峠のむこう
「メキリオ、エショナが居ない!」
アルジの鬼気迫る声でメキリオは目を醒ました。アルジは必死にメキリオの体を揺すっている。
「んん、ちゃんと探したのか。用を足しに行っているのじゃないのか。」
メキリオは、上半身を起こしながら目を擦る。
「周りは探したよ。毛布がない。エショナの荷物も無くなっている。」
メキリオはしっかりと目を醒ます。本当に出て行ったのだ、夜の内に。
「何か、書置きの様な物はないか。」
彼女の気持ちは想像できる。でも、確証が欲しい。
「何もない。エショナと彼女の荷物が無いのに気付いてから、焚火の中まで探したよ。」
きっと、エショナはメキリオと話した後、アルジが失意の中で眠るのを待ってから、この場を離れたのだろう。
「僕がいけないんだ…。僕があんな事、言い出さなけれりゃ。」
アルジは項垂れて呟く。
「なんだ。何かエショナに言ったのか。」
メキリオは何も知らないかの様に訊く。
「僕の気持ちを押しつけて、困らせちゃった。だから…。」
アルジは思わず言い淀む。
「アルジにこれ以上迷惑を掛けたくないから姿を消したんだ。なに、ここまでくれば、国境まで馬車で2日だ。女性の足でも5日もあれば、国境を越えられるだろう。但し、道に迷わない事と、国境警備隊に見付からなければだがな。」
「無茶だよ。国境を越えられずに捕まっちゃう。」
やにわにメキリオはアルジの胸倉を掴むと、自分の鼻先に引き寄せてアルジの顔を睨みつける。
「いつまで、グチグチ言っているんだ。お前が今やる事はそんな事か!考えている時間は無いぞ!」
余りに急な出来事にアルジは言葉も無い。こんなに感情を表に出すメキリオを見た事が無い。驚いているアルジをひとつ睨みつけてから、メキリオはアルジを放り出す。よろけて尻餅をつくアルジを置いて、自分の毛布を纏め、焚火跡に行って火の始末をする。更にこれ見よがしに出掛ける準備をして、馬車に荷物を積んでいると、アルジがメキリオの所にやって来る。
メキリオは手を止めてアルジの顔を見る。アルジも真っ直ぐにメキリオを見ている。その目はさっきまで、めそめそと自分のした事を悔やんでいた男のものとは違っていた。
「メキリオ、カーベルを貸して。エショナを探して連れ戻す。」
メキリオは頬を緩める。
「良いだろう。鞍は無いぞ。裸馬に乗れるか?」
アルジはしっかりと頷く。
「大丈夫。本部に居た時、いつも乗って遊んでいたから。毛布とロープを使うよ。」
いい表情だ。やっと男になったか。
「夜道に女の足だ。そんなに遠くには行っていない。むしろ、どっちに行ったかは全く当てにならん。国境の方向に向かったと決めつけるな。」
「分かった。」
カーベルを荷馬車の脇に連れて来て、その背に馬車の荷台から飛び乗ると、まずは国境の方向に走らせる。緩やかに起伏する台地は遠くまで見通しが利く。けれど大小の岩が林立し、人が隠れる場所はいくらでもある。最初の内、アルジはエショナの名を呼びながら探したが、道に迷った訳ではなく、自分で出て行ったのだから、声が聞こえたら隠れるだろうと気付いて呼ぶのをやめた。遠くには行っていない。丁寧に岩陰を1つ1つ確認していく。メキリオに言われた様に、真っ直ぐに国境に向かった可能性は低いと予想した。夜中だったし見知らぬ土地だ。むしろ、方角などお構いなしに、兎に角アルジ達の野営場所からできるだけ離れる事だけ考えていただろう。
エショナを見つけるのにそれ程苦労しなかった。彼女は岩場で足を挫いて、さして離れていない岩陰に隠れるように座り込んでいた。カーベルに跨ったアルジの姿が見えても、覚悟していたのか逃げ出そうとせずに、ゆっくりと近づいて来る彼の姿を見つめている。空色のシャツを着たエショナの片方の足首が腫れている。
「エショナ、迎えに来たよ。」
エショナの前でカーベルから降りると、手綱を握って立ったまま、アルジは静かに言う。エショナは悲しそうな顔でアルジを見つめたまま、何も言わない。
アルジはエショナに近付くと、屈み込んで痛めた足の様子を見る。
「足を挫いたんだね。こんな岩場を闇夜に歩くから。」
「…もう、アルジに…私を連れて行く…理由は…理由はない。」
エショナはぐしゃぐしゃの顔で、絞り出すように漸くそれだけ言う。
