森に生きる
3人は西に向けてシャルアを後にした。岩塩は無くなったが、外からエショナが目立たない様にするためと、日差しから彼女を守るために、荷台の幌は付けたままとした。最後は峠の国境の検問でエショナが捕まらない様にしなければならない。そのためにも、トルディア商会の支部以外では、余り人目に晒したくない。メキリオとアルジは通行証を持っている。トルドーが国内の物流を担っているため、国もトルドーには国境を越えて物資を流通させる許可を与えていた。エショナにはそれが無い。サニキス人のエショナが、何か理由をつけて通行証の発行を申請したところで、サニキス人の過激派『解放戦線』が敵国の支援を受けているという、まことしやかな情報が流布されている現状では、許可が下りる見込みは無かった。国境の検問で、エショナが見つからない様にする手段が必要だ。メキリオとアルジは作戦を練り、シャルアの支部を出る前に準備を整えた。
天気の良い日中、幌馬車の中は暖かくなり、アルジの上着を着たままでは暑い。前後の垂れ布を巻き上げて、エショナは上着を脱いで、邪魔な岩塩が無くなった馬車の荷台で横になり、顔だけ少し覗かせて外を見ている事が多くなった。
エショナは、シャツを交互に着た。空色のシャツを着ているエショナを見る時、アルジは胸が高鳴った。何だか、それまでの様に軽い気持ちでエショナと話せないでいる自分に気付いた。どうにも話しづらい。でもエショナと話したい。何とか平静を装って、上ずりそうになる声を必死で抑えて話しかけた。自分が手綱を握るときは、わざと話すのをやめて馬車の扱いに集中し、自分の気持ちを落ち着かせようと試みもした。
エショナは変わらなかった。今までと同じ様にアルジに話し掛け、アルジを揶揄った。前よりも明るく、気さくにアルジともメキリオとも話すエショナが、アルジには眩しかった。
メキリオも変わらない。不愛想に形の崩れた麦わら帽子を目深に被り、何も言わずに手綱を握っているか、アルジが手綱を握れば隣で黙って座って前を見ているか、さもなくば、馬車をアルジに任せ、荷台に寝転んで眠っている。
シャルアを発って3日目の晩だった。アルジ達3人は、その日の目的地としていた町のトルディア商会支部に予定通り到着した。2部屋使うが、メキリオとアルジが同じ部屋で、エショナは別室。シャルアを出てから、前の様にエショナとアルジを同じ部屋に泊める事をメキリオはしなくなった。
ギルドの食堂で3人が夕食をしている時、1人の男がメキリオを見付けて大きな声をあげた。
「おい!メキリオじゃないか。久し振りだなぁ!」
真っ黒に日焼けして痩せた男は、食事をしている最中なのもお構いなしに、メキリオの両肩に手を置いて力強く揺さぶる。料理をぶちまけてしまわない様、渋々メキリオは立ち上がる。
「ああ、キジロフ。久し振り。」
メキリオの顔は喜んでいない。
「どうしていた。どうしてこんな所に?お前、岩塩の仕事はやめたのか。」
キジロフと呼ばれた男は、矢継ぎ早に話し掛ける。黒々と日焼けした顔の中の両眼は酷く落ち窪んでいて、その奥のギラギラした眼が抜け目ない印象を見る人に与える。
「いや、そうじゃない。ちょっと野暮用でね。」
何故かメキリオは照れ笑いを浮かべる。
「なぁんだ。お前も小麦に変えてみないか?小麦は良いぞ。今俺は、セニエスランドで仕入れた小麦をシャルアに持ち込む仕事をしている。国境で関税を取られるが、それでも充分儲けが出る。何しろ、北の紛争が長引いて、小麦の相場は高止まりだからな。…あ、そんな話をして、ライバルを増やすなんて、おりゃあ馬鹿だな。」
キジロフは勝手に喋って、勝手に声を上げて笑う。
「そんな事は無いさ。確かに良い話だが、やめておくよ。」
いつもは、不機嫌そうなメキリオが愛想良く対応している。アルジは見慣れないメキリオの愛想笑いをまじまじと見上げる。
「そうか?昔の事を忘れるには、環境を変えた方が良いと思うがな。それよりも久し振りだ。酒でもどうだい。」
「いや、今もう酒はやめた。それに1人じゃないから付き合っていられない。」
メキリオは即座に否定する。
「悪い悪い。そうか、連れがいるのか。その野暮用と関係あるのか?」
