第28話 期限とは関係がない
南の綴りが着いたのは、年の変わる少し前だった。
荷馬車で三台。四十年ぶんというのは、そういう量になる。
棚は、二列増やしていただいた。増やしていただいたのに、また足りなかった。三列目を頼んだとき、ベルナー様が「先に伺っておけばよろしゅうございましたな」と仰った。
私も、そう思う。
四十年ぶんの厚みを、私は見誤った。十一箱を運んだときの感覚で見積もったからだ。あれは四百年ぶんだけれど、裁定だけを抜いてある。南の綴りは、届いた書状も返した書状も、全部綴じてある。
全部綴じてあるほうが、実は読みやすい。
*
照合は、思っていたより早く進んだ。
合わないところが、最初の十日で六つ出た。
六つとも、こちらの記録のほうが古い。古いほうが正しいとはかぎらないけれど、少なくとも、どちらかがどこかで写し間違えている。
六つのうち四つは、数字の写し間違いだった。桁がひとつ落ちている。
残りの二つは、日付だった。
日付の食い違いは、写し間違いでは起きない。起きるのは、片方が後から書き換えたときだ。
私は、その二つに印をつけて、脇に寄せた。
いま触ると、話が大きくなる。
*
照合の作業には、マルタも入った。
字が読めるのかと訊いたら、読めますと言われた。屋敷で覚えたのだという。
「どなたに」
「お嬢様に」
「わたしが」
「書斎の外から、拝見しておりました」
私は、手を止めた。
「……いつ」
「五年ほど」
五年、この子は扉の外から私の手元を見ていた。
見ていたことを、私は知らなかった。
「なぜ言わなかったの」
「言うことではございませんので」
マルタは、綴りの背表紙を拭きながら、そう言った。
「それに、お嬢様がお忙しいのは存じておりました」
私は、しばらく何も言えなかった。
言えないまま、綴りを一冊、その子のほうへ滑らせた。
「日付の順に並べてちょうだい。古いものを下に」
「はい」
*
年が明けた。
この領では、年が明けると三日、市が立たない。人が家にいる。城も静かになる。
二日目の午後、廊下でラウル様に会った。
珍しく、供がひとりもいらっしゃらなかった。
「オルデン嬢。仕事ですか」
「はい」
「三日は休むものです」
「……存じませんでした」
「知っていても働くでしょう」
図星だったので、黙った。
*
「少し歩きませんか」
断る理由が思いつかなかったので、外套を取りに戻った。
城の裏手に、川へ下りる道がある。雪が踏み固められていて、思ったより歩きやすかった。
川は凍っていなかった。速い川は凍らないのだと、ラウル様が仰った。
「王都の川は凍りますか」
「凍ります。年に十日ほど」
「渡れますか」
「渡る者はおりません。禁じられておりますので」
「渡ると、どうなりますか」
「罰金でございます。額は、氷の厚さで変わります」
ラウル様が、足を止められた。
「厚さで」
「はい。薄いほど高くなります」
その方が、笑われた。
声を出して笑われたのは、二度目だ。
*
「よくできています」
「はい」
「誰が決めたのですか」
「わかりません。八十年ほど前の裁定でございます」
「名は残っていないのですか」
「残っております。ただ、わたくしが読んだのは写しの写しですので、名は写されておりませんでした」
私は、川のほうを見た。
「名を写さない写しは、ときどきございます。写す者が、名は要らないと思うのです」
「要らないと思う理由は」
「決まりだけが要る、と思うからでございます」
ラウル様は、しばらく川を見ていらした。
「あなたは、それを間違いだと思っている」
「……思っております」
「なぜ」
「決めた者がわからないと、直せません」
*
しばらく、川沿いを歩いた。
こちらから何か申し上げるべきかと思ったけれど、何を申し上げればいいかがわからない。天気の話は、雪を見ればわかる。仕事の話は、休みだと言われたばかりだ。
黙って歩いていると、ラウル様のほうから訊かれた。
「オルデン嬢は、雪はお好きですか」
