第26話 三月十四日
その封書は、正式な体裁で届いた。
外交の書式だ。隣国の王家から、こちらの領主宛。封蝋が二重で、内側に王印がある。
ベルナー様が持ってこられて、卓の上に置かれた。
「オルデン様。閣下は南へ出ておいでですので、お戻りまでお預かりを」
「わたくしがでございますか」
「宛名は閣下でございますが」
ベルナー様は、少し言いにくそうにされた。
「中身の見当は、つきますので」
*
開けなかった。
宛名が私ではない。宛名の違う封を開けるのは、書式にない。
卓の端に置いて、その日は仕事をした。南の水利の照会が二枚と、市の相場が一枚。片付けて、返事を書いて、重ねた。
夕方、封書を見た。
まだ、そこにある。
*
ラウル様がお戻りになったのは、三日後だった。
その日の夕方に呼ばれて、部屋へ行った。
卓の上に、封が開けてある。
「お読みになりますか」
「……宛名が違いますので」
「では、読み上げます」
私は、椅子の背に手を置いた。
「王太子殿下と、ヴィント男爵家のご息女の婚礼が調いました。式は、春の三月十四日。国内外の諸家に参列を請う」
*
三月十四日。
私は、頭のなかで日を数えた。
いまが十二月の半ば。あと九十日ほどある。
九十日。
数え終わってから、なぜ数えたのだろうと思った。数えても、私には関係がない。私はもう向こうの人間ではないし、参列するはずもない。
それでも、数えていた。
癖だ。
「オルデン嬢」
「はい」
「顔色が悪い」
「……そうでしょうか」
「悪いです」
*
私は、椅子の背から手を離した。
離してから、握っていたことに気づいた。
「……エルナ様は、ご息女でいらっしゃいましたか」
「ヴィント男爵家の、と書いてあります」
「そうでございますか」
男爵家の娘が王太子妃になるというのは、この国では例がない。ないというより、書式がない。婚姻の儀の次第は家格で決まるので、家格が足りないと、次第そのものが組めない。
組めないものを組むには、どこかで先例を作るか、家格のほうを動かす。
たぶん、動かす。
どこかの家に養女に入って、それから入輿する。三月十四日までに、その手続きが要る。
手続きの書式は、第六巻にある。
——読める方が、府にいらっしゃるだろうか。
考えて、やめた。
考えても、私の管轄ではない。
*
ラウル様は、書面を折られた。
「参列を請う、というのは、こちらへの外交上の呼びかけです。断ることもできますが、断ると理由を訊かれます」
「行かれますか」
「行きます」
「……はい」
「あなたはどうされますか」
私は、そこで顔を上げた。
「わたくしが」
「書面の上では、あなたは私の妻です。同行なさる立場にあります」
*
しばらく、何も言えなかった。
考えていなかった。
私は、この契約が「持ち主でいるため」の道具だと思っていた。実際、そう書いてある。道具として使うぶんには、外に出ていく必要がない。
外に出ていくと、道具ではなくなる。
「……行かなくてもよろしいのでしょうか」
「構いません。妻が同行しない例は、いくらでもあります」
「では」
「ただ、行かない理由を、私は用意しなければなりません」
その方は、書面を卓に置かれた。
「病気ということにできます。冬の峠は越えられないということにもできる。どちらでも通ります」
「はい」
「どちらにしますか」
*
答えられなかった。
どちらでも通る。通るなら、どちらでもいい。どちらでもいいことを訊かれると、私は答えられない。
書式に「どちらでもよい」と書いてあるものは、たいてい下のほうに「甲の定めるところによる」と続いている。定めるのは、いつも私ではなかった。
「……閣下のご都合のよろしいほうで」
「私に都合の違いはありません」
「では、どちらでも」
「では、決めないでおきます」
ラウル様は、封をもとに戻された。
「返事は、年が明けてからで間に合います。それまでに気が変わったら、仰ってください」
*
部屋を出る前に、ひとつだけ伺った。
「閣下」
「はい」
「ご参列は、いつお発ちになりますか」
「峠が開いてからです。二月の末でしょう」
「お戻りは」