「僕は言ったよね。『セニエスランドまで責任をもって連れて行く』って。必ず連れて行く。約束だ。」
アルジはエショナを真っ直ぐに見ている。その声が岩に反射する。
「さあ、掴まって。」
エショナの白い腕を取り、アルジは肩に回す。彼女の足元を気遣いながら、ゆっくり立ち上がる。足場の悪い岩の上で、挫いた足が痛いのか、立ち上がりかけたエショナはバランスを崩す。倒れそうになるエショナを庇い、思わずアルジが彼女を抱きとめる。エショナは両腕をアルジの首に巻き付け、辛うじて倒れずに済ませる。2人は互いの肩に顔をのせたまま動きを止める。相手の息遣いが伝わる。
「御免なさい。」
「エショナは謝るのが癖だね。エショナが謝らなけれりゃならない事なんか、なんにもないのに。」
アルジは大きく深呼吸をする。エショナも小さく深呼吸をする。お互いにもう一度。互いの匂いを忘れない様にするために。
メキリオは1人、昨日の野営場所に取り残されて、焚火を起こし直すと昼飯の準備をして、アルジ達が帰って来るのを待った。エショナを乗せたカーベルを引いて、アルジの姿が見えた時には、とうに午を過ぎていた。
「遅いぞ。腹が減って我慢できなかったから、食べてしまったところだ。」
アルジの姿を見てメキリオは愚痴る。
「エショナが足を挫いてしまって。僕は歩いてきたから遅くなった。」
「そうか。」
カーベルから降りるのを助けるために、アルジはエショナの体を支える。
ふん、随分仲良くなったじゃないか。気持ちの整理はどうなったんだ。
メキリオは冷めた目で2人の様子を見る。アルジは焚火の前に座るメキリオに1歩踏み寄る。
「峠越えの準備をしなきゃ。早い方が良いよね。明日、国境を越えられる様に先にも進みたい。」
「分かった。それじゃあ、早く昼飯を済ませてしまえ。俺は、国境を越えるための馬車の細工をやる。カーベルに水を与えて、準備が整ったら、出発するからな。」
メキリオは立ち上がってカーベルを馬車へ連れて行く。
「また、干し肉か。」
アルジは楽しそうな顔で愚痴をこぼした。
メキリオはシャルアで仕入れておいた板を使って国境を越える準備を始める。昼飯を簡単に済ませると、アルジもその手伝いに加わる。御者台の少し後ろ、荷台の途中に板を横に渡して固定する。布を使って、板と合う部分に幌から垂れ布を垂らす。これで、御者台と板との間に人間1人が横になって入れる空間ができる。御者台側の垂れ布と新しくつけた垂れ布の両方を垂らしておけば、外から御者台側の垂れ布と荷台の板を見た時と、馬車の後ろに回って荷台を覗き込んだ時の垂れ布と板の見た目が同じ様になり、間に空間があると直ぐには気付かない。勿論、良く調べられたら気付かれる。検問は厳しいとのキジロフの情報があるから、これだけで国境が越えられる訳ではない。
偽装が済むと荷物を纏め、馬車を国境に向けて進める。馬車で数時間進めば峠の国境に届く場所で最後の野営をした。夕食では、珍しく大きな鍋を持ち出して、火に掛け湯を沸かす。湧き水のない西部の台地で水は貴重だ。明日はセニエスランドの町で宿泊できる事を見越して、残しておいた水を惜しげもなく使う。沸騰した湯に、以前アルジが草原で摘んだ『猫が食べる草』を入れる。日が経って乾燥し、干乾びたような草を一気に鍋に放り込む。萎びていた草が湯の中で踊り、みるみる鮮やかな緑色を取り戻す。
「これ、どうするの?」
その一部始終を眺めて、エショナが不安そうな顔になる。
「いやあ、僕も初めて試す事だから、どうなるか分からないけどね。何だか、凄い臭いだね。」
湯気に乗って、青臭い草の香りが広がる。
「自分でやるって言い出した事だから、ちゃんとケリは付けてもらうぞ。俺とエショナは普通の飯だ。アルジだけ、この温野菜付きのディナーを召し上がってもらう。」
メキリオが鍋を掻き回しながら、意地悪そうにアルジを横目で見る。
「えー、この草を食べるの?食べられるの?」
「食べられる…と思う。猫が食べているくらいだからね。きっと人間が食べても大丈夫だよ。」
アルジの声から不安が伝わって来る。何とか元気に見せているのが丸わかりだ。
「え、食べるの、もしかして初めて?大丈夫?お腹壊さない?」
何も知らないエショナは、素直にアルジの体を心配する。アルジは笑って誤魔化す。
「エショナ、明日、みっともない姿を見せるけど、驚かないでね。」
