メキリオの物語
15年前のメキリオは快活な若者だった。30を目前にしていたが、自分の人生の幸福を信じていた。何より、それを彼に信じさせる現実に彼は囲まれていた。
「メキリオ、戻ったの。」
ザルケスタンの支部の広間にメキリオが姿を見せると、副支部長の妻のソルキーヌは、目敏く見つけて声を掛ける。今ほどまだ太っておらず、少し肉付きの良いご婦人だ。但し、将来の体形はこの時から既に予想できる。
「戻りました。マザー、息災で何よりです。」
メキリオは白い麻のシャツをキチンと着込み、刈り上げた髪は毎日陽に晒されて硬くなってはいても、手入れを欠かしていないのが分かる。
「堅苦しい事を言うのね。あなたも元気そうで良かったわ。」
メキリオに近付きながら、ソルキーヌはおどけて見せる。
「ありがとうございます。」ソルキーヌが傍まで来るのを待って、メキリオは声を潜める。「支部長を説得して頂いたと聞きました。」
「大した事ではありません。ドーゼルが騒いだ所で、この件に関して、彼は何の権限も無いですから。」
ソルキーヌは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「それでも、支部長に反対されたままで式を進める訳にはいきません。」
「律儀なんですね。兎に角、首を縦に振らせました。もう遠慮しなくて大丈夫です。」
「ありがとうございました。」
メキリオは頭を下げる。ソルキーヌはまた、ニコリを笑うとその場を後にする。
「あの、支部長はどこに。」
メキリオは去って行くソルキーヌの背中に声を掛ける。
「自室に居るでしょ。挨拶に行くつもり?」
彼女は足を止めずに、振り向いて答える。
「はい。行ってみます。」
「大概にしておきなさいよ。しつこいから。」
ソルキーヌの後ろ姿を見えなくなるまで見送った後、メキリオは支部長室に足を向けた。ドアをノックすると、中からドーゼルの声がする。ドアを開けて室内に入ると、正面の大きな机にドーゼルが座っている。白い布を全身に纏っているのは15年前も同じだ。痩せこけた体で目が眼窩に落ち込んでいるのも変わらない。違う点と言えば、口元の髭は黒い毛が勝っているところくらいだ。只、その眼は、隠居してしまった今では想像できないくらいの鋭さを放っている。支部長という責任が、彼に見えない鎧を纏うよう強いている。
「失礼します。支部長、ご了解頂きありがとうございます。」
ドーゼルの前に進み出て、メキリオは頭を下げる。
「ん、了解などしておらん。わしは責任を取らんと言っただけだ。」
ちらりとメキリオを見たなり、机の上の書類に目を落としたまま答える。
「それでも、ありがとうございます。数日中に式を挙げます。」
ドーゼルは、書類から目を上げて椅子の背もたれに体をあずけ、ゆっくりと両手をひじ掛けに載せる。
「トルドーは、サニキスにもオーベルにも与さない、中立を保って生きて来た。今お前がサニキス人の娘と結婚する事は、それを捨てると言う事だ。それが意味するところが分かっているか。」
「はい。オーベル人の顧客は私から離れて行くでしょう。商売はし難くなりますが、覚悟しています。」
メキリオは落ち着いた口調で即答する。そのくらいの覚悟が無くてどうする。そんな柔な考えで決心していない。
「…分かっていないな。サニキスもオーベルも口には出さないが、トルドーを埒外に置いているのは、我々が中立を宣言しているからじゃない。相手にする価値も無い存在だと思っているからだ。商品に法外な値を付けて売りつけ、人の財産を掠め取る存在…。トルドーが居なければ日々の暮らしにすら困窮する事など棚に上げて、どちらの側の人間も蔑む相手を見つける事で溜飲を下げている。お前がサニキスの娘を娶れば、サニキス人の中には、お前を身の程知らずの成り上がり者と捉える輩もいる筈だ。あるいは、妻となる娘をトルドーに堕した裏切り者と罵るやも知れない。お前は1人の娘を幸福にするのではなく、不幸に引きずり込む事になるかも知れない。」