キジロフは視線をテーブルに着いているアルジをエショナに向ける。
「アルジとエショナだ。」
「アルジです。」「今晩は。」
メキリオに紹介され、2人は挨拶をする。
「やあ、今晩は。メキリオ小父さんは優しくしてくれるかい?」
キジロフは上体を屈めてアルジ達を見回す。
「修業は厳しいけど、いろいろ教えてくれます。」
アルジは意識して元気良く答える。
「修業って、トルドーの見習いかい。」
「はい。今年からメキリオさんに付いてトルドーの修業を始めました。」
「んん?えーっと、アルジ君はいくつだい?」
「15です。」
「…ああ!もしかして、この男の子がそうか?」
キジロフを調子外れな声を上げて上体を起こすと、メキリオに食らいつく。
「ああ、そうだから、もう、その話はやめてくれ。」
メキリオは如何にも迷惑そうだ。
「ああ、すまんすまん。そうかぁ。そうなんだ。えっと、アルジ君は15歳なんだっけ?」
「はい。」
アルジは軽く頷く。
なんだ、この含みのある調子は。
「修業頑張れよ。小父さんも応援しているからな。」
キジロフは日に焼けた細腕を曲げて力こぶを作り、もう一方の手で、そのなけなしの力こぶを叩いて見せる。
「もう、そのくらいにしてくれ。」
メキリオは、キジロフをテーブルから引き離そうとするが、キジロフは食い下がる。
「ええと、こっちはエショナさんだったかな?」
キジロフは、フードを被ったエショナに視線を移し覗き込む。エショナは呼ばれて顔を上げ、キジロフを見る。
「おや?この子は…」
にやけた笑顔だったキジロフが素に戻る。一瞬間、キジロフとエショナは見合ったまま固まっていた。やがて、キジロフはゆっくりとメキリオに向きを変え、やにわにメキリオの胸倉を掴んで引き寄せる。
「お前、何考えている。同じ過ちをさせるつもりか!」
「ちょっと待ってくれ。」
メキリオはキジロフの腕を掴んで逃れようとする。
「何だ?それとも自慢なのか?みんなそうした方が良いと思っているのか!」
「良いからやめろ!」メキリオは無理やり、キジロフの腕を振り解く。「こっちへ来い!」
キジロフの腕を掴んで強引に引っ張る。2人はもつれる様にして食堂の外へと消えて行く。
食事途中のアルジとエショナが残された。アルジには嵐の様に過ぎ去ったキジロフの態度が引っかかっていた。
「なんだったんだ?」
メキリオ達が消えた戸口を見ながら呟く。
「良いから食べてしまいましょ。その内戻って来るよ。」
エショナは冷静だ。
2人が食べ終わった頃、メキリオだけが戻って来た。
「食事は済んだか?」
「ええ、食べ終わった。」
エショナがメキリオを見上げて言う。
「じゃあ、部屋に戻るぞ。」
「メキリオ、まだ途中じゃない?」
アルジは食べかけのメキリオの皿を指差して言ったが、メキリオは答えもせずに行ってしまう。エショナも構わず席を立つ。アルジは何だか割り切れない気持ちのまま、2人の後を追って食堂を出た。
「キジロフは古い知り合いだ。」
部屋に戻り、メキリオとアルジだけになると、アルジが何か質問する前からメキリオは話し始めた。
昔、キジロフも岩塩を扱っていた。売り先もシャルアだったから、ザルケスタンとシャルアを往復する道すがらキジロフと顔を合わせた。若い頃はノリでどっちが早くシャルアに運べるか賭けをした事もある。彼はもっと割の良い商品を求めて岩塩を離れたきり、会っていなかった。メキリオは以前から弟子を取って育てようと思っていた。彼にはその話をしていたから、あんな反応になった。エショナを見て騒いだのは、俺が若い嫁さんを娶ったと勘違いしただけだ。
メキリオは、ベッドに座って、大体そんな話をしゃべり続けた。一通り話し終わると逆に黙り込んで、大きく溜息をつく。
アルジは、素直に納得できなかった。いつもなら、質問したところで充分に答えてくれないメキリオが、何も質問しない内から全てを話して聞かせるなんて、言い訳じみているにも程がある。一体メキリオは何を隠そうとしているのか。気にはなるが、結局メキリオに何も質問しなかった。
「それよりも、このままエショナをセニエスランドに連れて行って、はい、さようならでお前は良いのか?」
いきなり話題を変えると、メキリオの顔つきも変わる。相手に向かって切り込んでくる時はいつもこの目をしている。
