告解
野宿が始まった。周囲は大きな岩が石碑の様に立ち並び、ろくに草も生えていない。ザルケスタン近郊の、砂地に小石が混じる大地とは異なり、岩が主体の荒れ地が見渡す限り続いている。所々に成長の悪いまま半ば枯れた針葉樹が、この地方の厳しさを知らしめて立ち上がっている。昼間、太陽光を遮る物は無く、じりじりと肌を焼かれ、夜は満天の星空の下、地を這う冷気が押し寄せて来る。夜になれば周囲を照らす光は何も無い。日が暮れてしまう前に寝床に適した場所を探して火を起こし、夜が明けると荷作りをして馬車を走らせる。3人はそうやって毎日、変化に乏しい旅を続けた。
アルジは、メキリオからエショナをセニエスランドまで連れて行ってお別れで良いのかと問われて以降、ずっと考えていた。町が途切れ、広漠とした荒れ地が続くようになった。この先にセニエスランドがある。あと何日こうして3人で旅ができるだろう。峠の国境を越えればお別れだ。メキリオが言う様に、エショナは彼の地で親族と共に暮らし、自分はメキリオと岩塩を商う日々を続ける。2人の人生が再び交差する事は考えられない。エショナが幸せになれれば、自分は満足なんだ。でも、本当にそれだけか?
「こんな石だらけの所があるのね。」
エショナの言葉でアルジは物思いから現実に呼び戻される。昼食を摂ろうと馬車を停め、道端の大きな岩の上にエショナと並んで座って、カーベルに水と馬草を与えているメキリオが来るのを待っている時だった。
「雨が降る北部でも、この辺は土地が痩せていて、草木が育ち難いってメキリオが言っていたよ。」
「ふうん。」
エショナは遠くを眺めたまま、気の無い返事をする。アルジはエショナの横顔を見てなんとなく不安になる。
「何を考えているの?」
アルジは躊躇いながら口にする。
「え?…セニエスランドもこんな感じの所なのかなって。」
彼女の心は家族の待つ彼の地に飛んでいる。当たり前だ。国境を越えて旅が終わるまでに残された日数は片手程だろう。
「ねえ、セニエスランドが住み難かったら、デクレシアに戻って来る?と言うより、デクレシアに戻って来ない?そりゃ、オーベルはエショナ達には許せない存在かも知れないけど、ほら、南部はサニキス人が大勢いるんだよ。ザルケスタンって大きな町のサニキスの人達は、みんな活気があってさ…」
エショナは首を横に振る。
「きっと戻って来ない。自分じゃ決められないから。戻るとは言わないと思う。」
家族を殺された国。エショナはそこまでは言わない。でも、アルジにも理解できる。我儘だと分かっている。それでも言わずにはいられない。
「でも、僕等が行って話をしたら、南部で暮らす気にならないかな。知らない土地で知らない人達に囲まれて暮らすなら、同じサニキス人の土地で暮らした方が良いでしょ。」
「南部のサニキス人と交流が無かった訳じゃないの。南部の話を聞いていた。それよりも、外で暮らす事を選択したのよ。」
アルジの中で何かが渦巻いている。出口を探して、今にも自分の体を突き破ろうとしている。
「でも、…これでエショナと会えなくなるのは寂しいよ。」
自分の中からの力に押されて、アルジに辛うじてできた事は、小さな小さな意思表明だけだった。
メキリオは野宿が始まると、火の傍で毛布にくるまるアルジ達から少し離れた場所で寝る様になった。夜遅くまで近くの頃合いの岩の上に座り、ぼんやりと夜空を見上げている。寝るのはいつもアルジ達が眠りに落ちてからで、2人を起こさない様にそっと寝床に潜り込む。アルジはそんなメキリオを不思議には思わなかった。むしろ、それがメキリオの本来の姿の様に思えた。アルジが加わって面倒を見なければならなかったために、それまでの自分の習慣を曲げてアルジに付き合っていたが、もうそうしないと決めて、元の自分のペースに戻した。そんな自然な雰囲気が岩の上で夜空を見上げるメキリオの後ろ姿にはある。
その夜、アルジは岩の上のメキリオの隣に座った。
「どうした。星座でも教わりに来たか。」
アルジの姿をみて、メキリオは真面目な顔で言う。
「うん…。」
アルジはメキリオの顔も、夜空も見ていない。少し先の小さな岩を見ている。
「エショナを1人きりにしておいて良いのか。もう、そんなに長く一緒に居られないぞ。」
「エショナはもう寝たよ。僕は寝付けないから来た。」
「そうか。」
