第25話 同じものを、同じ日に
神官が来たのは、雪の降りはじめた朝だった。
城の門のところで、ひと晩座っていたのだという。ベルナー様が朝いちばんに見つけて、中に入れてくださった。
通されたときには、まだ手が震えていた。
*
五十くらいの方だった。法衣の上に重ねた外套は、明らかに借り物だ。
「聖堂参事会の、書記でございました」
でした、と仰った。
私は椅子を勧めて、湯を頼んだ。
話は、湯が来てから始まった。
「教会の課税権が、証明できなくなりました」
「……どのように」
「南の四つの司教区で、領主が上納を止めております。理由は、教会に徴収の権利があることを示せ、と」
「示せない、と」
「示せません」
その方は、湯の椀を両手で持っていらした。
「聖俗の課税権の帰属は、二百年前の裁定で決まっております。原本は記録院に。写しは、教会にもございました」
「ございました」
「三十年前の火事で焼けました」
*
私は、その話を知っている。
三十年前に聖堂の書庫が焼けて、教会は写しを失った。失っても困らなかった。記録院に原本があり、証人が真正を証明できたからだ。
証明を求められることも、そもそもなかった。
*
「三十年、一度も求められませんでした」
神官は、椀を見ていらした。
「証明を、でございます。焼けたあとも、どなたも仰らなかった。教会の権利は教会の権利だから、当たり前なのだと思っておりました」
「……はい」
「当たり前ではなかったのですね」
私は、答えなかった。
「求めても通らない。皆がそう知っていた。知っていたのは、通らないようにしていた方がいらしたからでございましょう」
その方は、顔を上げられた。
「あなたが」
「わたくしではございません」
嘘ではない。
「わたくしの前に父が、その前に祖父が。四百年、そういう者が置かれておりました。わたくしは、いちばん最後の一人でございます」
神官は、しばらく私の顔を見ていらした。
それから、椀を卓に置いて、両手を膝に置かれた。
「わたくしどもは、権利があると思っておりました。あると思っていたものが、実は、外の誰かに毎年支えられていた」
「……はい」
「礼を申し上げたことが、一度もございません」
私は、首を振った。
「申し上げていただく筋のものではございません」
「筋の話ではございません」
その方の声が、少し掠れた。
「知らずにいたのが、恥ずかしいのでございます」
*
「参事会は、記録院に照会を出しました」
「はい」
「原本は引き揚げられておりました」
*
「……それで、どうなりましたか」
「わたくしが、証人を探せと申しつかりました」
「探しに」
「はい。峠を越えました」
その方は、椀を置かれた。
「参事会には、あなたが原本をお持ちだと申し上げました。持ち出しは書式どおりで、盗みではないと。……信じてはいただけませんでした」
「信じられないと、どうなりますか」
「盗まれたことにしたほうが、都合がよろしいのです」
*
証明できないのが落ち度ではなく、盗まれたせいだということにすれば、上納を止めた領主に強く出られる。証明の代わりに、怒りが使える。
筋は通っている。通した先に、何もないだけだ。
「あなたは、それに反対なさった」
「反対いたしました」
「それで」
「書記を解かれました」
*
その方は、そのあと三日かけて、事情を話された。
一度には話せなかった。話すたびに手が震えて、そのたびに湯を出した。三日目に、ようやく本題を仰った。
「原本の写しを、いただけませんか」
「お出しできます」
その方が、顔を上げられた。
「……本当に」
「写しは、どなたにでもお出しします」
「では、真正であるという署名を」
「いたしかねます」
*
その方は、うなだれられた。
うなだれて、それから、こう仰った。
「軍の使者が、半月ほど前に来られたと伺いました」
「はい」
「同じことを仰って、同じように断られたと」
「はい」
「では、なぜ写しだけはお出しになるのですか。写しだけでは、何の役にも立ちません」
私は、そこで少し考えた。
考えて、条件をつけることにした。
*
「役に立つ形で、お出しできるかもしれません」
「……と、仰いますと」
「同じものを、同じ日に、三方へお出しします」
その方が、目を上げられた。
「三方」
「軍、財、教会。同じ写しを、同じ日付で、同時に届くように出します」
私は、卓の上で指を三つ立てた。
「一方に出せば、その紙はその方の紙です。三方に同じ日に出せば、どなたの紙でもございません。どなたの紙でもないものは、争いようがございません」