この人は、他人の結婚を前にして、ここまで悪し様に言うのか。
黙って立ったまま、メキリオは心の中でそんな事を考えている。根拠はない。だけど、何があってもティーニアを幸せにする自信があった。貧しいままかも知れない。ドーゼルの言う様に迫害を受けるかも知れない。でも1人じゃない。
「何故、トルドーの娘じゃ駄目なんだ?トルドーにも家族を持っている者はいくらでもいる。年頃の娘も沢山いる。そりゃ、お前の彼女程、綺麗かどうかは分からないし、多少お転婆かも知れないが。」
「支部長、支部長もご経験があるでしょう。人を好きになるというのは、理屈じゃないです。」
ふん、と鼻で笑うと、ドーゼルは視線を机に落とす。
「わし等は皆、森を彷徨っていると言う事だ。」
「はい?」
ドーゼルの物言いは独り言の様でもあり、唐突でもあり、メキリオは訊き返す。ドーゼルは視線をメキリオに戻すと、今度ははっきりした声で話した。
「わし等は皆、森の中を彷徨っている。道を見失い、陽の光もろくに届かない深い森の中を、行くべき正しい道を探して彷徨い歩いているのさ。足元には欲望という根が絡み合い、眼前には根から立ち上がる感情という幹が林立し、プライドや建前という枝葉に陽の光も遮られた暗い世界だ。迷い込んだお前は、欲望という根の隆起する瘤に足を取られる。立ちふさがる感情の幹に方向を惑わされる。動く度に伸びた枝葉の先で肌を傷つけて血を滲ませ、太陽の在り処さえ見失って、進むべき方向も分からないまま彷徨い続けなければならない。それでも立ち止まってはいられない。森を抜け出そうと自らが正しいと思う方角に足を踏み出し続けるのだ。もしかしたら、以前来た場所、同じ場所を回り続けているとしても。」
何が言いたいのか、メキリオには理解できなかった。何を答えて良いか思いつかず、黙って立っていた。
「まあ良い、知ったところでどうにもならない。決めた以上は、お前ができる全力を出してその娘さんを守る事だ。」
「…はい。」
「幸せにな。」
ドーゼルは漸くメキリオに笑みを作って見せる。
「はい。」
メキリオも力強く返す。
「もう行きなさい。彼女に会いに行くのだろ。」
ドーゼルは机の上の書類に視線を戻すと、椅子から上体を起こし事務に戻る。メキリオは黙って一礼すると、静かに支部長室を後にした。
メキリオの気持ちは逸っていた。岩塩をシャルアへ売りに行っている間離れていたのだ。ティーニアの声が、瞳が、柔らかい肢体が、優しさが恋しかった。ザルケスタンの支部を飛び出すと、街路を抜け、ティーニアが働く料理屋を目指す。片手に小さな花が植えられた皿を握りしめている。花を買う銭は無い。ザルケスタン周辺に草木は育たない。もっと北の草原で見つけた小さな白い花の草を周囲の土ごと掘り出し、食事に使っていた陶器の皿に入れただけだ。萎れないように毎日水を与え、荷台に置いて太陽の光の下運んで来た。
通い慣れた街路を曲がり、料理屋が見通せる所まで来ると、店先にティーニアの姿が見える。白いシャツに草色のズボンを穿いている。背中まで伸びた黒い髪が風になびいている。メキリオがザルケスタンに着いた事を、仲間のトルドーから聞いて、彼女も待ち切れずに店前まで出て来たに違いない。
「ティーニア!」
