憧れの都
デクレシアの首都は、南部のザルケスタンと比べるべくもなく、洗練された都会だ。都の中央に遠くからも視認できる石積みの塔がそびえ立ち、その周囲を囲む街並みは、大理石や白い漆喰塗りの大きな家が互いに適度な間隔を保って並んでいる。馬車が行く街道の幅も広く、石畳もよく整備されて、馬車が大きく揺れる事は無い。行き交う人は、オーベル人もサニキス人も入り混じり、互いに過度に意識せず、そこに居るのがごく当たり前の顔ですれ違う。隣国ネシーリアと交戦中のデクレシアでも、首都の治安を守るぐらいの力は残っている。挙国一致を掲げ、形だけにしろ、サニキス人やトルドーの代表が入った議会と政府が鎮座する首都では、全ての人が差別されずに生活している。アルジが初めて目にする首都シャルアは彼が想像していた以上に光り輝いていた。
「岩塩はどこで売るんだい?」
アルジは人と馬車の多さに目を奪われ、頻りに左右に首を回す。多いと言っても、道が埋まる程に人とその熱が渦巻いていた混沌の街ザルケスタンとは違い、どこか澄まして、うまく互いの距離を保っている。
「慌てるな。まずギルドに行く。」
「ええ~、何でそんな事。」
「岩塩の相場を確認する。」
こんなに賑やかでワクワクするような街に来たのに、メキリオは至ってクールだ。
シャルアのトルディア商会の支部は東地区にある。アルジ達が到着した南からは、街を4分の1周する形になる。それだけでも他の町の市街地では有り得ない程距離がある。首都であり、これだけの大きさの街なのに、シャルアに在るのは『支部』で、アルジが暮らしていたカルーに『本部』があるのは地理的な問題だ。首都シャルアは北部の中でも北に位置し、デクレシアの中では北に偏り過ぎている。カルーは国の中央に位置し、東西南北の街道が交差する交通の要衝に位置している。会員の多くが行商を営むトルディア商会では、当然の選択だ。
メキリオは支部の玄関の前に馬車を停めて、ここでも正面から堂々と入って行く。入口の正面に大きな大理石の柱が4本立ち並ぶ建物は、見上げる者を威圧するのに充分だ。『支部』とは言え、これだけの街にあるそれは、本部と見紛う程の規模を誇っている。アルジは馬車の番を言いつけられて、御者席に座ったまま、大理石の柱を見上げ、シャルアの支部の威容に圧倒されていた。
「大きな街ね。」
メキリオがいなくなると、エショナが荷台からフードを被った顔を突き出して、アルジと一緒に支部を見上げる。
「エショナもシャルアに来るのは初めて?」
アルジはエショナに視線を移す。
「うん。シャルアどころか、今まで通って来た町はみんな初めてだった。」
「山から下りた事も無いのかい?それでも、セニエスランドまで1人で行くつもりだったの?」
「え?うん。それしかないもの。」
「御免、そうだね。」
大きな街に来て、何を自分は浮かれていたんだ。ここにはこれから、何度でも来れる。でも、エショナを救えるのは今しかない事をしっかり意識しておかなければ。
「なんか、賑やかでワクワクする。いろいろ見て歩きたい。」
アルジの反省を知ってか知らずか、エショナはアルジを見上げて笑顔を見せる。気持ちがほぐれて思わずアルジも笑顔を返す。
メキリオは直ぐに戻って来た。
「まだ、値が高い。すぐに売りに行くぞ。」
御者台に飛び乗ると、メキリオは手綱を握り馬車を走らせる。
これだけの大きな街に岩塩を運んで来る商人はメキリオ以外にも居る。彼等から岩塩を購入する仲買人も同じだ。あまたの取引が相場を作って行く。シャルアの支部は、トルドー達が取扱う主要製品の相場を常に把握している。ザルケスタンの岩塩品薄の影響は、シャルアの相場を引き上げていた。
