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深い森  作者: 倉谷 梟帥
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12/15

メキリオの物語

 15年前のメキリオは快活(かいかつ)な若者だった。30を目前にしていたが、自分の人生の幸福を信じていた。何より、それを彼に信じさせる現実に彼は囲まれていた。

「メキリオ、戻ったの。」

 ザルケスタンの支部の広間にメキリオが姿を見せると、副支部長の妻のソルキーヌは、目敏(めざと)く見つけて声を掛ける。今ほどまだ太っておらず、少し肉付きの良いご婦人だ。但(ただ)し、将来の体形はこの時から既(すで)に予想できる。

「戻りました。マザー、息災(そくさい)で何よりです。」

 メキリオは白い麻(あさ)のシャツをキチンと着込み、刈(か)り上げた髪は毎日陽に晒(さら)されて硬くなってはいても、手入れを欠かしていないのが分かる。

「堅苦(かたくる)しい事を言うのね。あなたも元気そうで良かったわ。」

 メキリオに近付きながら、ソルキーヌはおどけて見せる。

「ありがとうございます。」ソルキーヌが傍(そば)まで来るのを待って、メキリオは声を潜(ひそ)める。「支部長を説得して頂(いただ)いたと聞きました。」

「大した事ではありません。ドーゼルが騒(さわ)いだ所で、この件に関して、彼は何の権限も無いですから。」

 ソルキーヌは悪戯(いたずら)っぽい笑(え)みを浮かべる。

「それでも、支部長に反対されたままで式を進める訳(わけ)にはいきません。」

「律儀(りちぎ)なんですね。兎(と)に角(かく)、首を縦に振らせました。もう遠慮しなくて大丈夫です。」

「ありがとうございました。」

 メキリオは頭を下げる。ソルキーヌはまた、ニコリを笑うとその場を後にする。

「あの、支部長はどこに。」

 メキリオは去って行くソルキーヌの背中に声を掛ける。

「自室に居るでしょ。挨拶(あいさつ)に行くつもり?」

 彼女は足を止めずに、振り向いて答える。

「はい。行ってみます。」

「大概(たいがい)にしておきなさいよ。しつこいから。」

 ソルキーヌの後ろ姿を見えなくなるまで見送った後、メキリオは支部長室に足を向けた。ドアをノックすると、中からドーゼルの声がする。ドアを開けて室内に入ると、正面の大きな机にドーゼルが座っている。白い布を全身に纏(まと)っているのは15年前も同じだ。痩(や)せこけた体で目が眼窩(がんか)に落ち込んでいるのも変わらない。違う点と言えば、口元の髭(ひげ)は黒い毛が勝(まさ)っているところくらいだ。只(ただ)、その眼は、隠居(いんきょ)してしまった今では想像できないくらいの鋭(するど)さを放っている。支部長という責任が、彼に見えない鎧(よろい)を纏(まと)うよう強(し)いている。

「失礼します。支部長、ご了解頂(いただ)きありがとうございます。」

 ドーゼルの前に進み出て、メキリオは頭を下げる。

「ん、了解などしておらん。わしは責任を取らんと言っただけだ。」

 ちらりとメキリオを見たなり、机の上の書類に目を落としたまま答える。

「それでも、ありがとうございます。数日中に式を挙(あ)げます。」

 ドーゼルは、書類から目を上げて椅子の背もたれに体をあずけ、ゆっくりと両手をひじ掛けに載せる。

「トルドーは、サニキスにもオーベルにも与(くみ)さない、中立を保って生きて来た。今お前がサニキス人の娘と結婚する事は、それを捨てると言う事だ。それが意味するところが分かっているか。」