メキリオは思いっきり叫んで右手を振る。彼女もメキリオを見つけて控えめに軽く手を振る。メキリオは走り出す。それを見て彼女も走り出す。2人は街路の途中で出会うなり、そのまま抱き合った。ティーニアの温もりがシャツを通してメキリオの腕に伝わって来る。暫くメキリオは彼女を離さなかった。もう、旅先でティーニアを1人想う必要は無くなる。これからは、この小柄な恋人が妻になり、自分を支えてくれる。メキリオは胸いっぱいにティーニアの匂いを吸い込んだ。
「これ、君に。御免、少し土がこぼれた。」
彼女を解放すると、メキリオは手にしていた白い花の入った皿を彼女に渡す。持っている皿の事など気にせずにティーニアを抱きしめたため、皿を傾けてしまっていた。
「ありがとう。」ティーニアは皿を受け取ると、白い花を珍しそうに眺める。「どこの花なの?」
「本部がある地方の草原で見つけたんだ。そこなら沢山咲いているよ。」
「綺麗な花ね。持ってくるのが大変だったでしょ?」
「そうでもないよ。こんなもので御免。」
ティーニアは小さく首を横に振る。
「あのね。私もプレゼントがあるの。」
ティーニアはメキリオの右手を取ると、自分が先に立って店へと引っ張って行く。風になびく彼女の黒髪の右耳の上で、側頭部の髪を一掴み結んで垂らした組紐が、髪と一緒になびいている。彼女の後ろ姿は弾んでいる様に見える。彼女の髪を撫でた風がメキリオの鼻先を掠めて行く。
店前に着くと、メキリオをそこに待たせたまま、ティーニアは中に入り、暫く出て来なかった。
「はい。」
店を出て来るなり、ティーニアは後ろ手に持っていた麦わら帽子をメキリオの頭に被せる。何ごとか分からず、メキリオは自分の頭上を見上げるが、帽子も上を向いてしまい良く見えない。両手で帽子を取ると、それをしげしげと眺めた。広いつばの付いた何の変哲もない無地の麦わら帽子だ。
「ずっと、外で馬車を扱わなければならないでしょ。帽子無しじゃ大変だろうなって思って。」
ティーニアは両手を後ろで組んだまま、体を前に倒して、麦わら帽子を見ているメキリオを覗き込む。
「ありがとう。」
メキリオは自分で帽子を被って、ティーニアにお道化て見せる。ティーニアはクスクスと小さな笑い声をあげる。
「似合ってる。馬車に乗る時はいつも被ってね。」
「ああ。そうする。忘れたら、どんな仕返しがあるか分からないからね。」
メキリオは声を上げて笑った。
2日後、2人は結婚した。2人とも身寄りが無い。トルディア商会支部長夫婦、副支部長夫婦と、ティーニアが住み込みで働いていた料理屋の店主夫婦を立会人にして、婚姻届けを役所に提出した。サニキス人の風習に則った儀式もトルドーで慣例になっている祝いの宴もしなかった。2人はどちらにも偏りたくない気持ちをそんな形で表現した。
トルディア商会支部でメキリオとの最初の一夜が明けると、ティーニアは起き抜けに髪を後ろで纏め組紐で結った。それまでは右耳の辺りの髪を結っているのが常だった。笑顔の横で髪と一緒に揺れる、白を基調に赤と黒の紐で編んだ組紐をメキリオはいつも見ていた。
「珍しいね。後ろで髪を纏めるなんて。」
メキリオはベッドから上体を起こして、身支度をするティーニアを眺めながら言う。
「これ?今日からはこうするの。」
ティーニアは首を左右に振って、束ねた黒髪を鏡に映しながら答える。
「何だい。心境の変化かい。」
「ううん。これはサニキスの決まり。既婚の女性は髪を後ろで纏め、組紐で結うの。こんな風に単純に1つに纏めて根本を束ねたり、編み込んで頭の後ろでお団子にした髪に組紐を回したり。独身の女の子は昨日までの私の様にサイドに紐を垂らしたり、ヘアバンドの様に頭全体に紐を回して止めたり。後ろじゃ縛らない。もう、私はあなたのものだから、こうしてそれをみんなに知らせるの。」
ティーニアは嬉しそうだ。
