第30話 前の方は
ベルナー様が持ってこられたのは、油紙で二重に包んだ束だった。
包みを解くと、中から封筒が出てきた。宛名は、私になっている。
差出人の名を見て、私は少し息を止めた。
軍務府の、あの方だった。
*
封を切ると、一枚目に短い添え書きがあった。
——ご迷惑を承知で、内々にお送りします。三通、同封いたします。私の一存です。ご返事は不要。
それだけだった。
名は、書いていない。書けば、この方が私に物を送ったことが残る。残らないようにして、それでも送ってこられた。
私は、その一枚を脇に置いた。
*
二枚目を出した。
字を見た瞬間に、誰のものかがわかった。
丁寧な字だ。丁寧すぎる、と言ったほうがいい。一字ずつ、間隔を測るようにして書いてある。急いで書いた字ではない。何度も書き直した字でもない。書くのに時間をかけた字だ。
右の余白が、やけに広い。
——謹んでお伺い申し上げます。宮内の書面の取り回しにつきまして、いくつかご教示を賜りたく存じます。
書き出しが、ずいぶん硬い。
硬いのは、たぶん、こういう文面を写して覚えたからだ。どこかにあった見本を、そのまま使っていらっしゃる。
*
三枚目。
——毎朝、書状が届きます。多い日で四十通ほどでございます。これを、どなたにお渡しすればよろしいのでしょうか。
私は、そこで一度、目を上げた。
窓の外は明るい。雪は、この十日で少し薄くなった。
目を戻した。
——渡す先を、宰相府にお尋ねいたしましたところ、こちらでお決めくださいとのご返事でございました。決めよと仰せられましても、何を基準に決めればよろしいのか、わかりかねます。
わかりかねます、と書いてある。
わからない、ではなく。
*
四枚目。
——返事を書くべきものと、そうでないものとの見分け方を、お教えいただけませんでしょうか。
これは、ひとつしかない。
日付だ。届いた日付と、書いてある期限を見る。期限のあるものが先で、ないものは後。それだけだ。
書けば、三行で済む。
——このごろ、返事が遅いとお叱りをいただくことが増えました。遅いのは存じておりますが、どれを先にすればよいのかがわからず、届いた順に開いております。
届いた順に開くのは、正しい。
正しいのに、それでは間に合わない。届いた順と、急ぐ順は違う。違うことを、誰かが教えなければならなかった。
誰も、教えていない。
*
四枚目の裏に、書きかけの行があった。
消してある。線を引いて消してあるのではなく、上から塗りつぶしてある。塗りつぶし方が丁寧なので、下の字は読めない。
読めないけれど、行の長さはわかる。十字ほどだ。
十字ほど書いて、塗りつぶして、書き直さなかった。
私は、その黒い帯を、しばらく指で撫でた。
撫でたところで、何も出てこない。
*
五枚目に、こうあった。
——前の方は、どのようになさっていたのでしょうか。
私は、その一行を読んで、動けなくなった。
前の方。
名前が、書いていない。
*
書けなかったのか、知らないのか。
考えて、たぶん、書かないほうを選ばれたのだと思った。書けば、あの夜会の広間に戻ることになる。戻りたくない人が、名前を伏せる。
伏せて、前の方、と書く。
——前の方は、いつも書類ばかり見ていらしたそうでございます。わたくしも、そのようにいたしております。ただ、見ておりましても、中身が入ってまいりません。
私は、椅子の背に手をついた。
いつも書類ばかり見ていらして。
同じ言い方だ。去年の夏に、広間で聞いた。あのとき、この方は淡い水色のドレスを着ていらして、困ったように眉を下げて、それを仰った。
同じ言い方で、いま、ご自分のことを書いていらっしゃる。
*
五枚目の下のほうに、もう一行あった。
——書類を見ておりますと、あの方のお顔を思い出します。
私は、その一行を三度読んだ。
三度読んでも、意味が取れなかった。
取れないので、字面のとおりに受け取ることにした。この方は、書類を前にすると、私の顔を思い出す。
