第29話 一行になる
冬の商況の束は、薄い。
雪で街道が細るので、入ってくる報せが減る。減ったぶん、一つひとつが長くなる。書く者が、暇なのだと思う。
年明けの束は、いつもの倍あった。
*
王都の項が、四頁もあった。
これまでは五行だったものが、四頁になっている。
私は、いちばん上から順に読んだ。
——ヴァレン商会、抱えの麻を放出。相場は先月比で三割下げ。
——同商会、借り上げの倉三棟のうち二棟を返上。
——府、公定の相場を改定。二年ぶり。
——市中、混乱。
三割下げ。
二割上げて仕入れたものを、三割下げて吐き出した。差し引きで、商会は大きく損をしている。
空振りが、代金に変わった。
*
私は、四行目を二度読んだ。
市中、混乱。
混乱するのは、値が動いたからではない。値が動くこと自体は、よくある。混乱するのは、府が公定の相場を改定したからだ。
二年ぶり、と書いてある。
公定の相場は、動かさないことに意味がある。動かさないから、みんながそれを基準にする。基準になっているから、動かす必要がない。
一度動かすと、次からは「また動くかもしれない」になる。
なった時点で、基準ではなくなる。
*
二頁目に、軍の項があった。
——南部駐屯、二個隊を東へ移す。理由の告示あり。
——東部街道、通行の制限。夜間の往来を禁ずる。
告示があった。
私は、そこで少し息を吐いた。
前の束では、告示がなかった。今度は出ている。出せる者が、府に戻ったということだ。
誰が戻ったのかは、書いていない。
書いていないけれど、たぶん、あの方だ。七年、私の書面を読んでいらした方。読める者が府にひとりだけいると、使者の方が仰っていた。
その方が、告示を書かれた。
——三方に同じものを同時に出した紙が、届いている。
届いたところで、署名はない。署名のない写しでは、争えない。争えないけれど、読める者が読めば、そこに何が書いてあるかはわかる。
わかった者が、告示を書いた。
*
三頁目に、聖俗の項があった。
——南の四司教区、上納を再開。ただし額を三分の二に減ずる。
——参事会、これを受け入れ。
私は、その二行を長いこと見ていた。
全部は戻っていない。三分の二だ。
けれど、止まっていたものが、動いた。
止めていた領主たちは、たぶん、写しを見た。証明はできない。できないけれど、軍と商会も同じ紙を持っていることは知っている。三方が同じものを持っている状態で、「教会に権利はない」と言い切るのは、少し勇気が要る。
勇気が要る、というのは、そういうことだ。
完全な証明の代わりに、言い切りにくさが立った。
言い切りにくさは、証明ではない。
証明ではないけれど、三分の二は動いた。
*
私は、束を閉じた。
閉じてから、両手を膝に置いた。
効いた。
二十日かけて手筈を組んで、早馬を五騎お借りして、一銭にもならない紙を三通出した。
効いた。
——効いてしまった。
そう思ってから、私は自分の言い方に引っかかった。
効いたのなら、いいことだ。三分の二の上納が動いて、四つの司教区で人が困らなくなった。街道の告示が出て、荷が動きやすくなった。
いいことだ。
いいことなのに、なぜか、手のひらが冷たかった。
*
二頁目の終わりに、短い項があった。
——オルデン公爵、容態変わらず。家督につき、府に照会あり。
私は、その一行を読んで、それから、もう一度読んだ。
容態変わらず。
マルタが持ってきた話と、同じだ。指が少し動くというのは、この束には入らない。入らない程度の変化を、束は「変わらず」と書く。
家督につき、府に照会。
叔父様が、正式に家督を継ごうとしていらっしゃる。父様が生きていらっしゃるので、継ぐには手続きが要る。手続きには、父様が務めを果たせないという証明が要る。
証明を求めるのは、当主の役目だ。
求めなければ、家は宙に浮いたままになる。求めれば、兄が務まらないと弟が申し立てることになる。
どちらも、しなければならない。
その二つを両方しなければならない立場に、あの方は三年いらっしゃる。
私は、その一行に指を置いた。
置いてから、離した。
*
冷たい理由は、四頁目でわかった。
四頁目に、こう書いてあった。
——王都にて、記録の所在についての詮議あり。
一行だけだ。
詮議。