「そうなんだ。そうして髪を上げている方が、少女の様に見えるよ。」
メキリオは眩しそうに目を細める。
「そう?少女に手を出してしまうなんて、悪い人ね。」
どう返して良いか分からずに、メキリオは笑顔を作った。
「私はこうして貴方の妻だと知らせるわ。貴方は私と結婚している事をどうやって知らしめるの?」
ティーニアが意地悪そうに笑う。早くも尻に敷かれる気配がする。
「…君に貰った麦わら帽子をいつも被って、君を忘れない様にするさ。でも、特別な事をしなくても、いつも一緒に居れば、2人が夫婦なのは誰にだって分かるだろ。」
メキリオは何とか切り抜けた。
メキリオの幸福の日々は長く続かなかった。ティーニアと一緒に岩塩の商売を始めて半年が過ぎた。ザルケスタンで岩塩を仕入れ、シャルアに売りに行く途中、カルーの本部の手前での出来事だった。
ザルケスタンを出る時からティーニアは体調不良を自覚していた。けれど、商売の足を引っ張ってはいけないと思い、程度が軽い事も手伝って、メキリオには何も言わずにいた。言えば心配して、岩塩を買い込んだまま旅を中止しかねない。自分の為にメキリオに迷惑を掛けたくなかった。
しかし、旅の半ばも行かない内にティーニアの容態は隠し切れなくなった。彼女は堪らず荷台の隅に毛布を敷いて寝込んだ。メキリオは先を急いだ。南部には大きな町が少ない。1番近い大きな町はカルーだ。カルーに行けば、大きな病院がある。ちゃんと見てもらうならばそこだ。
彼と彼女の甘い見通しを彼女の体が裏切る。ティーニアの体調が急変する。
町医者でも良いから途中の町で見てもらおう。だが、次の町まではまだ距離がある。このまま、馬車に揺られて外気に晒され続けるよりは、ティーニアをどこかの家にあずけて、馬車から馬を外して、メキリオが単身跨って、医者を呼びに行った方が良い。
メキリオは藁にもすがる思いで、街道沿いの大きな一軒家のドアを叩いた。家から出て来たのは大きな男だった。メキリオよりも少し齢は上だろうか、筋肉質で服から突き出た顔も腕も浅黒い男は、何も言わずにドアの前のメキリオを睨みつけた。
「すいません、急病人が出てしまいました。申し訳ありませんが、ここで休ませてもらえないでしょうか…」
男は返事をせずに、メキリオを頭の先から足のつま先までねめ回す。
「あの、医者を呼んで来たいのです。あそこの自分の馬で町まで駆けて呼んで来ます。」 メキリオは、街道沿いの草地に停めた自分の馬車を振り返って指差す。「あの中で、妻が寝込んでいます。急に具合が悪くなって。見て下さい。見れば嘘じゃないのは分かってもらえると…」
「お前はトルドーか。」
必死で説明するメキリオの声を遮って、男の野太い圧力のある声が響く。メキリオは男の顔を見返した。
「ふん、サニキスよりはまともだとでも思っているのか、行商人風情が。俺の農園で採れる豆も醸造したワインも買い叩くお前等に腹が立っているんだ。殴られない内にさっさと出て行け。」
言うだけ言うと、男は家の中に引っ込んでしまう。
駄目だ。オーベル人だろう。ここで粘っても協力してもらえる訳がない。そんな無駄な時間は使えない。
メキリオは自分の馬車に取って返すと、急いで馬車を走らせた。
それから大して時間は経っていない。メキリオが気付いた時、ティーニアは意識をなくしていた。馬車を停めて荷台に移り、彼女に声を掛ける。ティーニアは反応しない。メキリオは1人でどうする事もできなかった。誰か街道を通る者がいれば助けを求められたろう。既に太陽は西に傾き、夕暮れが迫っていた。ティーニアは指先から冷たくなってくる。メキリオは自分も毛布に入り込み、ティーニアを抱いて温めた。そうやって、彼女を温め続けて、長い夜が明けた。最早メキリオにも事態は理解できた。それでも、道端に馬車を停めたまま、自分の体温でしか暖かくならない彼女の肢体を抱いたまま、1日中留まっていた。彼女の黒い髪を撫で、頬を触り、動かない体を強く抱きしめる。それよりも大事な事などあり得ない。