「はい。オーベル人の顧客(こきゃく)は私から離れて行くでしょう。商売はし難(づら)くなりますが、覚悟しています。」

 メキリオは落ち着いた口調(くちょう)で即答する。そのくらいの覚悟が無くてどうする。そんな柔(やわ)な考えで決心していない。

「…分かっていないな。サニキスもオーベルも口には出さないが、トルドーを埒外(らちがい)に置いているのは、我々が中立を宣言しているからじゃない。相手にする価値も無い存在だと思っているからだ。商品に法外な値(ね)を付けて売りつけ、人の財産を掠(かす)め取る存在…。トルドーが居なければ日々の暮らしにすら困窮(こんきゅう)する事など棚(たな)に上げて、どちらの側の人間も蔑(さげす)む相手を見つける事で溜飲(りゅういん)を下げている。お前がサニキスの娘を娶(めと)れば、サニキス人の中には、お前を身の程(ほど)知らずの成(な)り上がり者と捉(とら)える輩(やから)もいる筈(はず)だ。あるいは、妻となる娘をトルドーに堕(だ)した裏切り者と罵(ののし)るやも知れない。お前は1人の娘を幸福にするのではなく、不幸に引きずり込む事になるかも知れない。」

 この人は、他人の結婚を前にして、ここまで悪(あ)し様(ざま)に言うのか。

 黙って立ったまま、メキリオは心の中でそんな事を考えている。根拠(こんきょ)はない。だけど、何があってもティーニアを幸せにする自信があった。貧しいままかも知れない。ドーゼルの言う様(よう)に迫害(はくがい)を受けるかも知れない。でも1人じゃない。

「何故(なぜ)、トルドーの娘じゃ駄目なんだ?トルドーにも家族を持っている者はいくらでもいる。年頃の娘も沢山(たくさん)いる。そりゃ、お前の彼女程(ほど)、綺麗(きれい)かどうかは分からないし、多少お転婆(てんば)かも知れないが。」

「支部長、支部長もご経験があるでしょう。人を好きになるというのは、理屈じゃないです。」

 ふん、と鼻で笑うと、ドーゼルは視線を机に落とす。

「わし等は皆、森を彷徨(さまよ)っていると言う事だ。」

「はい?」

 ドーゼルの物言(ものい)いは独(ひと)り言の様(よう)でもあり、唐突(とうとつ)でもあり、メキリオは訊(き)き返す。ドーゼルは視線をメキリオに戻すと、今度ははっきりした声で話した。

「わし等(ら)は皆、森の中を彷徨(さまよ)っている。道を見失い、陽(ひ)の光もろくに届かない深い森の中を、行くべき正しい道を探して彷徨い歩いているのさ。足元には欲望という根が絡(から)み合い、眼前には根から立ち上がる感情という幹(みき)が林立し、プライドや建前(たてまえ)という枝葉(えだは)に陽の光も遮(さえぎ)られた暗い世界だ。迷い込んだお前は、欲望という根の隆起(りゅうき)する瘤(こぶ)に足を取られる。立ちふさがる感情の幹(みき)に方向を惑(まど)わされる。動く度(たび)に伸びた枝葉の先で肌を傷つけて血を滲(にじ)ませ、太陽の在(あ)り処(か)さえ見失って、進むべき方向も分からないまま彷徨(さまよ)い続けなければならない。それでも立ち止まってはいられない。森を抜け出そうと自らが正しいと思う方角に足を踏み出し続けるのだ。もしかしたら、以前来た場所、同じ場所を回り続けているとしても。」

 何が言いたいのか、メキリオには理解できなかった。何を答えて良いか思いつかず、黙って立っていた。

「まあ良い、知ったところでどうにもならない。決めた以上は、お前ができる全力を出してその娘さんを守る事だ。」

「…はい。」

「幸せにな。」

 ドーゼルは漸(ようや)くメキリオに笑(え)みを作って見せる。

「はい。」

 メキリオも力強く返す。

「もう行きなさい。彼女に会いに行くのだろ。」

 ドーゼルは机の上の書類に視線を戻すと、椅子から上体を起こし事務に戻る。メキリオは黙って一礼すると、静かに支部長室を後にした。


 メキリオの気持ちは逸(はや)っていた。岩塩をシャルアへ売りに行っている間(あいだ)離れていたのだ。ティーニアの声が、瞳(ひとみ)が、柔らかい肢体(したい)が、優(やさ)しさが恋しかった。ザルケスタンの支部を飛び出すと、街路を抜け、ティーニアが働く料理屋を目指す。片手に小さな花が植えられた皿を握りしめている。花を買う銭(ぜに)は無い。ザルケスタン周辺に草木は育たない。もっと北の草原で見つけた小さな白い花の草を周囲の土ごと掘り出し、食事に使っていた陶器(とうき)の皿に入れただけだ。萎(しお)れないように毎日水を与え、荷台に置いて太陽の光の下(もと)運んで来た。