詮議というのは、府の言葉で、正式に調べるという意味だ。誰かが調べろと言い出して、誰かがそれを引き受けた。
三通の写しが、王都で読まれた。読んだ者は、これがどこから出たかを考える。日付を見る。三方に同じ日に届いている。届けるには手筈が要る。手筈を組める者は、そう多くない。
組める者のうち、原本を持っているのは、ひとりだけだ。
*
私は、束をもう一度開いた。
四頁目の、その一行の下を見た。
何も書いていない。
誰が詮議を求めたのかも、何を調べるのかも、書いていない。商況の束は、動いたものだけを書く。動いた理由は書かない。
——これが、外から見るということか。
秋にも同じことを思った。
あのときは、東の二領が一行になっていた。
今度は、私が一行になっている。
*
もう一度、四頁目を読んだ。
詮議あり、と書いてある。詮議の主体は書いていない。
考えられるのは三つだ。
ひとつ。府が求めた。三通の出どころを確かめて、記録を取り戻したい。取り戻せば、府の書庫に収まる。屋敷で断ったのと同じ話が、今度は正式な形で来る。
ふたつ。商会が求めた。抱えで損を出した以上、次は別の手を打つ。記録が国外にあることを問題にすれば、こちらへ手を伸ばす口実になる。
みっつ。教会が求めた。写しをもらった側が、恩を仇で返す形になるけれど、参事会は「盗まれたことにする」と決めた組織だ。決めたことを、いまさら引っ込めにくい。
三つとも、ありそうだった。
ありそうなのに、どれもしっくりこないところは、峠のときと同じだ。
あのときは、三つ挙げて、全部外れた。
*
その晩、私は照合の作業に戻れなかった。
紙を開いて、閉じて、また開いた。三度目に閉じたところで、あきらめて、寝台に座った。
考えていたのは、順番のことだ。
私が三通を出さなければ、教会の上納は止まったままだった。止まったままなら、四つの司教区で来年、人が困る。
出したので、動いた。
動いたので、誰かが「どこから出たか」を考えた。
——止めたのも私で、つなぎ直したのも私だ。
どちらも、自分でやったことだ。
どちらのときも、私は「規定どおり」に動いた。窓口に三枚出したのも、写しを三通出したのも、書式のあることだ。書式のあることをすると、いつも、遠くで誰かが動く。
書式というのは、そういうものだった。
十一年、私はそれを、机の上でだけ見ていた。
*
寝る前に、もう一度だけ束を開いた。
開いて、四頁目ではなく、三頁目を見た。
南の四司教区、上納を再開。額は三分の二。
三分の二という数字を、私はしばらく見ていた。
全部ではない。半分でもない。三分の二という半端な数字は、たいてい、双方が譲った跡だ。譲るには、話し合いが要る。話し合いが成り立ったということは、両方に「話し合ってもいい」と思わせる何かがあったということだ。
あの三通が、それだったかもしれない。
かもしれない、としか言えない。私は現場にいないし、束は理由を書かない。
書かないので、私は一生、確かめられない。
——確かめられないことを、してもよいのか。
書斎にいたころは、しなかった。効くかどうかわからないことは、しなかった。しないほうが安全で、安全なほうが、たいてい正しかった。
今度は、した。
した結果が、三分の二と、詮議一行だ。
どちらが重いかを、私はまだ量れない。
*
灯りを消してから、扉が鳴った。
マルタだった。
「お嬢様。まだ起きていらっしゃいますか」
「起きているわ」
「ベルナー様が、お会いしたいと」
私は、寝台から降りた。
「こんな刻限に」
「はい。あの、今日の午後に、南から早馬が着いたそうでございます」
「南」
「はい。峠のほうからではなく、南の街道から」
マルタは、少し声を落とした。
「王都からの、私信だそうでございます」
*
私信。
公の書面ではない、ということだ。
公の書面なら、宛名は領主になる。私信で、南から回って届くというのは、正式な経路を使えない者が出したということだ。
正式な経路を使えない者。
誰か、と考えて、心当たりが多すぎることに気づいた。
私は外套を取って、袖を通した。
留め金を四つとも留めるのに、指がうまく動かなかった。
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