次の日、メキリオは馬車を動かした。街道から脇道に入り、静かな、見晴らしの良い場所を探した。照葉樹が並木の様に並ぶ道で馬車を停めて、枝ぶりの良い樹の根本を掘った。穴の底には売り物の岩塩を敷き詰め、その上に毛布に包まれたティーニアの遺体を横たえた。その上をジュート袋で覆って土を優しく掛けた。照葉樹の幹に目印を彫ると、馬車に乗り街道に取って返し、街道沿いの草原一面に咲く白い花を摘んだ。メキリオは沢山摘んだ。手に一杯になると馬車に戻り、また摘みに戻る。花を摘みながらメキリオは初めて泣いた。我慢しきれずに口から声が漏れる。視界が歪んで花を摘むのに苦労しながら、憚りもせず声を上げて泣いた。
メキリオは再び馬車を照葉樹の道まで取って返し、ティーニアを埋めた場所の上を白い花で覆う。1つずつ丁寧に花を並べ、やがて覆いつくされた緩やかに隆起した土を、彼はずっと見つめていた。
2日前まで自分の傍で微笑んでいたティーニアをもう見る事も、触れる事もできない。何故こうなった。何が間違っていた。何故自分達にこんな災難が降りかかるんだ。悲しみの中から怒りが顔を出す。この怒りをどこにぶつければ良い。こんな結末になったのは誰のせいだ。脳裏にメキリオを冷たい目で見下した大男の顔が浮かぶ。『行商人風情が』と蔑む声が聞こえる。メキリオは両手の拳を強く握る。自分の胸の中に熱い物が湧き上がり、早く早くと急き立てている。このまま黙っているつもりか、ティーニアの無念を晴らすのはお前しかいない。愛していた人を奪われる者の気持ちを思い知らせてやれ。あいつにこんな思いを強いられるのは、自分で最後にしなければならない。
メキリオは馬車に戻ると荷台に上がり斧を探した。広くも無い馬車の中に斧は見つからない。荷台を降り、馬車の外側を探す。斧は台枠の下に括りつけてあった。斧を馬車の台枠から外して手に持つ。柄は手に馴染み、刃は錆も無く太陽の光を鈍く反射している。御者席の脇に斧を置くと、メキリオは馬車で街道に取って返す。馬車を走らせる。整備が行き届かない路面の石に乗り上げ、馬車の車輪が跳ね上がるのも気にせず、カーベルにあらん限りの力を出させる。荷の岩塩が邪魔だ。揺れる荷台が壊れ、岩塩が落ちて例え全財産を失う破目になろうとも構わない。
オーベル人の一軒家の前まで来ると、メキリオは馬車を停めた。斧を持って馬車を飛び降り、メキリオは大股で家へ向かう。家の前まで来て、メキリオは立ち止まる。男が倒れている。うつ伏せに倒れているので顔は見えないが、背格好からメキリオに応対をしたこの家の主だろう。背中が血に染まっている。何か刃渡りの長い鋭利な刃物で袈裟懸けに背後から切られたらしい。左肩下から右わき腹にかけてシャツが切れて、皮膚に口を開けたむごたらしい傷口が見える。最早生きてはいないだろう。
その姿を見て、メキリオは我に返った。自分は何しにここに来た?もしかして、誰かがやらなければ、自分がこの男をこうしようと考えていたのか?自分の手に握られている斧の事を思い出し、慌てて斧をできるだけ遠くへ投げ捨てる。これが自分の望んでいた結末なのか?こうすれば、自分の気持ちが安らぐと思っていたのか?
目の前の男は助からない。確認するまでも無く、こと切れているに違いない。血の状態から、襲われて時間が経ち過ぎている。惨劇は昨日だろうか。メキリオは大きな家に目を遣る。この大きな家に男1人で住んでいるとは思えない。他の家族は?
