【壁の内側】1
それは、ある意味では、驚くような光景であり。
また、ある意味では、想像通りの光景だった。
それを目撃したのは期末テストを乗り越え、学生の楽園である夏休みが目前に迫った、七月上旬のある日のこと。
今日も今日とて、昼休みを一人で過ごしていた夕也は、日を追うごとに暑くなる気温に若干の苛立ちを覚えながら、購買部に併設されている自動販売機に向けて歩いていた。
夏休みを目前に控えたこの時期。
それに合わせて浮足立つクラスメイト達。
そして、今日は優悟が家の事情で休み。
それだけの条件が揃えば、いくら夕也であっても教室には居づらいものである。
夕也は自動販売機で紙容器のジュースを買うと、裏庭へ向かう。
日陰になっているベンチに腰を下ろし、空を見上げて、ボーっと時間を潰す。
周囲に人はいない。なんとも穏やかな時間である。
だから……気付くことができたのだろう。
視線の先、裏庭から見える渡り廊下に見えた一つの影。
小柄な体型に、見覚えのあるヨレヨレのパーカー、そして猫背。
顔を隠すようにパーカーのフードを深く被り、人目から逃げるように歩いている一人の同級生――河野玲奈がそこにいた。
(何やってんだ?)
夕也は目を凝らし、明らかに挙動不審な玲奈を見る。
人とすれ違う度にビクっと体を跳ねさせ、必要以上に距離を取るその姿は……正直心配になるレベルのものだった。
(人見知りなことは知ってるし、男が苦手っていうのも知ってたけど……あそこまで酷かったのか)
夕也の知る玲奈は、多少――いや、かなり残念で色々と勿体無い、見た目だけが異様に優れているハリボテ少女だが、あそこまで人に怯えるような奴ではなかった。
それなのに――
夕也は残っていたジュースを一気に飲み干すと、静かにベンチを立つ。
ファンがどうだとか、玲奈が男子に人気のある四水姫だとか。
夕也にとって、その行動がもたらすリスクは山ほどあった。
しかし、幸いなことに、ここは人の往来が少ない裏庭。
決して人がいないわけではないけれど、人が多くいる中庭に比べたら、変な噂が広まる可能性はグッと低くなる。
夕也は周囲を見渡し、知っている顔がないことを確認すると、そんな彼女の元に向かって足を進めた。
一体何が、どんな感情が、夕也をそうさせるのか。
それは彼自身も分かっていなかったが、とにかく夕也は、そんな玲奈を見て見ぬふりなんてできなかった。
それほどまでに、玲奈の様子はおかしかったのだ。
「ま、少し話すだけだ」
後ろから声をかけて、変に驚かすのも可哀想だということで、夕也は玲奈の進行方向に先回りすると、徐々に近づいてきている、陰の雰囲気全開の一人の少女を待ち構える。
手始めにボディーランゲージ。
夕也は軽く手を振って存在をアピールした。
「……む、反応なし」
次はもっと手振りを大きくしてみるが、
「……これでもダメか。っていうか、どんだけ視野が狭いんだ……フードを深く被り過ぎだろ……」
玲奈は夕也の存在に気付くことはなかった。
それではと最終手段。
夕也は踊るように体を揺らすと、万歳するように両手を上げてみた。
すると、
「…………あ」
玲奈は一瞬、チラリと不審なモノを見るような視線を夕也に向けると、避けるように進路方向を少し右に寄せる。
一人で踊っているアホな男子高校生と、それを冷ややかな目で見る女子高生。
実に滑稽である。
(俺、なにやってんだろ……なんか変なテンションになっていたわ……)
僅か数秒で冷静を取り戻す夕也。
襲ってきたのは、自分の行動により生じた後悔だった。
誰かを心配する、アピールのために踊る。
慣れないことはしないに限るのだ。
(つーか、俺だって気付いてない……?)
目が合ったのにも関わらず、俯いたままの玲奈。
理由は分からないが、玲奈は突然踊りだした男子高校生が夕也だということを認識していない様子で――夕也は声をかけることにした。
「河野?」
「……」
反応なし。
「河野……? って、ああ、そういうこと」
何かに気付いた夕也は、玲奈との距離を詰める。
そして、手を目の前でフリフリ。
彼女の意識をこっちに持ってくると……玲奈は知らない人が絡んできたと思ったのだろう。
怯えた表情を浮かべながら、パーカーのポケットから伸びていたコードを引っ張り、耳からイヤホンを外す。
そして顔を上げ、その相手が夕也だったということに気付くと、
「あれ? 桐原?」
安心したかのように顔の強張りを解いた。
「イヤホンしてたんだな」
「ああ、うん。してた」
そしてお互いに無言になる。
今の玲奈と話すのは、地雷原を探知機無しで歩くようなものである。
下手なことを言って地雷を踏むわけにはいかなかった。
夕也の脳はフル回転。
しかし、有効打になるような話題は出てこなくて……。
当然だが、こういう時の対処法を彼は知らなかった。
だから――
「えっと……元気か?」
と、なんとも御粗末なきっかけ作り。
これ以上ないくらい下手くそである。
「あ、うん。元気だけど……うちになにか用事あった?」
「別にないけど……姿が見えたから話しかけてみた……的な?」
「……ふふ。なにそれ」
ようやく見せた小さな笑み。
玲奈が笑っている理由は、夕也の明らかにテンパっている様子がおかしかったという、なんとも格好付かない理由だったが、それでも夕也は一旦の安心を得る。
「このあと、時間あるか?」
「時間? お昼は済ませたし……あるにはあるけど」
チラチラと見え隠れしている警戒心。
夕也に対して、その状態になるのは二度目だった。
一度目は紫苑祭の時。
ただ、その時と違うのは、今の玲奈と夕也には関係値があり、夕也には下心がないことを玲奈が知っていることである。
「流石に授業をサボるのはダメだけど、それまでなら……いいよ」
「了解。それなら、ちょっとこっち来て」
――なぜ、危険を冒してまでこんなことをしているのか。
それは、彼自身も分かっていなかった。
夕也は玲奈と同じか、それ以上に拗らせた人間である。
人付き合いは苦手だし、そもそも人に興味を持つこと自体がほとんどない。
それは生まれ持った性格のせいなのか。
あるいは姉から受けた、哲学のめいた教えのせいなのか。
ただ、一つだけ分かることがあるとすれば、夕也が見た玲奈の姿。
怯えたような表情。
明らかに人を避けて歩くその姿。
どれもこれも、これまでに見てきた玲奈とはまるで違っていた。
それを見て放置なんてできるはずがなかった。
だから――
夕也は玲奈を連れ出すと、つい先程まで自分が座っていたベンチへと歩き出すのだった。
これは夕也の選択。
本来なら主人公が解決するべき問題に、自ら首を突っ込んだ――桐原夕也の選択である。