メキリオは夜空に視線を戻す。
「あのさ…。どうしたら良いか、良く分からないんだ。…メキリオならどうする?」
「何の話だ。それだけじゃ分からない。」
「うまく言えない。エショナの事なんだけど。」
「エショナがどうした。喧嘩でもしたか。」
メキリオはさらりと口にする。アルジは驚いて、メキリオの横顔を見る。
「え!違うよ。そうじゃなくて、何て言うのかな。」
メキリオは黙って空を見ている。
「ただ、何となく、このまま別れちゃうのが寂しんだ。二度と会えないかも知れないって考えたら、なんかとっても辛くて。」
「ふん。」
「ねえ、メキリオ。住んでいる場所が分かれば、時々、仕事を休んでセニエスランドまで会いに行けないかな。」
メキリオは息を吐くと、アルジを見て話し出す。
「お前にそんな余裕があるのか?まだ仕事も一人前にできないのに。第一、この寄り道にどれだけ費用が掛かっていると思っている。働き始めたばかりのお前にそんな余裕はないぞ。」
「…そうだよね。」
「だが、一生懸命働けば、何年かすれば可能かも知れない。」
「え?そうかな。」
「それより、お前、大事な事を忘れているぞ。」
「え?」
アルジはメキリオの顔を見て固まる。
「エショナの意思を確認したのか?俺達は、たまたまエショナを助けただけだ。違うか?会いに来られても迷惑かも知れないぞ。」
アルジは視線を足元の小さな岩に落とす。セニエスランドに思いを馳せるエショナの姿が思い出される。アルジの事など二の次で、遠い目をしていた。最近、自分との会話が少なくなった様にも思えて来る。
「そうやって迷っていれば、自然と日にちは過ぎて行く。」
メキリオはわざと気楽そうに言うと、視線を空に戻す。
「だ、だから、相談に来たんじゃないか。どうしたら良いんだ?」
どうしたら良いか…。メキリオがアルジに忠告できる事があるだろうか。2人とも同じ様に森を彷徨っているのに。欲望の根、感情の幹、プライドの枝。あの日、自分が言われた言葉を今のアルジに言ったところで何の役にもたたない。今のアルジにそれを理解する知恵も余裕も無い。あの日の自分の様に。
「それは、自分で決めるしかない。本当はどうしたいか、良く考えるんだな。」
代わりにメキリオはアルジを突き放す。
本当はどうしたいか?そんなの決まっている。…本当は、このままエショナと一緒に馬車で旅を続けたい。メキリオに商売を教えてもらいながら、エショナも一緒に居て欲しい。分かっている、そんな事無理なのは。でも、気が付くと、そんな有り得ない光景を夢想している自分がいる。だから、だから答えを探している。
「…正解が何なのか、自分じゃ分からないよ。」
アルジはメキリオを見上げて、苦し紛れに口にする。
「正解?そんなものは探しても無い。世の中の大抵の出来事には正解なんて無い。あるのは、どれも少しずつ正しくて、同時に少しずつ間違っている選択肢だけだ。大切なのは、選らんだ責任を背負い込む覚悟を決める事だ。」
「それって…」
「自分で選んだ以上、どんな結果も受け入れる勇気だ。」メキリオは再び、アルジを見た。夜空の月明りにメキリオの瞳が鈍く光っている。「お前にその勇気があるか。」
勇気か。
アルジはまた、小さな岩に視線を戻して、暫く黙っていた。
アルジは夢を見た。自分は何故かカーベルに跨って馬車を操っている。後ろを振り返ると、荷台からエショナが顔を覗かせている。荷台に乗っていないで御者台に移って手綱を握っておくれ。本当なら届く筈がない、カーベルの背の上から荷台のエショナに手を伸ばす。エショナの表情は分からない。一生懸命手を伸ばしているのに、エショナは手を出してくれない。何をやっているんだ。そんな所に居たら追って来る魔物に捕まってしまう。アルジは走るカーベルの背中の上に立って飛び上がると、何故か簡単に御者席に着地する。今度はエショナが居ない。御者台は勿論、荷台を覗き込んでもエショナの姿は見えない。エショナ。エショナ。見回せば、馬車の隣の大きな岩の上に立っているエショナが見える。駄目だエショナ、そんな所に居たら。エショナに呼び掛けようとするが、何故か声が出ない。カーベルは構わず走る。どんどん岩の上のエショナが遠くなっていく。エショナ。何とか声を絞り出そうとする。もう少しだ。もう少し頑張れば、声が出る。エショナ、エショナ!