なぜ思い出すのかは、書いていない。
*
六枚目が、最後だった。
——不躾なお願いを重ねまして、申し訳ございません。どなたにお伺いすればよろしいのかがわからず、思いつくところへ順にお出ししております。
順に。
この方は、同じ文面を、あちこちに出していらっしゃる。宰相府にも、財務府にも、たぶん軍務府にも。
軍務府の方は、それを受け取って、私に送ってこられた。
答えられる者が、府にいないからだ。
*
私は、六枚を揃えて、机に置いた。
揃えてから、しばらく座っていた。
——不快だ。
その言葉が、いちばん近かった。
悲しくはない。気の毒だとも思わない。思おうとしたけれど、思えなかった。
不快なのは、この方が、教われば分かると思っていらっしゃるからだ。
*
私は、六枚を裏返してから、もう一度表に返した。
この方は、半年前まで、この束を見たことがなかったはずだ。
男爵家の娘が、宮内の書状を扱う立場になる。ふつうなら、そこに至るまでに何年かかかる。侍女から入って、女官になって、上の者に付いて、少しずつ渡される。
その順を、飛ばされた。
飛ばしたのは、殿下だ。
早いほうがいいと思われたのだと思う。実際、早い。手続きを踏まないほうが、いつでも早い。
早く座らせて、教える者を用意しなかった。
用意する発想がなかったのは、座るのが簡単な椅子だと思っていらしたからだ。
地味で、退屈な事務仕事。
あの言葉を、私はもう三度思い出している。
*
三行で済む問いが、六枚のうち二つある。
残りの四つは、三行では済まない。
どなたに渡すか、というのは、宮内のどこに何を扱う者がいるかを知らないと決められない。知るには、名簿と、実際に誰が動いているかの両方が要る。名簿は毎年変わり、実際は名簿どおりではない。
私は、それを十一年かけて覚えた。
覚えたことを紙に書いたことは、一度もない。書けば、誰が支えているかが知れる。知れると狙われる。狙われた瞬間に、支えは支えでなくなる。
だから、書かなかった。
書かなかったので、いま、教える手立てがない。
*
——これは、わたくしの落ち度だ。
そう思って、すぐに、それは違うと思い直した。
落ち度なら、直せる。直せるものを落ち度と呼ぶ。
これは、そうではない。
十一年、隠すことで守ってきた。守るために隠して、隠したから残らなかった。残らなかったので、次の者に渡らない。
守ることと、渡すことが、最初から両立していなかった。
四百年、誰もそこを解いていない。
*
夕方、マルタが入ってきた。
「お嬢様。夕餉が」
「あとで」
「……お顔の色が」
「悪いの」
「いえ。……何を、ご覧になっていらっしゃいますか」
私は、六枚を裏返した。
「王都からの、照会よ」
「どなたから」
少し迷って、答えた。
「知らない方」
嘘だ。
嘘をついた理由は、はっきりしている。マルタに言えば、この子は腹を立てる。腹を立てられると、私はそれに乗ってしまう。
乗ってしまうと、たぶん、私は返事を書かない。
*
その晩、私は六枚をもう一度並べた。
並べて、答えの書ける問いに、心のなかで印をつけた。
二つ。日付の見方と、急ぐ順の決め方。この二つなら、三行と、書式一枚で済む。
残り四つは、書けない。
書けないものを書けないままにしておくと、四十通が毎朝積まれつづける。三日で困る。七日で揉める。十四日で——
私は、そこで数えるのをやめた。
やめて、灯りを消した。
消してから、暗いなかで、こう思った。
——あの方は、字が丁寧だ。
六枚とも、最後の一行まで崩れていない。四十通を捌けずに、叱られて、それでも、この文面を丁寧に書いていらっしゃる。
丁寧に書くというのは、たぶん、まだ諦めていないということだ。
私は寝返りを打った。
打ってから、それを認めたくない自分に気づいた。
認めたくないのは、認めると、返事を書くことになるからだ。
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