 通(かよ)い慣れた街路を曲がり、料理屋が見通せる所まで来ると、店先にティーニアの姿が見える。白いシャツに草色のズボンを穿(は)いている。背中まで伸びた黒い髪が風になびいている。メキリオがザルケスタンに着いた事を、仲間のトルドーから聞いて、彼女も待ち切れずに店前まで出て来たに違いない。

「ティーニア!」

 メキリオは思いっきり叫んで右手を振る。彼女もメキリオを見つけて控(ひか)えめに軽く手を振る。メキリオは走り出す。それを見て彼女も走り出す。2人は街路の途中で出会うなり、そのまま抱き合った。ティーニアの温(ぬく)もりがシャツを通してメキリオの腕に伝わって来る。暫(しばら)くメキリオは彼女を離さなかった。もう、旅先でティーニアを1人想(おも)う必要は無くなる。これからは、この小柄(こがら)な恋人が妻になり、自分を支えてくれる。メキリオは胸いっぱいにティーニアの匂(にお)いを吸い込んだ。

「これ、君に。御免(ごめん)、少し土がこぼれた。」

 彼女を解放すると、メキリオは手にしていた白い花の入った皿を彼女に渡す。持っている皿の事など気にせずにティーニアを抱きしめたため、皿を傾(かたむ)けてしまっていた。

「ありがとう。」ティーニアは皿を受け取ると、白い花を珍しそうに眺(なが)める。「どこの花なの?」

「本部がある地方の草原で見つけたんだ。そこなら沢山(たくさん)咲いているよ。」

「綺麗(きれい)な花ね。持ってくるのが大変だったでしょ?」

「そうでもないよ。こんなもので御免。」

 ティーニアは小さく首を横に振る。

「あのね。私もプレゼントがあるの。」

 ティーニアはメキリオの右手を取ると、自分が先に立って店へと引っ張って行く。風になびく彼女の黒髪の右耳の上で、側頭部の髪を一掴(ひとつか)み結んで垂(た)らした組紐(くみひも)が、髪と一緒になびいている。彼女の後ろ姿は弾(はず)んでいる様(よう)に見える。彼女の髪を撫(な)でた風がメキリオの鼻先を掠(かす)めて行く。

 店前に着くと、メキリオをそこに待たせたまま、ティーニアは中に入り、暫(しばら)く出て来なかった。

「はい。」

 店を出て来るなり、ティーニアは後ろ手に持っていた麦わら帽子をメキリオの頭に被(かぶ)せる。何ごとか分からず、メキリオは自分の頭上を見上げるが、帽子も上を向いてしまい良く見えない。両手で帽子を取ると、それをしげしげと眺(なが)めた。広いつばの付いた何の変哲(へんてつ)もない無地(むじ)の麦わら帽子だ。

「ずっと、外で馬車を扱(あつか)わなければならないでしょ。帽子無しじゃ大変だろうなって思って。」

 ティーニアは両手を後ろで組んだまま、体を前に倒して、麦わら帽子を見ているメキリオを覗(のぞ)き込む。

「ありがとう。」

 メキリオは自分で帽子を被(かぶ)って、ティーニアにお道化(どけ)て見せる。ティーニアはクスクスと小さな笑い声をあげる。

「似合ってる。馬車に乗る時はいつも被ってね。」

「ああ。そうする。忘れたら、どんな仕返(しかえ)しがあるか分からないからね。」

 メキリオは声を上げて笑った。


 2日後、2人は結婚した。2人とも身寄(みよ)りが無い。トルディア商会支部長夫婦、副支部長夫婦と、ティーニアが住み込みで働いていた料理屋の店主夫婦を立会人にして、婚姻届けを役所に提出した。サニキス人の風習に則(のっと)った儀式もトルドーで慣例になっている祝いの宴(うたげ)もしなかった。2人はどちらにも偏(かたよ)りたくない気持ちをそんな形で表現した。