「国境を完全に越えてしまうまで、何があっても荷台の隙間で声を出さずにじっとしているんだ。できるか?」
意味有り気にメキリオがエショナに訊く。言葉は真剣だが、焚火に照らし出されるメキリオの表情はどこか楽しそうだ。
「分かった。」
エショナは何だか変な雰囲気に呑まれながらも頷いた。
トキ峠の国境検問は比較的関係が良好なデクレシアとセニエスランドが共同で運営している。両国の間を行き来する人と物をチェックし、関税を徴収する。国内のオーベル人とサニキス人の対立が激化しているデクレシアに対して、反体制勢力が隣国セニエスランドで武器を調達して密輸しているとの情報があり、国境警備が強化された。通行証を持たない人間の越境を禁止してから、既に長い年月が過ぎている。
大地に働いた巨大な力で盛り上がった石灰岩の山脈が、デクレシアとセニエスランドの国境に連なる。その中でも低い場所を探るようにうねうねと曲がりくねって道が山肌を上り、峠を越えると同じ様にそろそろと転げ落ちないよう山肌に貼り付いて一本の道が下って行く。峠の検問所から見渡せば、山腹から続く、まばらに灌木が生えている岩だらけの台地を遥かに眺める事ができる。
雲の少ない良く晴れた風の柔らかな日だ。坂道を上るメキリオの馬車は、もう2時間も前から、山道を登る姿が峠の検問所で確認できている。幾重にも折れ曲がりながら登る道は、峠を直ぐそこに見ていながら、なかなか近付かない。往来は多くない。国境の警備兵達は、峠で業務をしながら、国境に向かって登って来る者達を確認して待ち構えている。
トキ峠に漸くメキリオの馬車が姿を現して検問所の前で停まる。カーベルが吐く荒い息は、冷えた空気に触れて白くなり、風に流されて行く。御者台にはメキリオしかいない。御者台の後ろの幌の垂れ布は下げられている。
「通行証は持っているか。」
ライフルを肩に掛けた初老の警備兵が馬車に近付いて来る。
「ああ。」
メキリオはポケットから通行証を2枚取り出して、警備兵に渡す。警備兵は受け取った2枚を両手で1枚ずつ持って確認する。
「2人だ。」
メキリオが付け加える。
「トルドーか。もう1人は?」
通行証の写真とメキリオの顔を見比べながら、警備兵が訊く。
「相棒は調子が悪くて、荷台で寝込んでいる。とても出て来られない状態だから、悪いが、後ろに回って確認してやってくれ。」
警備兵は両手に持った2枚の通行証の表裏を見返しながら、ゆっくり歩いて馬車の裏手に回る。
「何しにセニエスランドに行くんだ。」
別の警備兵が出て来て、メキリオに越境の目的を尋ねる。
「ああ、仲間に小麦の商売を勧められてね。俺と取引してくれる仲買人を探しに行くのさ。」
「小麦か。もう、随分商売している連中がいるぞ。今から入り込めるのか。」
「さあて。行ってみてからじゃないと、何とも言えないね。」
メキリオともう1人の警備兵が話している間に、また別の警備兵が馬車の下回りを覗き込んで、不審な物が無いか確認している。さっきの警備兵は裏手に回ると、馬車の荷台を覗き込んだ。後ろの垂れ布は巻き上げてあり、荷台にアルジが寝転がっている。見回すと、それ以外にはカーベル用の木桶やロープなど大した荷物は載っていない。
「おい、大丈夫か。」
ぞんざいに警備兵がアルジに声を掛ける。
「…ああ、ちょっとね。腹をこわして。下痢が止まらないんだ。体に力が入らないよ。」
警備兵の声掛けに応じて、アルジが上体を起こす。
「何か悪い物…う!」
警備兵は思わずのけ反ると、鼻を手で覆う。荷台の中から強い糞尿の臭いが襲って来たからだ。良く見れば、荷台のそこら中に水っぽい排泄物があり、アルジは下半身裸のままだ。
「『我慢できない』って言っても、メキリオが馬車を停めてくれないんだ。『しょっちゅう停まっていたら、いつまで経っても峠を越えられない』って言って。だからしょうがないから、ここで漏らすしかないだろ。」アルジは警備員に薄笑いを浮かべて見せる。顔色が悪く、如何にも調子が悪そうだ。「ちょっと汚いけど、中をチェックするんだろ。乗り込むかい?」アルジは警備兵が乗り込める様に、荷台の隅に移動する。「うう、痛てて…」アルジは背中を丸めて呻く。
「良い。もう分かった。…おい、下回りのチェックは済んだか?」