メキリオの取引相手は決まっている。商売相手との信用を大切にし、メキリオはそれ以外の相手とは取引をしない。シャルアに居を構える同じトルドーの仲買人、オーベル人の食品加工業者、サニキス人の商店。いずれも、メキリオの岩塩をその時の相場の値で買ってくれるお得意さんだ。メキリオはシャルアの街中を馬車で飛ばし、得意先に次々と岩塩の袋を売って行った。現金取引。常に移動するメキリオにとって、現金でなければ都合が悪い。手形ならもっと高値で買ってくれる相手や、大量に一括して売れる相手もいるだろうが、メキリオの商売の仕方にはそぐわない。貰った現金は、旅の当座の資金を除いて支部で小切手に換える。トルディア商会の支部ならどこでも現金に換えられる代物だ。
「お前の取り分だ。」
支部に戻ると、売り上げの中から、銀貨2枚と小切手を1枚、アルジの手に握らせる。
これが僕の稼いだ金か。
自分の掌を目の前まで引き寄せて、アルジはまじまじとそれを眺める。金を稼ぐのは初めてではない。カルーの本部で暮らしていた頃、仕事を手伝えば、幾許かの小遣いを貰えた。そうやって、本部で暮らす孤児達は、現金を扱う感覚を磨く。でも、実際にこうして稼いだ金を手にすると、それとは全く違う。頭の中にカルーからここまで馬車に揺られてきた日々の記憶が蘇る。思わず顔がほころぶのを抑える事ができない。
「おおー。これが儲けるって事かぁ。」
「どうだ。やめられなくなりそうか?」
「どうかな。まだ、全部習った訳じゃないから。」
「ふん、案外冷静なんだな。」
「それより、これでセニエスランドに行くんだよね。」
アルジは傍にいるエショナを振り返る。
「まあ、待て。それには準備が必要だ。慌てるな。馬車の軸受けが壊れたろ。他の軸受けも傷んでいるに違いない。西部の荒れ地で壊れたら、身動きが取れなくなる。いつもルカンの様な人に出会える訳じゃないんだぞ。残りの軸受けは全て交換していく。それに、慣れない土地に入り込む。地図が必要だ。」
「チズ?」
「ああ、土地や道の情報が書かれている冊子だ。それと保存食の買い入れ。」
「また、干し肉かぁ。」
エショナがクスクス笑う。
「カーベルも休ませてやらないとな。まず綺麗に洗ってやる。」
「あ、それなら、僕やるよ。得意なんだ。」
「じゃあ、私も手伝う。」
エショナが口を挟んだので、アルジは内心びっくりした。エショナが楽しそうに笑っている。何だかこっちも嬉しくなってくる。
「このギルドの裏の方へ暫く行くと、小川がある。そこで洗ってやると良い。少し、空き地で自由にしてやりたい。ここのギルドは馬場があるから、そこで暫く自由にしてやろう。」
「分かった。汗をかくから、先に遊ばせてから、洗った方が良いね。」
「よし、じゃあ、俺はギルドの工作部で軸受けの修繕を交渉する。お前達はその間に、カーベルを頼む。終わったら、街に買い物に行くから、ここで落ち合おう。」
「うん。」
アルジは力強く頷く。3人は連れ立って、自分達の馬車へと向かった。
シャルアの支部を訪れるトルドーの数は、他に比べて桁違いに多い。そのため、彼等をサポートする施設も充実している。3人は馬車を工作部まで移動させると、カーベルを切り離した。メキリオが工作部の責任者と交渉を始めると、アルジとエショナはカーベルを連れて馬場に向かう。カーベルを引きながら、2人は並んで歩いた。
「私の母はこの町で生まれたの。」
その言葉にアルジはエショナを見たが、エショナは足元を見て歩いている。
「家はどのあたりに在ったのか、聞いた事が無いから分からない。まさか、こんな大きな街だと思わなかった。これじゃあ、探しようがない。」
「そうなんだ。こんな大きな街で生まれて、どうして山の中で暮らす事になったの?」
下を向いて歩くエショナに答える気配は無い。
「その髪の組紐は、お母さんの家系の色なの?」
エショナは首を横に振る。右手を後ろで結んだ髪に持っていく。
「これは、父方の家系の色。母は一生、生まれた家系の色を身に着けているけど、生まれた子供は、父方の色を引き継ぐの。」
「お母さんから、この街の事を話してもらったりしたのかな。」
「ううん、昔の話はあまりしなかったから。…御免なさい、私こんな話をしてしまって。」
エショナはアルジの生い立ちを思い出して、慌てて謝る。
「良いよ。気にならないから。」
「ねえ、今度はアルジの話を聞かせて。」