 トルディア商会支部でメキリオとの最初の一夜が明けると、ティーニアは起き抜けに髪を後ろで纏(まと)め組紐(くみひも)で結(ゆ)った。それまでは右耳の辺(あた)りの髪を結(ゆ)っているのが常(つね)だった。笑顔の横で髪と一緒に揺れる、白を基調に赤と黒の紐(ひも)で編(あ)んだ組紐をメキリオはいつも見ていた。

「珍しいね。後ろで髪を纏(まと)めるなんて。」

 メキリオはベッドから上体を起こして、身支度(みじたく)をするティーニアを眺(なが)めながら言う。

「これ?今日からはこうするの。」

 ティーニアは首を左右に振って、束(たば)ねた黒髪を鏡(かがみ)に映しながら答える。

「何だい。心境の変化かい。」

「ううん。これはサニキスの決まり。既婚の女性は髪を後ろで纏(まと)め、組紐で結(ゆ)うの。こんな風に単純に1つに纏(まと)めて根本を束(たば)ねたり、編(あ)み込んで頭の後ろでお団子(だんご)にした髪に組紐を回したり。独身の女の子は昨日までの私の様(よう)にサイドに紐(ひも)を垂(た)らしたり、ヘアバンドの様に頭全体に紐を回して止めたり。後ろじゃ縛(しば)らない。もう、私はあなたのものだから、こうしてそれをみんなに知らせるの。」

 ティーニアは嬉(うれ)しそうだ。

「そうなんだ。そうして髪を上げている方が、少女の様(よう)に見えるよ。」

 メキリオは眩(まぶ)しそうに目を細める。

「そう?少女に手を出してしまうなんて、悪い人ね。」

 どう返して良いか分からずに、メキリオは笑顔を作った。

「私はこうして貴方(あなた)の妻だと知らせるわ。貴方は私と結婚している事をどうやって知らしめるの?」

 ティーニアが意地悪(いじわる)そうに笑う。早くも尻に敷かれる気配がする。

「…君に貰(もら)った麦わら帽子をいつも被(かぶ)って、君を忘れない様にするさ。でも、特別な事をしなくても、いつも一緒に居れば、2人が夫婦なのは誰にだって分かるだろ。」

 メキリオは何とか切り抜けた。


 メキリオの幸福の日々は長く続かなかった。ティーニアと一緒に岩塩の商売を始めて半年が過ぎた。ザルケスタンで岩塩を仕入(しい)れ、シャルアに売りに行く途中、カルーの本部の手前での出来事だった。

 ザルケスタンを出る時からティーニアは体調不良を自覚していた。けれど、商売の足を引っ張ってはいけないと思い、程度が軽い事も手伝って、メキリオには何も言わずにいた。言えば心配して、岩塩を買い込んだまま旅を中止しかねない。自分の為(ため)にメキリオに迷惑を掛けたくなかった。

 しかし、旅の半(なか)ばも行かない内にティーニアの容態(ようたい)は隠し切れなくなった。彼女は堪(たま)らず荷台の隅(すみ)に毛布を敷いて寝込んだ。メキリオは先を急いだ。南部には大きな町が少ない。1番近い大きな町はカルーだ。カルーに行けば、大きな病院がある。ちゃんと見てもらうならばそこだ。

 彼と彼女の甘い見通しを彼女の体が裏切(うらぎ)る。ティーニアの体調が急変する。

 町医者でも良いから途中の町で見てもらおう。だが、次の町まではまだ距離がある。このまま、馬車に揺(ゆ)られて外気に晒(さら)され続けるよりは、ティーニアをどこかの家にあずけて、馬車から馬を外(はず)して、メキリオが単身跨(またが)って、医者を呼びに行った方が良い。

 メキリオは藁(わら)にもすがる思いで、街道沿いの大きな一軒家(いっけんや)のドアを叩(たた)いた。家から出て来たのは大きな男だった。メキリオよりも少し齢(とし)は上だろうか、筋肉質で服から突き出た顔も腕も浅黒(あさぐろ)い男は、何も言わずにドアの前のメキリオを睨(にら)みつけた。