警備兵は近付こうとせずに、下回りをチェックしている警備兵に声を掛ける。
「ああ。」
「よし、良いぞ。早く行け。」
初老の警備兵は御者席に急いで戻ると、メキリオに2枚の通行証を渡す。メキリオは黙って通行証を受け取ると、手綱を操ってカーベルを動かす。もう、警備兵達は、次の通関者のチェックに取り掛かっている。メキリオの馬車はそれを横目に、そろそろと峠を越え、セニエスランドの坂道を降りて行った。
アルジの下痢は朝飯を食べ終わった頃から始まり、峠を越えた後、徐々に弱くなりながらその日いっぱい続いた。猫が何か悪い物を食べてしまった時に、胃腸の中を空にする為に食べる草の威力は凄まじかった。峠を越えた先の町の入口で小川を見つけ、馬車の荷台を洗った。ここでエショナも荷台の隙間から外に出る。
「大丈夫?」
メキリオが荷台を洗っている間、小川のほとりにへたり込んでいるアルジの傍らに来て座り、エショナは心配気に彼を見る。
「ああ、もう、出る物も無いからね。腹の中空っぽ。」
アルジは照れ隠しにおどけて見せる。
「『猫の食べる草』で、こんな事になるなんて知らなくて。私の為に辛い思いまでさせて御免なさい。」
エショナはペコリと頭を下げる。
「どうだい、メキリオと僕が考えた作戦は?ばっちり上手くいったろ。」アルジは疲れた顔で笑顔を作る。「周りを見てみなよ。…ここがセニエスランドだ。」
言われてエショナは顔を上げる。アルジは首を左右に回して周囲の景色を確認する。エショナは、小川の脇に生える木から伸びた2人を覆う枝葉と、それを通して降り注ぐ木漏れ日をじっと見つめている。アルジはその横顔で視線を止める。標高はまだ高いのだろう。少し冷たい風が緩やかに頬を撫でて行く。風はエショナの束ねた栗色の髪を揺らし、彼女の上の木漏れ日を揺らし、小川の上流へと走り去って行く。
このひと時を自分のものにするために、僕は峠を越えて来たんだ。
「アルジ、ありがとう。」
振り返ったエショナの青い瞳を、きっとアルジは忘れない。
「ジルは、国境に近いレスクウェルという町に居る。」
その日の宿を確保すると、3人は相談を始めた。峠の検問は越えられた。それで終わりではない。エショナを家族の元に、夫ジルの元に送り届けて初めて終わりになる。まずはエショナ達家族が聞いていた情報を確認する。
「レスクウェルか。そんなに遠くない。明日の午前には着くだろう。レスクウェルの何処に居るのか、もっと情報は無いか?」
メキリオは地図を見ている。
「いいえ、それ以上は。ただ、彼が家を出る前に、越境したサニキス人は集まって生活しているから、それを頼りに暮らせる場所を探してみると言っていました。」
それだけじゃ、探すのに苦労する。3人ともそう思いながら、それ以上口にしない。
「レスクウェルは大きな町なの?」
アルジがメキリオに訊く。
「地図に書かれた記号じゃあ、規模は分からない。後で宿の主人にレスクウェルに関する情報を訊いてみよう。」
レスクウェルに居なかったら…。
アルジの頭を過る。きっと、メキリオもエショナも同じ不安を思っていても、それを口にはしない。ジルが見つからなかったら、どうするのか。ずっと探し続ける訳には行かない。自分はそんな彼女の不幸を望むような事を想像して良いのか。アルジはこの相談を続ける事が苦しくなってくる。
「ジルの特徴を教えておいてくれ。」
「はい。」
メキリオとエショナの会話は続いている。アルジは腹の調子がまだ完全ではないふりをして、そっとその場を離れた。
メキリオが宿の主人に訊いて、レスクウェルの情報を仕入れて来た。レスクウェルは辺境州の州都で、この辺りでは大きな町だ。この町から一本道で繋がっている。迷う心配はない。馬車なら2時間もあれば辿り着ける。デクレシアからの避難民は、街の西部、レクスウェル市街の中で、デクレシアとの国境から一番遠い区画にかたまって暮らしている。簡単な自治組織があって、コミュニティの治安を維持しているらしい。生憎、ジルという大工の事は、噂にも聞いた憶えが無いそうだ。
「広い街の中を探す時間を確保しなければならない。明日は早くにここを出よう。」
メキリオは二人にそう言って就寝した。