2人は、馬場にカーベルを放つと、柵の外に出て、柵に寄りかかりながらカーベルの様子を眺めた。齢がいったカーベルは、自由になっても走り回る事は無く、足元の草を食みながらトボトボと歩いている。
「僕の話は何も無いよ。前にも言ったけど、記憶があるのは、もうトルディア商会で暮らしている頃だから。」
「何も覚えてないの?」
「うん。」
微かな記憶ならばある。どこか知らない闇の中で、遠くから伸びて来た大きな腕が自分を抱え上げるイメージ。いつの事なのか分からない。これもトルディア商会で暮らしている頃の記憶かも知れない。そもそも本当にあった記憶なのかも定かでない。
「アルジが首にかけている青い石、何か手掛かりが無いか、探してみないの?」
「うーん、今は未だその気はない。その内、その気になったら、探してみるかもね。」アルジはエショナに笑って見せる。「それよりも、トルディア商会で過ごした思い出が沢山あるから、寂しくないよ。…カペルはいつも僕と競争したがるけど、本当はとっても寂しがり屋なんだ。シェバリクさんは、いつもは凄く厳しいけど、誰かが熱を出すとその子の好物を覚えていて、夕飯に出してくれるんだ。」
「ねえ、カペルとはどんな事して遊んでいたの?」
アルジは、カペルとの思い出を話した。シェバリク会長の話も、本部で暮らしていた時に一緒だったいろんな人の話をした。アルジは自分がこんなにお喋りだと思ってもいなかった。内心驚きながらも、エショナに促されるまま、次々と話した。馬場ではカーベルの様子を2人で見守りながら、その後は2人ともブラシを片手に小川でカーベルを洗いながら、アルジは話し続けた。エショナはいろんな話を聞きたがった。カルーの町の様子、塩の街ザルケスタンの眺め、今までアルジが旅で見聞きして来たあらゆる事に興味を示した。求められるまま、アルジはエショナに話して聞かせた。
カーベルを支部まで連れて帰り、綺麗に水を拭き取ってやって、馬小屋に入れると、2人はメキリオとの待ち合わせ場所に戻って来た。
「随分丁寧にやっていたんだな。」
メキリオは既に待っていた。さぞかし手持無沙汰だったに違いない。
「御免、遅くなった。」
アルジはエショナと楽しくお喋りする時間が惜しくて、つい、のんびり仕事をしてしまったと自覚している。
「軸受けの交換は3日かかるそうだ。それまでここに逗留する。今日は遅くなったから、地図だけ買って帰って来よう。保存食の調達は明日でも問題ない。」
3人は徒歩で街に繰り出す。書籍を扱う店までの道すがら、アルジは今まで見た事が無い店々のショウウインドウに目を奪われた。書籍を扱う店は、他の店とは違い陰気な外観で、黴臭い空気が充満していた。
「西部からセニエスランドまでの地図が欲しいのだが。」
メキリオは店に入るなり、店主を捉まえて話し掛ける。
「西部?随分広い範囲だね。北部と接する地域は販売ができないが、良いかい。」
細い体に白髪交じりの面長な店主は、甲高い声で答える。きっと、こんな不健康な場所に1日中いるから、そんな声しか出なくなったのに違いない。
「ああ、トキ峠を越えて行くから、北部に近い方は必要ない。」
「何しろ、ネシーリアとの紛争が長引いているから、そこに近い場所は、販売が禁止されているのでね。」
今更、地図の販売を禁止したところで、デクレシアの街で地図を入手しようとするスパイが居るとは思えない。そんな事まで禁止したくなる程、政府は余裕が無くなっているのか。
店主が奥の書庫に消えて暫くすると、一抱えはある大きな冊子を持って現れた。厚みも指の関節と関節の間くらいある。大きな机の上に冊子を下ろす。バタンという音とともに、埃っぽい空気がアルジの顔を襲ってくる。
「これは、最新なんだな?」
訝し気にメキリオが店主に訊く。
「ああ、これより新しい版は無い。」
店主はページを繰り、メキリオに見せる。メキリオは、1つ1つの地図を確認する。
これがチズか。
大きな紙面に太さの異なる線がのたくっている。所々に何かの印らしき記号がちりばめられている。