「すいません、急病人が出てしまいました。申し訳ありませんが、ここで休ませてもらえないでしょうか…」

 男は返事をせずに、メキリオを頭の先から足のつま先までねめ回す。

「あの、医者を呼んで来たいのです。あそこの自分の馬で町まで駆(か)けて呼んで来ます。」 メキリオは、街道沿いの草地に停めた自分の馬車を振り返って指差(ゆびさ)す。「あの中で、妻が寝込んでいます。急に具合が悪くなって。見て下さい。見れば嘘(うそ)じゃないのは分かってもらえると…」

「お前はトルドーか。」

 必死で説明するメキリオの声を遮(さえぎ)って、男の野太(のぶと)い圧力のある声が響(ひび)く。メキリオは男の顔を見返した。

「ふん、サニキスよりはまともだとでも思っているのか、行商人風情(ふぜい)が。俺の農園で採(と)れる豆も醸造(じょうぞう)したワインも買い叩(たた)くお前等(ら)に腹が立っているんだ。殴(なぐ)られない内にさっさと出て行け。」

 言うだけ言うと、男は家の中に引っ込んでしまう。

 駄目(だめ)だ。オーベル人だろう。ここで粘(ねば)っても協力してもらえる訳(わけ)がない。そんな無駄(むだ)な時間は使えない。

 メキリオは自分の馬車に取って返すと、急いで馬車を走らせた。

 それから大して時間は経(た)っていない。メキリオが気付いた時、ティーニアは意識をなくしていた。馬車を停めて荷台に移り、彼女に声を掛ける。ティーニアは反応しない。メキリオは1人でどうする事もできなかった。誰か街道を通る者がいれば助けを求められたろう。既(すで)に太陽は西に傾(かたむ)き、夕暮れが迫(せま)っていた。ティーニアは指先から冷たくなってくる。メキリオは自分も毛布に入り込み、ティーニアを抱いて温めた。そうやって、彼女を温め続けて、長い夜が明けた。最早(もはや)メキリオにも事態は理解できた。それでも、道端(みちばた)に馬車を停めたまま、自分の体温でしか暖かくならない彼女の肢体(したい)を抱いたまま、1日中留(とど)まっていた。彼女の黒い髪を撫(な)で、頬(ほお)を触(さわ)り、動かない体を強く抱きしめる。それよりも大事な事などあり得ない。

 次の日、メキリオは馬車を動かした。街道から脇道(わきみち)に入り、静かな、見晴(みは)らしの良い場所を探した。照葉樹(しょうようじゅ)が並木の様(よう)に並ぶ道で馬車を停めて、枝ぶりの良い樹の根本を掘った。穴の底には売り物の岩塩を敷き詰め、その上に毛布に包まれたティーニアの遺体(いたい)を横たえた。その上をジュート袋で覆(おお)って土を優(やさ)しく掛けた。照葉樹の幹(みき)に目印を彫(ほ)ると、馬車に乗り街道に取って返し、街道沿いの草原一面に咲く白い花を摘(つ)んだ。メキリオは沢山(たくさん)摘んだ。手に一杯になると馬車に戻り、また摘みに戻る。花を摘みながらメキリオは初めて泣いた。我慢(がまん)しきれずに口から声が漏(も)れる。視界が歪(ゆが)んで花を摘むのに苦労しながら、憚(はばか)りもせず声を上げて泣いた。

 メキリオは再び馬車を照葉樹の道まで取って返し、ティーニアを埋めた場所の上を白い花で覆(おお)う。1つずつ丁寧(ていねい)に花を並べ、やがて覆いつくされた緩(ゆる)やかに隆起(りゅうき)した土を、彼はずっと見つめていた。

 2日前まで自分の傍(そば)で微笑(ほほえ)んでいたティーニアをもう見る事も、触れる事もできない。何故(なぜ)こうなった。何が間違っていた。何故自分達にこんな災難が降りかかるんだ。悲しみの中から怒りが顔を出す。この怒りをどこにぶつければ良い。こんな結末になったのは誰のせいだ。脳裏(のうり)にメキリオを冷たい目で見下(みくだ)した大男の顔が浮かぶ。『行商人風情(ふぜい)が』と蔑(さげす)む声が聞こえる。メキリオは両手の拳(こぶし)を強く握る。自分の胸の中に熱い物が湧(わ)き上がり、早く早くと急(せ)き立てている。このまま黙っているつもりか、ティーニアの無念を晴らすのはお前しかいない。愛していた人を奪われる者の気持ちを思い知らせてやれ。あいつにこんな思いを強(し)いられるのは、自分で最後にしなければならない。