目が醒めた。天に向かって伸ばした自分の右手が見える。空は東から白々と明るくなってきている。アルジは腕を降ろす。嫌な夢だった。起きられて良かった。何故起きた?自分が発した声で起きたのだ。思わず自分の口元に手が行く。エショナ、そう、エショナは?アルジは半身を起して周囲を見回す。焚火を挟んだ向こう側でまだ寝ているエショナの姿が見える。アルジはほっと息を吐いた。
あんな夢を見てしまったからだろうか。アルジはその日一日中考えた。
ずっとエショナの事を考えている。それでいて、面と向かうと何だか舞い上がってしまってうまく話せない。エショナの事を考えるだけで胸の中がざわつく。これってエショナを好きって事なんだろう。カペルやメキリオ、シェバリクさんが好きだと言うのとは全く意味が違う。エショナの為に何でもしたい。エショナを守りたい。メキリオは『自分を誤魔化すな』って言った。誤魔化したりしない。自分の気持ちに正直に生きるんだ。
代り映えのしない道端のごつごつとした岩に囲まれた場所を、その日の野営地に決めた。夕食を食べ終わると、いつもの様にメキリオは頃合いな岩を自分の居場所と決めて、2人から離れて行く。アルジはその時を捉えて、並んで焚火に当たるエショナに話し出した。
「あと2日もしたら、峠に辿り着くよ。さっき、メキリオが言ってた。明日の夜は、峠を越える準備をしなきゃ。」
「準備は大変なの?」
アルジもエショナも、焚火の火を見たまま会話する。
「そうでもないよ。…ちょっと覚悟が必要だけど。」
「良いよ、越境のためだもん。言ってくれればやるよ。私はどうすれば良い?」
「ああ、エショナにも窮屈な思いしてもらわなきゃならないけど、どっちかって言うと、僕の覚悟かな。」
アルジは照れ笑いをする。
「御免ね、アルジに大変な思いさせて。こんなにしてもらっても、返す物が無い。」
「良いよ。そんなつもりでやっているんじゃないから。」
少し間が空いた。2人は黙って炎を見ている。
どう言えば良いだろう。この流れで切り出せば、どう言ったところで相手の感謝の気持ちに付け込む形になってしまう。でも気持ちは伝えたい。
「この前、セニエスランドで暮らすんじゃなくて、南部で暮らしたらって話をしたよね。エショナは、それは無理だって言ったし、無理に勧める事じゃないと思うよ。僕は、何でそんな提案をエショナにしたのか、自分で考えたんだ。何故そうして欲しかったか…。結局、僕はエショナに会えなくなるのが嫌なんだ。どんな形でも良い、エショナに会える手段を残しておきたいんだ。嫌かな?」
アルジは恐る恐るエショナの表情を探る。エショナは炎から足元に視線を落とすと、静かに首を横に振る。
「ううん、別に嫌じゃない。」
アルジは小さく息を吐くと、炎に視線を戻す。
「良かった。断られたらどうしようと思ってたんだ。」
再び沈黙が訪れる。アルジはどう話そうか考えている。エショナは覚悟を決めている。
「本当は、エショナともっと一緒に旅がしたいんだ。岩塩を積んでシャルアまで3人で向かった時みたいに。エショナは家族を失ったばかりで辛い経験だったのに御免ね。」
「今も私は酷い経験から逃げて行く途中。終わっていないわ。」
エショナの声が冷たく響く。良い気になっているのはアルジだけだ。それでも言ってしまわずにはいられない。
「そうだね、御免。ちゃんと送り届けるよ。国境を越えてセニエスランドまで責任をもって連れて行く。向こうでの暮らしが落ち着いた頃に、エショナを訪ねて行くよ。それで、もしもその時に…」
「あのね、アルジ、話を聞いて。」
ぼそぼそ話すアルジの言葉を、強い調子でエショナの声が遮る。アルジが驚いてエショナを見ると、エショナの真剣な眼差しとぶつかる。
「セニエスランドで待っている家族が居るって言ったでしょ。それは私の夫なの。私、結婚しているの。」
三度沈黙が訪れる。言葉を失い呆然とするアルジの表情を、エショナは真っ直ぐに見つめている。
「家族が暮らせる場所と仕事を見つけるために、夫のジルは先にセニエスランドに行ったの。彼の両親と私は知らせが来るまで村で生活しながら待っていた。生活できる見通しができたからって連絡が来たのは、襲撃を受ける少し前だった。私達はセニエスランドに密出国する手立てを考えているところだった。」アルジが口を開く前に一気にここまで話すと、エショナは目を伏せる。「今までちゃんと話さなくて御免なさい。」