「……考えたことがございません」
「考えたことがない」
「好きか嫌いかで、動きが変わりませんので」
「動き」
「雪が降ると、街道が細ります。細ると荷が減ります。減ると市の相場が上がります。それだけでございます」
ラウル様は、少しのあいだ黙られた。
「それは、雪の話ではありませんね」
「……はい」
「では、もう一度伺います。あなたは、雪はお好きですか」
私は、足を止めた。
止めて、少し上を見た。
降っていた。細かい雪で、落ちてくるというより、漂っている。
「……わかりません」
「では、いまから見ておいてください」
その方は、先に歩きだされた。
「三月には、なくなりますので」
*
帰りに、市の跡を通った。
三日休みなので、屋台は畳んである。畳んだ骨組みだけが並んでいて、雪が積もっていた。
「オルデン嬢」
「はい」
「三月のことですが」
私は、足を止めた。
「まだ、決めておりません」
「決めなくて結構です。そのことではありません」
ラウル様は、雪をひとつ踏んで、こう仰った。
「契約が切れるのも、同じ月です」
*
私は、この方も数えたのだと知った。
「……はい」
「更新は、たぶんできません」
「はい。三派の承認が要りますので」
「揃いませんね」
「揃いません」
言葉が、そこで途切れた。
途切れたところを、私は埋めなかった。埋め方を知らないからだ。書面なら埋められる。話は、書式がない。
しばらくして、ラウル様が仰った。
「第七条を、覚えていらっしゃいますか」
「覚えております」
「いつでも、いかなる理由でも、解除できる」
「はい」
「あれは、期限とは関係がありません」
*
その言い方を、私は二度なぞった。
関係がない。
契約は三月に切れる。切れるまで待たなくても、いつでも出ていける。第七条はそういう条項だ。
それは知っている。
知っているのに、いま言われると、別のことを言われた気がした。
「……あの」
「はい」
「いま、なぜそれを」
「さあ」
その方は、また歩きだされた。
「言っておいたほうがいい気がしました」
*
部屋に戻って、私は外套を掛けた。
留め金が四つ。全部ついている。
卓の前に座って、照合の続きを出した。出して、開いて、三行読んで、そこで手が止まった。
字が入ってこない。
私は紙を置いて、窓を見た。
雪が降っていた。
——期限とは、関係がない。
あの方は、期限のほうから話を始めて、期限とは関係のない条項の話で終えた。
順番が、おかしい。
書面なら、順番がおかしいときは、たいてい書き手が何かを隠している。隠しているのは、たいてい、いちばん言いたいことだ。
*
しばらくして、マルタが入ってきた。
「お嬢様。お茶を」
「ありがとう」
「……お顔の色が」
「悪いの」
「いえ。よろしいほうでございます」
私は、窓のほうを向いたままでいた。
「マルタ」
「はい」
「三月に、契約が切れるの」
その子が、盆を置く音がした。
「存じております」
「知っていたの」
「城の者はみな、存じております」
「……そう」
「お嬢様」
マルタは、盆を持ったまま立っていた。
「切れましたら、どうなさいますか」
「わからないわ」
「わからない」
「行き先を決めるのは、二度目なの」
一度目は、地図を広げて、条件を三つ数えた。乾いていること、火の気のないこと、どの派にも属していないこと。
二度目は、条件がない。
条件がないと、地図が使えない。
*
私は、紙を一枚出した。
左に、わかること。右に、わからないこと。
左に書いた。
——契約は三月に切れる。更新できない。第七条は期限と関係がない。
三つとも、書面に書いてある。
右に、何を書けばいいかを考えた。
考えて、一行だけ書いた。
——なぜ、いま。
書いてから、私はそれを長いこと見ていた。
右の欄は、いつも長くなる。今日は一行しかない。
一行しかないのに、左の三行より、はるかに重かった。
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