 メキリオは馬車に戻ると荷台に上がり斧(おの)を探した。広くも無い馬車の中に斧は見つからない。荷台を降り、馬車の外側を探す。斧(おの)は台枠(だいわく)の下に括(くく)りつけてあった。斧を馬車の台枠から外(はず)して手に持つ。柄(え)は手に馴染(なじ)み、刃は錆(さび)も無く太陽の光を鈍(にぶ)く反射している。御者席(ぎょしゃせき)の脇(わき)に斧を置くと、メキリオは馬車で街道に取って返す。馬車を走らせる。整備が行き届かない路面の石に乗り上げ、馬車の車輪が跳(は)ね上がるのも気にせず、カーベルにあらん限りの力(ちから)を出させる。荷の岩塩が邪魔(じゃま)だ。揺れる荷台が壊(こわ)れ、岩塩が落ちて例(たと)え全財産を失う破目(はめ)になろうとも構(かま)わない。

 オーベル人の一軒家(いっけんや)の前まで来ると、メキリオは馬車を停めた。斧(おの)を持って馬車を飛び降り、メキリオは大股(おおまた)で家へ向かう。家の前まで来て、メキリオは立ち止まる。男が倒れている。うつ伏(ぶ)せに倒れているので顔は見えないが、背格好(せかっこう)からメキリオに応対をしたこの家の主(あるじ)だろう。背中が血に染まっている。何か刃渡(あわた)りの長い鋭利(えいり)な刃物で袈裟懸(けさが)けに背後から切られたらしい。左肩下から右わき腹にかけてシャツが切れて、皮膚に口を開けたむごたらしい傷口が見える。最早(もはや)生きてはいないだろう。

 その姿を見て、メキリオは我(われ)に返った。自分は何しにここに来た?もしかして、誰かがやらなければ、自分がこの男をこうしようと考えていたのか?自分の手に握られている斧(おの)の事を思い出し、慌(あわ)てて斧をできるだけ遠くへ投げ捨てる。これが自分の望んでいた結末なのか?こうすれば、自分の気持ちが安らぐと思っていたのか?

 目の前の男は助からない。確認するまでも無く、こと切れているに違いない。血の状態から、襲(おそ)われて時間が経(た)ち過ぎている。惨劇(さんげき)は昨日だろうか。メキリオは大きな家に目を遣(や)る。この大きな家に男1人で住んでいるとは思えない。他の家族は?

「おい、誰かいないか!」

 メキリオは大きな声で呼びながら家の中に入り込んだ。どこかに襲撃者(しゅうげきしゃ)が隠れているかも知れない。用心しながら、家の中を見て歩く。1階には誰も居ない。階段を2階に上がると、階段の上がり端(はな)に女性が倒れている。高級な生地の服を着た若い女性だ。うつ伏(ぶ)せに倒れているが、外傷は見当たらない。

「おい、大丈夫か!」

 メキリオは女性を揺(ゆ)さぶり、肩を掴(つか)んで抱き起そうとすると、彼女の体の下から血溜(ちだ)まりが現れる。掴(つか)んだ彼女の体は硬直している。そっと彼女の体を元に戻す。

 声がする。微(かす)かな泣き声だ。どこからか、かすれたような泣き声が切れ切れに聞えて来る。声のする場所を探す。寝室の方だ。寝室を覗(のぞ)く。誰も居ない。いや、確かに声がする。声はクローゼットの中から聞こえる。メキリオがクローゼットの扉(とびら)を開けると、タオルケットに包まれた赤ん坊が棚(たな)の上に乗せられている。泣き過ぎて声は皴枯(しわが)れてしまっている。恐らく、襲撃者に気付いた母親が咄嗟(とっさ)に赤ん坊をクローゼットの中に隠したのだろう。恐(おそ)る恐る赤ん坊を取り上げる。赤ん坊の手に握られたネックレスが垂(た)れ下がる。青い石が揺れている。母親が握らせたのか、クローゼットの中で勝手に掴(つか)んだのか。泣き疲れていても必死で叫ぼうとしている。恐らく腹が減っているに違いない。けれど、メキリオにはどうする事もできない。そのまま赤ん坊を抱いて、階段を降り、家の外に出る。