「なんだい、それ。当たり前だろ。エショナを家族の元に届けたら、仕事に戻る約束だ。」
メキリオに頼み込んで、セニエスランド行きを認めてもらった。エショナを届けたら、商売の修業に戻るとアルジは約束した。メキリオだって忘れている訳じゃあるまい。アルジの気持ちを試しているのか。
「エショナにまた会える確率は限りなくゼロに近い。それで良いのか。大体、最初にエショナを助けたのは何故だ。」
なんだ?メキリオは何を言っているんだ。
「メキリオだってエショナを助けた1人だろ。聞かなくても、分かるじゃないか。」
「いや、行動は同じでも、理由が同じとは限らない。それに、井戸から引き上げはしたが、俺はそれ以上助けるつもりは無かった。命は助けた。その先はエショナ自身がどれだけ強いかで運命が決まる。」
確かにメキリオは、エショナを助け上げた時から何故か不機嫌で、エショナを邪魔者の様に扱っていた。
「それじゃあ、救った事にならないじゃないか。何だかんだ言っても、メキリオだって結局セニエスランドまで送って行くって決めたんだろ。それは、メキリオの中で、途中で投げ出すのじゃ後ろめたさがあるからじゃないか。」
アルジも、この時とばかり、メキリオについて思っていた事を口にする。
「俺の行動は、やりかけた人助けを途中で投げ出す事への後ろめたさだとして」メキリオはベッドの上で反り返ると後ろに両手をつく。「お前の理由はなんだ。なんでエショナをそこまで助けようとする。」
メキリオの声は落ち着いている。アルジが言葉で反撃を試みても、動じる様子も無い。
「だから、人助けだよ。困っている人がいたら、放っておけないだろ。それも、僕等が助けなければ、死んでしまうかも知れないのに。メキリオだって、途中で投げ出す後ろめたさを認めたじゃないか。」
自分でも分からないが、何故かムキになって話す。
「お前は自分の気持ちが理解できていないのじゃないか?本当に人助けだけでここまでしているのか?もし、井戸から助け上げたのが老婆だったら、セニエスランドまで送って行く気になったか?」
「ああ、なったさ。誰だって困っていたら助ける。」
「もし、中年の親父だったら?お前は、その気が無い俺を説得してセニエスランドまで連れて行こうとするのか?俺が行かなかったら、自分の力で連れて行ってやろうとまでするのか?」
「そうだよ。…きっと、そうしたよ。」
きっとそうしなかった。アルジ自身もそう思う。たぶん気付いている。何か違う気持ちが胸の中で渦巻いているのに。
メキリオは上体を起こし直して、正面からアルジを見る。
「俺を誤魔化すのは構わない。…怒るがな。自分を誤魔化さないようにしろ。良く考えてみろ。」
アルジは只黙ってメキリオを見る。
「それと、キジロフから1つ情報を取って来た。峠の国境警備はかなり厳しいそうだ。検問では馬車の中から、馬車の下回りまでチェックされる。エショナを出国させるにはもう少し工夫が必要だ。」
メキリオの話にアルジの気持ちは切り替わる。考えたくない事から逃げているとは思いもしない。
「そうなんだ。じゃあ、工夫し直さなきゃ。作戦を考えようよ。」
アルジは漸く解放された気分になって、自分のベッドの上に体を投げ出した。
次の日は、時々馬車を道端に停めながら進んだ。草が生い茂る場所を探しては馬車を停め、その度にアルジは馬車から降りて叢に分け入って行く。メキリオは御者席で手綱を握ってアルジが戻って来るのを待つ。エショナも馬車の垂れ布から顔だけ覗かせて、アルジの様子を見ている。
「何をしているの?」
叢の中を何か探してうろつくアルジの姿を見ながら、エショナはメキリオに話し掛ける。
「猫が食べる草を探している。」
メキリオも、アルジの姿を追いながら答える。
「猫?」
「ああ、調子が悪い時に猫が自分から好んで食べる草があるそうだ。それを探している。アルジは知っているが、俺は分からないからな。」
「そんなの見つけてどうするの?」
「峠越えに使う。この先、荒れ地になると、草が生えていないから、今の内に確保しないと。」
「ふうん。…ねえ、メキリオさん。メキリオさんがした過ちって何?」
「なんの話だ。」