「四月に入ってからかと」
二月の末から、四月まで。
ひと月半、この城に閣下がいらっしゃらない。
その間に、契約が切れる。
私は、そこまで数えて、口をつぐんだ。
つぐんだのに、ラウル様がこう仰った。
「切れるとき、私はここにおりません」
「……はい」
「不便でしたら、日付を動かします」
「動かせるのですか」
「合意があれば」
合意。
三派の合意ではない。この方と私の合意だ。二人で決められることが、あの契約にはひとつだけある。
「……いいえ」
私は、首を振った。
「規定どおりで結構でございます」
言ってから、なぜ断ったのかが、自分でもわからなかった。
*
部屋に戻ると、マルタが暖炉に薪を足していた。
私の顔を見て、手を止めた。
「お嬢様」
「なあに」
「何かございましたか」
「……向こうで、婚礼があるそうよ」
マルタは、薪を持ったまま動かなくなった。
それから、それを暖炉に入れて、火かき棒を置いて、こちらを向いた。
「いつでございますか」
「春の、三月十四日」
「……九十日ほど、ございますね」
この子も数えた。
*
「お嬢様。行かれるのですか」
「わからないの」
「わからない」
「決めなくていいと仰ったから、決めていないの」
マルタは、しばらく私を見ていた。
それから、はっきりした声で言った。
「行かないほうがよろしゅうございます」
「そう」
「はい」
「理由は」
「腹が立ちますので」
この子は、いつもそれだ。
私は少し笑って、それから、笑えたことに驚いた。
*
その晩、灯りを消してから、私は九十日のことを考えた。
九十日後に、あの方たちが婚礼を挙げる。
挙げたところで、私には何も起きない。婚約は解消されている。書面の上で終わったものは、終わっている。
終わっているのに、日を数えた。
数えたのは、たぶん、あの日が何かの期日に見えたからだ。
書式を長く扱っていると、日付には二種類あることがわかる。何かが始まる日と、何かが切れる日だ。切れる日のほうが、たいてい重い。
春の三月十四日は、始まる日だ。
あの方たちにとっては。
*
*
もうひとつ、考えたことがある。
あの方たちの婚礼には、次第が要る。次第を組むには、家格を揃えねばならない。揃えるには、養女の手続きが要る。
その手続きを、誰が書くのか。
書けなければ、次第が組めない。組めなければ、式が挙がらない。挙がらないまま三月十四日が来ると、それは婚礼ではなく、婚礼の予定だった日になる。
——挙がるだろうか。
考えて、私は自分に少し驚いた。
挙がらなければいい、と思ったわけではない。思っていない。
ただ、書式が足りているかどうかを、反射で確かめていた。
十一年、そうやって生きてきた。誰かの婚礼の日が近づくと、まず、その日までに何枚の紙が要るかを数えた。数えて、足りないぶんを書いた。
今度は、書かない。
書かないので、足りているかどうかを、私は知らないままになる。
*
寝返りを打って、私は別のことを数えはじめた。
契約は六か月。締結したのが、こちらに着いてすぐの秋口。
六か月後は——
指を折って、二度数えた。
二度とも、同じところに来た。
三月の、終わり。
*
起き上がって、灯りをつけた。
卓の引き出しから契約書の写しを出して、日付を確かめた。
確かめるまでもなかった。覚えている。
六か月。締結の日から数えて、切れるのは春だ。
向こうで婚礼が挙がる月に、こちらでは契約が切れる。
偶然だ。
偶然に決まっている。契約の日は私が署名した日で、婚礼の日はあちらが決めた日だ。繋がりようがない。
繋がりようがないのに、同じ月に二つ並んだ。
*
灯りを消して、寝台に戻った。
目を閉じて、また日を数えた。
九十日。
九十日で、二つのことが終わる。ひとつは、とうに終わっているものの後始末だ。もうひとつは、まだ始まってもいないものの期限だ。
——始まってもいない。
そう思ってから、私は寝返りを打った。
打ってから、なぜそんな言い方をしたのかが、わからなかった。
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