「おい、誰かいないか!」
メキリオは大きな声で呼びながら家の中に入り込んだ。どこかに襲撃者が隠れているかも知れない。用心しながら、家の中を見て歩く。1階には誰も居ない。階段を2階に上がると、階段の上がり端に女性が倒れている。高級な生地の服を着た若い女性だ。うつ伏せに倒れているが、外傷は見当たらない。
「おい、大丈夫か!」
メキリオは女性を揺さぶり、肩を掴んで抱き起そうとすると、彼女の体の下から血溜まりが現れる。掴んだ彼女の体は硬直している。そっと彼女の体を元に戻す。
声がする。微かな泣き声だ。どこからか、かすれたような泣き声が切れ切れに聞えて来る。声のする場所を探す。寝室の方だ。寝室を覗く。誰も居ない。いや、確かに声がする。声はクローゼットの中から聞こえる。メキリオがクローゼットの扉を開けると、タオルケットに包まれた赤ん坊が棚の上に乗せられている。泣き過ぎて声は皴枯れてしまっている。恐らく、襲撃者に気付いた母親が咄嗟に赤ん坊をクローゼットの中に隠したのだろう。恐る恐る赤ん坊を取り上げる。赤ん坊の手に握られたネックレスが垂れ下がる。青い石が揺れている。母親が握らせたのか、クローゼットの中で勝手に掴んだのか。泣き疲れていても必死で叫ぼうとしている。恐らく腹が減っているに違いない。けれど、メキリオにはどうする事もできない。そのまま赤ん坊を抱いて、階段を降り、家の外に出る。
「おい、メキリオ。」
キジロフが、家を出て来たメキリオを見つけて駆け寄って来る。
「どういう事だ。この男は誰だ。」
キジロフは大男の遺体を指差す。
「この家の主だ。きっと、誰かに襲撃されたのだろう。」
「お前、その赤ん坊は?」
「この家の子だろう。クローゼットの中に居た。母親も家の中で殺されている。」
「なんて事だ。サニキス人の過激派の仕業か?」
「分からんが、そんな所だろう。恐らく昨日襲撃されたのだと思う。」
「お前、なんでこんな所に居るんだ。道端にお前の馬車が停めてあったから、来てみればこの有り様だ。」
「詳しい事は後で話す。兎に角、近くの町に行って、警察に連絡しよう。」
「分かった。お前はその子を抱いていろ。俺の馬車に乗れ。道すがら、事情を教えろ。」
キジロフが馬車を走らせている間、メキリオは事の経緯を話して聞かせた。辛くても、ティーニアの事から話さない訳にはいかなかった。ガラガラと大きな音を立てて走る馬車の上では、小さな声では聞こえない。ティーニアを失った悲しみも、自分が馬鹿げた復讐心に狂い掛けた惨めさも、吐き出すように言葉にした。キジロフに聴かせるというよりも、あらゆるものへの懺悔だったかも知れない。言葉で自分を殴りつけるメキリオの声を、手綱を握りながらキジロフは黙って聴いた。無表情な浅黒い皴だらけの顔の落ち込んだ眼は真っ直ぐに前だけを見ていた。
警察に着くと襲撃された家の事を知らせた。メキリオが助けた赤ん坊もここで警察にあずけた。
「まさか、南部で『戦線』が活動しているなんて。」
話を聞いた警官の1人が呟く。
「まだ『解放戦線』の仕業と決まった話じゃない。」上司と思われる中年男がたしなめる。「それで、あなた方はなぜ、あの家を訪ねたのですか?」
キジロフは黙ったまま、メキリオの顔を見る。
「ええ、先日、旅の途中でお世話になって。それで…お礼を言おうと立ち寄ったんです。」
メキリオはつい、嘘を言った。途中で言い淀む自分が情けない。
「これから、現場に向かいます。案内してもらっても良いですか?」
「はい。」
メキリオは硬い表情で頷く。
「ああ、馬車で先導します。どうせ、こいつの馬車を取りに行かなけれりゃならないんで。」
キジロフが付け加える。
現場検証の間、2人は付き合わされた。赤ん坊を発見した場所を説明し、到着した時の様子を何度も質問された。警察から解放された時には、もう日が暮れ始めていた。翌日から、2人は馬車を連ねて北上し、カルーのトルディア商会本部に立ち寄って事の次第を報告した。万一、2人に嫌疑が掛けられる事態となったら、支援してもらう為だ。ティーニアを失い、自ら埋葬して来たメキリオの様子が心配だったキジロフは、シャルアまでメキリオと一緒に旅をした。以前は商売に思いがこもっていたメキリオが、まるで別人の様にあっさりと岩塩を売り渡す様子は、キジロフにメキリオの心境を理解させた。キジロフは、もう少し一緒に旅をしながら、彼の様子を見る事にした。