夜が明けた。恐らく今日が最後になる。遂にこの日が来た。いずれ来る事は覚悟していても、胸の中がざわつく。アルジは誰よりも先に目を醒ます。2人を起こさない様に静かに支度をする。力が入らない腕を宥めすかし、自分の気持ちを追い立てながら、手早く済ませて外に出る。何かで気を紛らわさずには居られない。まだ人気のない宿の裏庭で、カーベルを馬車に繋ぐ。
「アルジ。」
エショナが駆け寄って来る。いつもの様に交互に着ていたら、今日は空色のシャツの番なのに、昨日と同じ深緑のシャツを着ている。アルジは支度の手を止めると、エショナに向き直って1つゆっくりと深呼吸をする。
「アルジ、1つだけ許して欲しい事があるの。聞いてくれる。」
何か、気まずそうにしている。上目遣いでアルジの気持ちを探っている。
「何?言ってみて。」
素っ気ない対応しかできない自分が腹立たしい。
「アルジに買ってもらった青い服、これからも時々着て良い?」
何でこんな事を訊くんだろう。あの服はエショナの為に買ったんだ。今までだって着ていたじゃないか。今日が最後だから、空色のシャツを着たエショナの姿が見られると思ったのに。
「良いよ。当たり前だろ。」
なんで、こんな返事しかできないんだ。
「良かった。でも勿体無くて着られないかも。…大切にするね。」
「支度できたか。直ぐに出掛けるぞ。」
メキリオが、宿の清算を終えて裏庭に現れる。エショナは急いで馬車の荷台に乗り込んだ。
レスクウェルに着くと3人は馬車をあずけ、西地区のサニキス人居住地を目指した。初めての街だ。時々、人に道を訊きながら進む。居住地周辺に行き着く頃には陽は1番高くなっていた。昼飯を取る事も忘れて、3人は聞き込みを続ける。
ジルという痩せた中年男の大工を知らないか。
何人か聞き込む内に居所が知れる。
「林檎通りと十番通りの交差点から左に入った所に、サニキス人が固まって暮らすスラムがある。そこにいる筈だ。」
地元の男が、そう教えてくれる。
「ああ、ありがとう。」
「あの、元気でしょうか?」
勢い込んでエショナが会話に割り込む。
「え?ああ、その筈だ。この前、お袋の家の修理をしてもらった時に、他の職人と一緒に来ていたよ。」
「そうですか。」
エショナがほっとした表情になる。
「あんた、身内の人かい?」
「はい。」
「そうか、デクレシアからやって来たんだね。確か家族を呼び寄せているって言っていたよ。」
「はい。」
エショナはただ頷く。
言われた交差点も、サニキス人のスラムと思しき地区も、直ぐに見当がついた。
「エショナ!」
スラムの入口まで来ると声が聞こえる。エショナは声がした方を振り向き、見慣れた姿を探す。スラムの中央を貫く埃っぽい道を、所在無げに数人のサニキス人がうろついている。その中を男が1人、こっちに向かって走って来る。
「ジル!」
男に向かってエショナも走り出す。2人は道の途中で出会うと、手を取り合う。互いの存在を確かめ合った後、男はエショナを抱きしめた。抱きしめては離して顔を見つめ、また抱きしめる事を暫く繰り返している。
「良く来た。父さん達はどうした?」
漸くエショナを解放するが、両手は握ったままだ。
「実は…、村が『同盟』の奴等に襲われて、それで。」
エショナは、目を伏せる。
「そんな…。2人ともか?」
「はい。」
エショナは、ジルを見上げて、頷く。
「なんて事だ…。」ジルは額に手を当てて項垂れる。「母さん、あんなに村から出られるのを待ち望んでいたのに。こんな事って…。」
「…あの、ジル、話を聴いて下さい。私が何とか辿り着けたのは、救ってくれたトルドーの人達がいたからなのです。」
エショナは、嘆き悲しむジルに向かって必死に話し掛ける。俯いて独り言をぶつぶつ呟くジルに、エショナの声が届いているか定かでない。
「ジル、あなたからもお礼を言って下さい。」エショナはジルの腕を掴んで、スラムの入り口に目を向ける。「今、そこに…あれ?」
しかし、そこに居た筈のメキリオとアルジの姿は無い。
「あれ?」
エショナはジルから離れてスラムの入口まで走って戻り、周囲を見回す。大きな街の通りだ。人も馬車も次々に通り過ぎる。しかしその中にメキリオとアルジの姿はない。馬車の向こうに、或いは建物の陰に、その姿が隠れていないか目を皿にしてエショナは首を巡らす。アルジ達を探すエショナの存在すら忘れ、スラムの道の真ん中で、ジルは額に手を当てたまま、まだ1人嘆き悲しんでいた。




