第27話 第八巻
思いついたのは、南の照会を三度書き直したあとだった。
三度書き直しても、決まらない。決まらないのは、四十年前がわからないからだ。わからないので、当てる型が正しいかどうかを確かめられない。
確かめる方法は、南の綴りを見ることだけだと思っていた。
思い込みだった。
*
四十年前、この領の南で水利の取り決めが結ばれたとする。
水は、川から引く。川は、上流をたどると峠を越える。
峠の向こうは、私の国だ。
両側にまたがる水の取り決めは、片側だけでは結べない。必ず、向こう側と話をしている。話をしていれば、こちらの記録に残る。
私は、宝物庫の鍵を持って部屋を出た。
*
第八巻を開けたのは、その日の午後だった。
国境をまたぐ件は、第八巻にまとめてある。四十年前の項を探して、三度めくって、見つからなかった。
四度目に、年をひとつずらして探した。
あった。
四十一年前だ。取り決めが結ばれたのが四十年前なら、その前年に話が始まっている。話のほうが先に記録される。
——「東方境、水利につき照会あり。上流優先の慣行を先方主張。当方、異議なし」
三行だった。
*
三行を、私は五度読んだ。
上流優先の慣行を、先方が主張した。当方は異議を出していない。
つまり、四十年前の時点で、上流優先はすでに「慣行」だった。四十年前に決められたのではない。もっと前からあったものを、そのとき文書にしただけだ。
ハーゲン様が仰ったとおりだった。
私が書いた裁定は、その慣行を踏まえていない。踏まえずに、王都の型を当てた。
当てた型は、下流に有利な形だ。
*
その晩、私は掲示の訂正文を書いた。
書きながら、手が重かった。
訂正するというのは、私が間違えたと掲げることだ。掲げれば残る。残れば、次に誰かが「あの女の裁定は一度覆っている」と言える。
言えるようにしておくのが、正しい。
正しいのはわかっている。わかっていても、手は重い。
三度書き直した。
三度目に、ようやく短くなった。
——先の裁定は、四十一年前の記録に照らして誤りである。上流優先の慣行を認め、以下のとおり改める。
その下に、改めた中身を三行。
いちばん下に、こう書いた。
——誤りの理由は、四十一年前の記録を確かめずに定めたことによる。
*
翌朝、ベルナー様に渡した。
読まれて、しばらく黙っていらした。
「オルデン様。ここまでお書きになりますか」
「はい」
「間違えた理由まで書く例は、この領にはございません」
「ございませんか」
「ございません。たいてい、静かに直します」
「静かに直しますと、直したことが残りません」
私は、紙の下のほうを指した。
「次に同じ間違いをする者が出ます。四十一年前を確かめずに定める、という間違いを。書いておけば、その者は確かめます」
ベルナー様は、もう一度読み直された。
それから、こう仰った。
「……写しを、南へお送りしてもよろしいですか」
「お願いいたします」
*
訂正の掲示が出た日、私は北の橋まで見に行った。
人が三人ほど、前に立っていた。読んで、話して、それから南のほうを指した。
通りかかった荷主が、私を見て、帽子を取った。石を運んでいた方だ。
「あんた、あれを直したのかい」
「……はい」
「間違えたって書いてあったな」
「はい」
「珍しいこともあるもんだ」
その方は、そう言って行ってしまわれた。
私はしばらく、掲示の前に立っていた。
間違えたと書いてあるものを、人は面白がる。面白がられるのは、たぶん、あまりないことだからだ。
あまりないことにしておいたのは、書く側だ。
*
ハーゲン様がいらしたのは、六日後だった。
雪が深くなっていて、南から城まで二日かかったという。
城の一室で会った。六十くらいの、背の高い方だった。役人というより、地主の顔をしていらっしゃる。
「オルデン殿」
「はい」
「訂正の掲示を拝見しました」
「はい」
その方は、卓の上に紙を置かれた。
私が書いた訂正文の写しだ。いちばん下の行に、指を置かれた。