「おい、メキリオ。」

 キジロフが、家を出て来たメキリオを見つけて駆(か)け寄って来る。

「どういう事だ。この男は誰だ。」

 キジロフは大男の遺体(いたい)を指差(ゆびさ)す。

「この家の主(あるじ)だ。きっと、誰かに襲撃(しゅうげき)されたのだろう。」

「お前、その赤ん坊は?」

「この家の子だろう。クローゼットの中に居た。母親も家の中で殺されている。」

「なんて事だ。サニキス人の過激派の仕業(しわざ)か?」

「分からんが、そんな所だろう。恐らく昨日襲撃されたのだと思う。」

「お前、なんでこんな所に居るんだ。道端(みちばた)にお前の馬車が停めてあったから、来てみればこの有(あ)り様(さま)だ。」

「詳しい事は後で話す。兎(と)に角(かく)、近くの町に行って、警察に連絡しよう。」

「分かった。お前はその子を抱いていろ。俺の馬車に乗れ。道すがら、事情を教えろ。」

 キジロフが馬車を走らせている間、メキリオは事の経緯(いきさつ)を話して聞かせた。辛(つら)くても、ティーニアの事から話さない訳(わけ)にはいかなかった。ガラガラと大きな音を立てて走る馬車の上では、小さな声では聞こえない。ティーニアを失った悲しみも、自分が馬鹿げた復讐心(ふくしゅうしん)に狂い掛けた惨(みじ)めさも、吐(は)き出すように言葉にした。キジロフに聴かせるというよりも、あらゆるものへの懺悔(ざんげ)だったかも知れない。言葉で自分を殴(なぐ)りつけるメキリオの声を、手綱(たづな)を握りながらキジロフは黙って聴いた。無表情な浅黒(あさぐろ)い皴(しわ)だらけの顔の落ち込んだ眼は真っ直ぐに前だけを見ていた。

 警察に着くと襲撃された家の事を知らせた。メキリオが助けた赤ん坊もここで警察にあずけた。

「まさか、南部で『戦線』が活動しているなんて。」

 話を聞いた警官の1人が呟(つぶや)く。

「まだ『解放戦線』の仕業(しわざ)と決まった話じゃない。」上司と思われる中年男がたしなめる。「それで、あなた方はなぜ、あの家を訪ねたのですか?」

 キジロフは黙ったまま、メキリオの顔を見る。

「ええ、先日、旅の途中でお世話になって。それで…お礼を言おうと立ち寄ったんです。」

 メキリオはつい、嘘(うそ)を言った。途中で言い淀(よど)む自分が情けない。

「これから、現場に向かいます。案内してもらっても良いですか?」

「はい。」

 メキリオは硬い表情で頷(うなず)く。

「ああ、馬車で先導(せんどう)します。どうせ、こいつの馬車を取りに行かなけれりゃならないんで。」

 キジロフが付け加える。

 現場検証の間、2人は付き合わされた。赤ん坊を発見した場所を説明し、到着した時の様子を何度も質問された。警察から解放された時には、もう日が暮れ始めていた。翌日から、2人は馬車を連ねて北上し、カルーのトルディア商会本部に立ち寄って事の次第(しだい)を報告した。万一、2人に嫌疑(けんぎ)が掛けられる事態となったら、支援してもらう為(ため)だ。ティーニアを失い、自(みずか)ら埋葬(まいそう)して来たメキリオの様子が心配だったキジロフは、シャルアまでメキリオと一緒に旅をした。以前は商売に思いがこもっていたメキリオが、まるで別人の様(よう)にあっさりと岩塩を売り渡す様子は、キジロフにメキリオの心境を理解させた。キジロフは、もう少し一緒に旅をしながら、彼の様子を見る事にした。