アルジは膝を抱えて、炎に視線を戻す。全く考えがまとまらない。ハンマーで殴られた様に頭の中がぐらぐらしている。
「謝る事ないよ。」
何とかアルジに言えたのは、それだけだった。
岩の上でメキリオが夜空を見ていると人の気配がした。
「メキリオさん、そっちに行って良い?」
見れば、岩の根元にエショナが立っている。
「ああ。」
エショナは覚束ない足取りで岩をよじ登ると、メキリオから少し離れて座る。
「アルジに告白するように仕向けたのはあなたね。」
岩に座って暫くすると、いきなりエショナが切り込んで来る。メキリオは答えずに夜空を眺めたままだ。
「こんな風にあなたは席を外して、チャンスを演出しているつもり?」
「…ちゃんと決着させなければいけない。もし有りもしない希望を残したまま、アルジが君と別れたら、あいつの心の中にはいつまでも君が残り続ける。一緒に居れば見えて来る筈の欠点も知らず、アルジの中で君は理想化された姿に変貌していく。永遠ではないにしても、何年も、もしかすると何十年も叶わない幻影に囚われて生きるのじゃ、アルジが不幸だ。せめて君に決着をつけて欲しかった。」
助けたのだから、そのくらいはしてくれ。口には出さないが、メキリオはそう言っている。
「ちゃんとアルジと話した。これで満足?」
「向こうで旦那さんが待っていると言ったのか。まさか、俺達と一緒に残る事にしたわけじゃあるまい。」
「結婚しているって言った。どうして夫がセニエスランドで待っているって知ったの?私達の会話を聞いていたの?」
「まさか。そんな無礼な事はしない。簡単な推測だ。君を助けた時、サニキス人の風習から、君が既婚者だとすぐに分かった。その後、君は村の中を探し回り、老夫婦の遺体の前で泣いていたが、それ以上他の人の安否を探ろうとはしなかった。だから、君の夫は襲撃を受ける前から村に居なかった。もし、あの時には既に亡くなっていたなら、既婚者の髪の結い方のままじゃいないだろう。君の夫は、どこか他の場所に居るんだって思ったよ。まさか隣の国に密出国しているとは思わなかったけどね。アルジからセニエスランドに家族がいると聞かされる前は、どこか安全なところで君を放り出せば、旦那さんの所に行こうと努力するだろうと勝手に想像していたよ。逆に、セニエスランドに先に行った家族がいるとアルジから聞かされた時、それが旦那さんだろうと言うのは直ぐに察しが付いた。」
「何故、アルジにそれを言わなかったの?」
「何故だろうな。最初はすぐに別れてしまう人だから、言う必要は無いと思っていたかも知れない。途中からは…俺からは言えなくなった。」
「ずるいのね。」
「ずるい?君は?君こそ、何故言わなかったんだ。最初から、『隣の国で夫が待っている』と言えば良かったんじゃないのか。」
「そうね…そうだったかも知れない。」
2人とも黙った。暗闇の中でエショナの鼻をすする音がする。
「君の旦那さんはどんな人だ。良ければ教えてくれるか。」
メキリオの声は静かな響きに戻っている。
「聞いてどうするの。」
エショナの声はくぐもっている。
「これで良かったんだと確信したい。自分勝手な話だが。」
「…大工をしている。多分腕は良い方だと思う。向こうでも大工の仕事を見つけたって。…私の事は大事にしてくれる。35になってからの初婚だから。」
「35歳だって?何でそんな年の離れた人と。」
「…私の実家はシャルアの近くの町にあった。父の記憶は殆ど無いの。母さんは女手一つで3人の兄弟を育ててくれた。でも、その母も病気で早くに亡くなって、兄弟は別々に生きて行かなければならなくて。私はある人の紹介で今の夫の所に嫁ぐ事になったの。他に道は無かった。山奥の村ではなかなか嫁の来手が見つからないらしくて、年が離れているのは不安だったけど、夫はとても優しくしてくれて、夫のご両親も暖かく受け入れてくれた。初めて自分の居場所ができたと思ったのに…。」
「そうか。不躾な質問をしてしまい、済まなかった。」
「あのね…。私が結婚している事を言わなかったのは、最初はあなた達を警戒していたから。でも、その後は違う。ちゃんとけじめを付けるから。だから許して…。」
エショナにもアルジの気持ちは前から分かっていた。エショナは恋愛もどきの時間を手放したくなかった。初めての幸せな経験だったから。そしてもう二度と有り得ない。エショナもこの気持ちを大事に抱えて、自分の中で理想化していくアルジを抱えて、これから先を生きて行く。