ザルケスタンまで引き返す途中、カルーの本部に立ち寄ったメキリオは、その後、警察から何か連絡が無かったか尋ねた。
「特にメキリオ君に対する問い合わせも要求も来ていないよ。犯人は案の定、不明のままだがね。」
まだ頭頂部に薄く髪の毛が残っているシェバリク会長が答える。髪の毛と違って、体形はこの頃から小太りだ。
「そうですか。ギルドにご迷惑をお掛けする事にならずに済みそうで安心しました。」
メキリオは肩の力を抜くと、足元を見ながら呟く。
「ああ、全く何も無かった訳じゃないけどね。まあ、迷惑でもないが。」
「え?どういう事ですか?何か警察が言って来たのですか?」
「いや、そうじゃない。こっちから人を遣って状況を確認したらね。あの家と農園は売りに出されていたよ。亡くなられたご夫婦の血縁者は北部の人ばかりでね。わざわざ南部の田舎まで来て、小さな農園の経営に乗り出そうという人は居なかったようだね。まあ、それは良いんだが、赤ん坊が居たろ。可哀想に引き取り手が居なくてね。孤児院に入れられるという話だったから、こっちで引き取ったのさ。」
「え!赤ん坊を親族が引き取らないって、そんな薄情な事ってあるんですか。」
メキリオは思わずシェバリクに食って掛かる。
「いやいや、それぞれ家の事情があるから、しょうがないだろ。もう少し大きくなっていて、手が掛からなくなっていれば違ったかもしれないが、老夫婦や自分の子供で手一杯の家庭では赤ん坊は手に余る。」
「だからって…親族ですよ。一体何を考えているんだ…」
メキリオは、ショックのあまり目が宙を泳ぐ。
「メキリオ君。自分の立場で考えてごらん。もし、君に親族が居て、今までろくに付き合いも無かったその親族の赤ん坊の身寄りが無くなったとしたら、君は今の商売をしながら引き取って育てる覚悟があるかい?まして、今まで見た事も無い赤ん坊を、親族だからって押し付けられたら、君だって困るだろう。」
「でも…だからって…」
「まあ、良いさ。あの子は私達があずかってトルドーとして育てていくよ。今までにも沢山例のある事だ。心配要らないよ。」
「あの…、会わせてもらえますか?」
「え?ああ、そうだな…。」
「是非会わせて下さい。会うだけですから。」
シェバリクはどうしたものか、一瞬躊躇して、メキリオの脇にいるキジロフを見る。キジロフは落ち込んだ両の眼でシェバリクを見つめてゆっくり頷く。
「じゃあ、付いて来て。」
シェバリクは先に立って、本部の奥に歩き出す。メキリオとキジロフはその後に続く。
その赤ん坊は、日差しが一杯に差し込む部屋にいた。ゆりかごの中で目を大きく開け、部屋を訪れた3人の男達をキョロキョロと見ている。メキリオはゆりかごに近寄り赤ん坊を覗き込む。
「アルジと名付けたよ。男の子だ。」
シェバリクの声がメキリオの背後で聞こえる。
その子は穢れの無い大きな瞳で、覗き込むメキリオの顔を見つめている。自らに降り掛かった不幸など欠片も映してはいない。小さな両手を伸ばし、到底届かない距離にあるメキリオの顔に触れようとしている。まだ自分の思い通りに手を動かす事もできないが、諦める事なく、幾度もその手を伸ばしてくる。僅かな時間の悪戯で罪人にならずに済んだ愚かな男を責めもせず、憐れみもせず、純粋にその無垢な手で触れようとしている。メキリオは、自らの体を縛り付けていた見えない何かがボロボロと剥げ落ちていくのを感じる。手足が震え、思わず涙が両眼からゆりかごの中に落ちる。
「この子を…俺が立派なトルドーに…。15歳になったら、きっと…俺が、この子の…。俺が、この子の…」
彼は何度もちゃんと話そうと努力した。けれど、いつも同じ所で胸が詰まり、最後まで話す事ができなかった。