 ザルケスタンまで引き返す途中、カルーの本部に立ち寄ったメキリオは、その後、警察から何か連絡が無かったか尋(たず)ねた。

「特にメキリオ君に対する問い合わせも要求も来ていないよ。犯人は案の定(じょう)、不明のままだがね。」

 まだ頭頂部に薄く髪の毛が残っているシェバリク会長が答える。髪の毛と違って、体形はこの頃から小太(こぶと)りだ。

「そうですか。ギルドにご迷惑をお掛けする事にならずに済みそうで安心しました。」

 メキリオは肩の力を抜くと、足元を見ながら呟(つぶや)く。

「ああ、全(まった)く何も無かった訳(わけ)じゃないけどね。まあ、迷惑でもないが。」

「え?どういう事ですか?何か警察が言って来たのですか?」

「いや、そうじゃない。こっちから人を遣(や)って状況を確認したらね。あの家と農園は売りに出されていたよ。亡(な)くなられたご夫婦の血縁者は北部の人ばかりでね。わざわざ南部の田舎(いなか)まで来て、小さな農園の経営に乗り出そうという人は居なかったようだね。まあ、それは良いんだが、赤ん坊が居たろ。可哀想(かわいそう)に引き取り手が居なくてね。孤児院(こじいん)に入れられるという話だったから、こっちで引き取ったのさ。」

「え!赤ん坊を親族が引き取らないって、そんな薄情な事ってあるんですか。」

 メキリオは思わずシェバリクに食って掛かる。

「いやいや、それぞれ家の事情があるから、しょうがないだろ。もう少し大きくなっていて、手が掛からなくなっていれば違ったかもしれないが、老夫婦や自分の子供で手一杯の家庭では赤ん坊は手に余(あま)る。」

「だからって…親族ですよ。一体何を考えているんだ…」

 メキリオは、ショックのあまり目が宙(ちゅう)を泳ぐ。

「メキリオ君。自分の立場で考えてごらん。もし、君に親族が居て、今までろくに付き合いも無かったその親族の赤ん坊の身寄(みよ)りが無くなったとしたら、君は今の商売をしながら引き取って育てる覚悟があるかい?まして、今まで見た事も無い赤ん坊を、親族だからって押し付けられたら、君だって困るだろう。」

「でも…だからって…」

「まあ、良いさ。あの子は私達があずかってトルドーとして育てていくよ。今までにも沢山(たくさん)例のある事だ。心配要(い)らないよ。」

「あの…、会わせてもらえますか?」

「え?ああ、そうだな…。」

「是非(ぜひ)会わせて下さい。会うだけですから。」

 シェバリクはどうしたものか、一瞬躊躇(ちゅうちょ)して、メキリオの脇(わき)にいるキジロフを見る。キジロフは落ち込んだ両の眼でシェバリクを見つめてゆっくり頷(うなず)く。

「じゃあ、付いて来て。」

 シェバリクは先に立って、本部の奥に歩き出す。メキリオとキジロフはその後に続く。

 その赤ん坊は、日差(ひざ)しが一杯に差し込む部屋にいた。ゆりかごの中で目を大きく開け、部屋を訪れた3人の男達をキョロキョロと見ている。メキリオはゆりかごに近寄り赤ん坊を覗(のぞ)き込む。

「アルジと名付けたよ。男の子だ。」

 シェバリクの声がメキリオの背後で聞こえる。

 その子は穢(けが)れの無い大きな瞳(ひとみ)で、覗き込むメキリオの顔を見つめている。自らに降り掛かった不幸など欠片(かけら)も映(うつ)してはいない。小さな両手を伸ばし、到底届かない距離にあるメキリオの顔に触れようとしている。まだ自分の思い通りに手を動かす事もできないが、諦(あき)める事なく、幾度(いくど)もその手を伸ばしてくる。僅(わず)かな時間の悪戯(いたずら)で罪人にならずに済んだ愚(おろ)かな男を責めもせず、憐(あわ)れみもせず、純粋にその無垢(むく)な手で触れようとしている。メキリオは、自らの体を縛(しば)り付けていた見えない何かがボロボロと剥(は)げ落ちていくのを感じる。手足が震(ふる)え、思わず涙が両眼からゆりかごの中に落ちる。

「この子を…俺が立派(りっぱ)なトルドーに…。15歳になったら、きっと…俺が、この子の…。俺が、この子の…」

 彼は何度もちゃんと話そうと努力した。けれど、いつも同じ所で胸が詰(つ)まり、最後まで話す事ができなかった。



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