が真正を証明するかの問題であって、置き場所の問題ではない」
「では、オルデン殿が証明なさればよろしいでしょう」
「彼女が証明すれば、証明した相手のための紙になります」
北の方が、少し苛立たれた。
「先ほどから、話が回っております」
「回っているのは、話ではなく、あの国の仕組みです」
*
しばらく、意見が行き交った。
私は椅子に座って、聞いていた。口を挟まなかった。挟むと、私を弁護する話になる。弁護される話は、たいてい長くなる。
やがて、城の側の方のひとりが、こう仰った。
「閣下。失礼を承知で申し上げます」
「どうぞ」
「オルデン殿をお迎えになったのは、正統性のためでございましょう」
広間が、少し静かになった。
*
「三派すべてに承認された者は、いまあの方おひとりでございます。その方を妻に迎えれば、当領は隣国の秩序の一端を担う家になる。閣下がお持ちでないものを、あの方はお持ちだ」
「なるほど」
「であれば、道具としては十分に働いていただきました。南の綴りも出た。橋も動いた。これ以上、危険を負う理由はございません」
道具。
その言葉が出たとき、私は膝の上の手を見ていた。
正しい、と思った。
外から見れば、そう見える。私も、峠でそう読んだ。三つ挙げた狙いの、二つ目に近い。
*
「道具なら」
ラウル様が、口を開かれた。
「とうに使っています」
その方は、卓に肘をついていらっしゃらなかった。背をまっすぐにして、広間の全員のほうを向いていらした。
「三派の承認は、個人に与えられます。血で継がれるものではありません。婚姻でも移りません。彼女と結婚しても、私には何ひとつ移らない」
「……移らない」
「移りません。ですから、正統性のために迎えたという筋は、そもそも成り立たない」
城の方が、口ごもられた。
「では、なぜ」
*
広間が、静かになった。
私は、顔を上げていた。
上げてはいけない、と思いながら、上げていた。
「三年、この領で決められる者を増やそうとしました」
ラウル様は、静かに仰った。
「任じた者が決めない。決めるのを怖がる。私が決めれば早いので、そうしてきました。そうしてきた結果が、いまです」
「はい」
「彼女が来て、四月です。北の橋に掲示が出ました。南の綴りが城に出ました。役人が自分の名を書くようになりました」
その方は、そこで少し間を置かれた。
「私には、三年かけてできなかったことです」
*
「……それは、道具として有能だという話ではございませんか」
城の方が、そう仰った。
もっともだと思った。
私も、そう思った。
ラウル様は、その方のほうを向かれた。
「では、伺います」
「はい」
「あなたは、有能な道具に、いつでも出て行っていいと書きますか」
*
私は、椅子の上で動けなくなった。
「……なんと」
「契約書の第七条です。彼女はいつでも、いかなる理由によっても、契約を解除できる。違約金も、返還義務も、引き継ぎの義務も負わない」
「そのような条項が」
「あります。私が書き加えました」
ラウル様は、広間を見渡された。
「明日出て行かれても、こちらに止める手立てはありません。宝物庫の鍵は彼女が持っている。持ち主が出れば箱も出る。私が失うのは、掃除代と、錠前の代金です」
*
誰も、何も言わなかった。
ハーゲン様が、こちらを見ていらした。
「オルデン殿」
「……はい」
「いまの条項は、本当か」
「本当でございます」
「あなたは、それを承知で署名した」
「いたしました」
「なぜ」
私は、答えられなかった。
あのとき、私は四回読んで、意味の輪郭が掴めないまま署名した。掴めないものに署名したのは、十一年で初めてだった。
いまも、掴めていない。
掴めていないのに、ここで説明を求められている。
*
「わかりません」
私は、そう申し上げた。
「わからないままで署名するのは、わたくしの規則に反しております。反したのは、あのときが初めてでございました」
「では、なぜ署名した」
「……わかりません」
同じことを二度申し上げた。
みっともないと思った。
思いながら、それ以上のことが出てこなかった。
*
評議は、そこで終わった。
結論は出なかった。出ないまま、次は峠が開いてからということになって、みなさま帰っていかれた。
私は、広間に残っていた。
残るつもりはなかった。ただ、立つのが遅れた。
人がいなくなって、卓と椅子だけになったところで、ラウル様が戻ってこられた。
*
「オルデン嬢」
「はい」
「見せないと申し上げたのに、出しました」
「……はい」
「申し訳ない」
その方は、そう仰って、頭を下げられた。
領主が客人に頭を下げるのは、書式にない。
「……お顔をお上げください」
「あれを出さないと、話が終わりませんでした」
「はい」
「ただ、出したことで、あなたの立場が悪くなった」
「悪くなっておりません」
私は、そう申し上げた。
申し上げてから、声が固いことに気づいた。
*
「閣下」
「はい」
「ひとつだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
私は、膝の上で手を組んだ。
組んで、指に力が入っていることに気づいて、ゆるめた。
「なぜ、あの条項を書き加えられたのですか」
訊いてしまった。
二月前に、同じことを訊いた。あのときは「必要だと思ったので」と返された。それで終わった。終わったことにした。
いま、もう一度訊いた。
*
ラウル様は、広間の窓のほうを見ていらした。
雪は、もうほとんど残っていない。
「峠の宿場で、あなたに書状をお届けしました」
「はい」
「返事を聞きに行ったのは、私ではありません。行けばよかったと、あとで思いました」
「……なぜでございますか」
「あのとき、あなたは受けると仰った。四回読んで、不備がないから受けると」
その方は、こちらを向かれた。
「行き場がないから受けたのだと、私は思いました」
*
「思って、それが厭でした」
厭。
その言い方を、私は聞いたことがなかった。書面には出てこない言葉だ。
「行き場がないから受ける人に、場所を出すのは、施しです。私は施しをしたつもりがない。取り決めをしたつもりでした」
「……はい」
「取り決めというのは、両方が断れるときにだけ成り立ちます」
*
私は、そこで、はっきりと理解した。
理解したのは、条項の意味ではない。
この方が何を狙っているのかを、私はずっと考えていた。三つ挙げて、全部外れた。外れたので、四つ目を探していた。
探すのをやめた。
やめたのは、探すべきものがないと納得したからではない。
——探しても、出てこない。
出てこないものを、私はこれまで、政治と呼んで片付けてきた。片付ければ、こわくない。読めるものは、こわくない。
いま、読めない。
読めないものが、目の前に立っている。
*
「オルデン嬢」
「……はい」
「顔色が悪い」
「……そうでしょうか」
「悪いです」
私は、椅子から立ち上がった。
立ち上がって、頭を下げて、それから、うまく言葉が出ないまま広間を出た。
廊下を歩きながら、私は自分の胸のあたりに手を当てた。
二度目だ。
一度目は、階段の途中だった。あのときは、何を確かめようとしたのかがわからなかった。
今度は、わかった。
わかったのに、名前がつけられなかった。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