*
その方は、震える手で椀を持ち直された。
「……署名がなくてもですか」
「署名は、いたしません。真正であるとは、誰も言えません」
私は、そこは正直に申し上げた。
「ただ、三方が同じ紙を持ち、三方とも、相手が同じものを持っていることを知っております。そのうえで争うには、三方のうち二方が、同じ紙について同じ嘘をつかねばなりません」
その方が、椀を落としかけた。
「……それは」
「難しゅうございます」
*
条件は、三つ申し上げた。
三方すべてに同時に届けること。届け先は参事会ではなく、三派それぞれの書面を扱う部署とすること。そして、この写しを求めたのが教会であることを、書面に残さないこと。
三つ目を申し上げたとき、その方が訊かれた。
「なぜ、隠すのですか」
「隠すのではございません」
私は、首を振った。
「誰が求めたかが残ると、その方のために出したものになります。残さなければ、出た理由がなくなります。理由のない紙は、誰のものでもございません」
*
その晩、私はラウル様のところへ行った。
早馬を三騎、お借りしたいと申し上げた。
「三方に、同時に届けます」
「何を」
「二百年前の裁定の写しでございます。七枚を三通」
「あなたの署名は」
「入れません」
ラウル様は、少し目を細められた。
「入れないほうが効きますか」
「入れないから効きます」
「では、こちらの得は」
訊かれると思っていた。
思っていたので、答えは用意してあった。
「ございません」
「ない」
「早馬の代と、二十日ぶんの手間が出ていくだけでございます。あちらの三派が困らなくなるだけで、この領には一銭も入りません」
私は、そこで頭を下げた。
「それでも、お願いいたします」
ラウル様は、しばらく黙っていらした。
それから、こう仰った。
「五騎お使いください。三騎では、途中で潰れます」
*
手筈を組むのに、二十日かかった。
同じ日に届けるというのは、言うのは簡単で、やるのは面倒だ。街道の日数が違う。関所の混み方が違う。冬は雪で読めない。
封を三つ作った。中身は同じ、七枚の写し。日付も同じ。宛先だけが違う。
封をするとき、私は末尾の白いところを見た。
書かなかった。
書かないことに、意味がある。今度は、そのことがはっきりわかっていた。
*
三騎が出ていくのを、城の門で見送った。
橋を渡って、三方に分かれる。北の道と、西の道と、南の道。西が王都だ。
見えなくなるまで見ていた。
隣にベルナー様が立っていらして、こう仰った。
「オルデン様。あれは、何をなさったのですか」
私は、少し考えた。
「……つなぎ直しました」
「つなぎ直す」
「切れたところを、一本だけ」
*
部屋に戻って、私は棚のいちばん下の段を見た。
二枚入っている。
一枚目が、ハーゲン様の三行の書面。二枚目が、いま出した写しの控えだ。
片付いたものの段だ。
ひと月ほど前、この段は空だった。
私は椅子に座って、しばらくその二枚を見ていた。
——満足だ。
その言葉が、いちばん近かった。
久しぶりに、口のなかに何も残っていない。
*
その晩、マルタが茶を持ってきた。
「お嬢様。今日は、よくお笑いになりましたね」
「笑ったかしら」
「門のところで。三騎が分かれるのをご覧になって」
覚えがない。
マルタは茶を置いて、下がろうとして、それから振り返った。
「今日お出しになったものは、あちらの国のためのものでございますよね」
「そうね」
「あちらの国は、お嬢様を追い出しました」
私は、椀を持ったまま、その子を見た。
「お嬢様がなさることに、口を挟むつもりはございません。ただ、腹が立ちます」
*
その子が下がったあと、私は茶を飲んだ。
腹が立つ。
言われて、初めて考えた。
私は、腹を立てていない。王都で一度だけ立てた。書斎で、誰もいない部屋で。あれきりだ。
立てていないのは、躾のせいだと思っていた。
違うかもしれない。
今日出した三通は、あの国のためではない。二百年前に取り決めた誰かと、それを写しつづけた四百年ぶんの誰かのために出した。あの国はたまたま、その上に乗っているだけだ。
乗っている人たちが私を追い出したことと、下に敷いてあるものが崩れることは、別の話だった。
——別の話にしていいのだ。
そう思ったら、少し楽になった。
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