「昨日の夜、メキリオさんのお友達、キジロフさん?と話していたでしょ。昔の事だとか、過ちだとか。」
「そんな話聞いてどうする。もう半月もすれば、俺達はお別れになる。」
「別に。単に興味本位。」
「若い頃の他愛のない話だ。大した事じゃない。」
「大した事じゃないなら話して。」
「嫌だ。思い出したくない。」
「キジロフさん、私を見てサニキス人だって気付いてた。」
「そうか?」
「ええ、私はフードをしたままだったけど気付いてた。その後、メキリオさんに食って掛かったよね。」
「勘違いだろ。アルジの姉弟には見えないから、俺が若い嫁さんをもらったと思って、何を中年がとち狂っているんだと思ったのさ。」
「ふうん。アルジにもそう話したの?」
メキリオはすぐに返事をしない。叢に向けていた視線を、馬車の荷台から突き出ているエショナの後頭部に移す。返事が無いので、エショナも首を回し、メキリオを見たため、図らずも2人の視線がぶつかる。
「最初の内、お前とアルジを同じ部屋に泊まらせたのは俺の間違いだった。世間体を気にする柄でもないのに、俺がお前と同じ部屋に泊まる訳にはいかないと思ったからな。」
「何?何の話?」
「俺はお前を信用していた訳じゃない。たとえギルドの中だとしてもお前を1人部屋に泊めれば、夜中に馬車を盗まれる危険がある。お前も俺達を信用し切っていないなら、そのくらいの事を考えても不思議じゃない。後から分かったが、隣の国に行くつもりがあるなら、そう対処したのは正解だったと思っている。だが、アルジと一緒に泊まらせたのは間違いだった。」
「勝手に盗人呼ばわりしないで。そんな事するつもりはない。」
「アルジを言いくるめる事はしてもか。」
「それもしてない。」
エショナの声は、今まで聞いた事が無いくらい刺々しい。
「俺はこの意味が分かっている。」メキリオはそう言いながら、左手で拳を作って自分の後頭部に当て、髪の毛を後ろで纏めたエショナの髪型を真似る。「お前には今回の清算をちゃんとしてもらう。」
2人の会話の中身を知らないアルジが手に草の束を握って戻って来る。
「いやあ、有ったよ。良かった。探せば有るもんだね。」
アルジは2人に機嫌よく話し掛けながら、馬車の後ろから荷台に草を放り込んだ。
アルジは馬車の手綱を握っている時、1人で叢に入り込んでいる時、メキリオに言われた言葉を考えていた。井戸から助け上げようとした時、エショナでなくても、たとえ老婆でも中年男でも、救おうとした筈だ。それは自信がある。あの襲撃の惨状が残る村に残して行く選択もしなかったに違いない。でも、こんな所まで一緒に旅する事になっただろうか。シャルアまで連れて行ってあげたかも知れない。けれど、自分の修業の時間を犠牲にしてまでセニエスランドを目指したろうか。いやむしろ、エショナ以外の女性だったとしても自分はセニエスランドまで連れて行こうと決断しただろうか。
分からない。
身の上話を聞いてしまえば、相手がどんな人だったとしても、助けたいと思った様にも思うし、逆にエショナだったから、こんなにも固い決意をした様にも思える。
ただ確かなのは、今の気持ちだけ。
エショナに哀しい顔をして欲しくない。胸が締め付けられる様な、居ても立っても居られない気持ちになる。エショナが幸せになってくれれば、それで自分は満足だ。そのためなら、こうして自分の時間も労力も惜しまない。それだけで何が悪い?自分の気持ちを誤魔化す?何も誤魔化していない。自分の気持ちに正直に行動しているから、こうしてセニエスランドに向かっているんじゃないか。
目当ての草を見付けて、適当な量を抜き取ると、アルジは馬車に向かった。馬車に目を向ければ、御者席のメキリオと顔を出したエショナが何か話しているのが見える。
なんだろう。何か胸がざわつく。焦りにも似た思い。ざわざわとしきりに胸が騒ぐ。
アルジは草を荷台に入れると、素早く前に回り、御者台によじ登る。
「さあ、出発しよう。」
アルジは、エショナを見て笑顔で言う。
「そうしましょ。」
エショナが笑顔でアルジに応える。
何だろう。いつもなら、気持ちが和む彼女の笑顔を見ても、今のアルジの胸は痛いくらいに締め付けられている。