「ここが、わからん」
*
「なぜ、これを書かれた」
「間違えましたので」
「間違えたのはわかる。なぜ、理由まで書いた」
「次に確かめさせるためでございます」
「あなたの落ち度が残る」
「残ります」
「それでよいと」
「よくはございません」
私は、そこは正直に申し上げた。
「よくはございませんが、残さないほうが、もっと悪うございます」
*
ハーゲン様は、しばらく黙っておられた。
黙って、それから、こう訊かれた。
「四十一年前の記録は、どこから」
「わたくしが持ってまいりました」
「持ってきた」
「向こうの国の記録でございます。国境をまたぐ件は、両側に残ります。片側にしか残らないものは、そもそも取り決めではございません」
その方の眉が、少し動いた。
「……それは、そうだ」
「はい」
「南の綴りには、四十年前からしか入っておらん」
「では、前年のことはわからないままでございます」
「わからんままだった」
その方は、そこで少し笑われた。
笑って、それから、真顔に戻られた。
*
「オルデン殿。ひとつ伺いたい」
「はい」
「あなたは、わしの言い分が正しいと証明した」
「はい」
「なぜだ」
私は、意味を測りかねた。
「なぜ、とは」
「あなたは城の側だ。わしは邪魔をしている側だ。放っておけば、わしの言い分は根拠のない古い話で終わった。わざわざ掘り出して、正しいと書く理由がない」
*
私は、少し考えた。
考えて、こう申し上げた。
「正しいものが正しいと残っていないと、次に困ります」
「次」
「はい。次に南で水が揉めたとき、四十一年前の記録があれば、そこから始められます。なければ、また最初から言い合いになります」
「その次のときに、あなたはおらんかもしれん」
「おりません」
私は、そこで頭を下げた。
「ですので、紙にいたしました」
*
ハーゲン様は、ずいぶん長いこと黙っておられた。
窓の外で、雪が屋根から落ちる音がした。
やがて、その方は席を立って、扉のところで振り返られた。
「南の綴りは、四十年ぶんある」
「はい」
「持ってこさせる」
私は、顔を上げた。
「……よろしいのですか」
「照合したい」
その方は、そう仰った。
「四十年ぶんと、あなたの持っている四百年ぶんを、突き合わせたい。合わんところが出るはずだ。合わんところが、いちばん面白い」
*
ハーゲン様が出ていかれたあと、私は椅子に座ったままでいた。
合わんところが、いちばん面白い。
あの方は、そう仰った。
六十年、南の綴りを守ってこられた方だ。守るというのは、たいてい、動かさないことを意味する。動かさないものを守っている方が、合わないところを見たいと仰った。
照合すれば、南の四十年に間違いが見つかる。見つかれば、この方の代で直すことになる。直せば、直したことが残る。
残ることを、承知で仰った。
——決めるのを怖がる、と閣下は仰っていた。
この方は、怖がっていない。
怖がっていないのに、四十年ぶんを城に出さなかった。
出さなかった理由は、たぶん、怖いからではなく、訊かれなかったからだ。
訊かれなかったので、出さなかった。
私も、そうだった。
*
部屋に戻って、私は棚のいちばん下の段を見た。
二枚入っている。ハーゲン様の三行と、写しの控え。
もうすぐ、三枚目が入る。
いや、三枚では済まない。四十年ぶんが来る。棚が足りない。
足りないので、増やしていただかなければならない。
増やしていただくには、申し上げなければならない。
*
私は、机の前に座って、紙を出した。
——棚を、あと二列。
書いてから、しばらくそれを見ていた。
欲しいものが、また出てきた。
二度目だ。
一度目は、マルタを呼びたいということだった。あのときは口に出すのに三倍かかった。
今度は、書くだけで済んだ。
私はその紙を持って、廊下へ出た。
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