「まあ良いだろ。じゃあ、これをくれ。」
地図はアルジが両腕に抱えて持ち帰った。支部に帰るとメキリオとアルジは、地図を広げて作戦を立て始めた。シャルアの支部で初めてまともな部屋割りになり、エショナだけ別の部屋で、メキリオをアルジが1つの部屋に収まった。アルジは何だか少し安心する。
「シャ…シャル…ア。シャルアって書いてある。」
トルドーの子供達は、読み書きと算数を習う。商売をやるのに絶対必要だからだ。アルジもカルーの本部で仲間達と勉強させられたから、一通りの文字は読める。
「地図の読み方も覚えないとな。」
メキリオはただ地図を眺めるアルジに、おおよそ地図の記号の意味を教える。
「なるほど、この絵は、空から大地を眺めた様に書かれているんだ。」
地図帳のページを繰るアルジはしきりに感心する。
「この地図を信じるなら」メキリオは椅子に座り、空いている椅子に両足を投げ出す。「トキ峠までの道程の3分の2はギルドのある町が点在している。これに寄って行けば、困る事は無いだろう。残りの3分の1は何も無い。峠まで荒野が広がっているだけだ。野宿を繰り返して峠を越える事になる。水が得られるか分からない。最後の村でできるだけ、水桶を満たすのを忘れるな。」
「分かった。」
アルジの返事はどこか上の空だ。
「エショナを送り届けて、デクレシアに戻ったら、直接ザルケスタンに向かう。いちいちシャルアに戻っていては時間の無駄だ。」
「うん。」
「明日は、保存食と桶の買い出しだ。」
「…それなんだけどさ。」
アルジは何か言いにくそうだ。手にした地図帳に目を落としている。
「何の話だ?」
「明日。明日の買い出しだけど、早く終わったら、買い物がしたいんだけど、良いかな。」
「買い物?何が欲しい?」
どうせ大したものじゃない。銭が手に入って、浮かれているだけだ。メキリオは高を括って、冷たい目でアルジを見ている。
「ちょっと大きい声では…」
アルジはそう言うと席を立ち、メキリオの傍に近寄ると、内緒話をする。
「お前、本気か。」
話を聞くと、メキリオはアルジの顔をまじまじと見る。アルジは頬を紅潮させて頷く。
「メキリオなら、店を知っていないかな。サニキス人がやっている店じゃないと駄目なんだ。」
メキリオは視線をテーブルに移した。テーブルの上にはさっきまでアルジが持っていた地図が開いた状態で置かれている。
「銀貨を使ってしまうぞ。」
「うん、構わないよ。」
「俺は行かない。お前がエショナと行って買ってくるんだ。」
「分かった。そうするよ。」
メキリオはもう一度、傍に立つアルジの顔を見た。アルジは真っ直ぐにメキリオを見ている。
「俺の知っている店を教えてやる。行き方を書くから、それを見て行け。明日、保存食を買うのはやめよう。午後にお前とエショナで出掛けて来ると良い。」
「ありがとう、メキリオ。」
アルジは嬉しそうに頭を下げる。メキリオは天井を見て溜息をついた。
次の日、午後になるとアルジはエショナを連れて、支部を後にした。メキリオは買った資材の点検と称して、支部の部屋に残った。エショナには、アルジの買いたい物を選ぶのに、どうしてもエショナが必要だから付いて来て、と言ってある。エショナも賑やかな街に出るのが楽しくて、アルジに質問もせずに付いて出た。
人と馬車が行き交う通りを、アルジはメモを見ながら歩く。エショナはもっとゆっくり歩いて店々を覗きたいけれど、アルジの買い物に付き合う手前、アルジのペースに合わせて歩く。
「あ、ここだ。」
群青のペンキが塗られた木造の店の前でアルジは不意に止まる。エショナは、アルジの目的の店を見遣った。同じ群青色の扉に嵌められた板ガラスや、その脇の大きなショウウインドウのガラスを通して、店の内が透けている。女性ものの服が並んでいるのが見える。
「仕立屋だよ。メキリオに教えてもらったんだ。メキリオは何でも知っているね。エショナの服を買おう。」
アルジはエショナに満面の笑みを向ける。
「え?何で?アルジの買い物じゃないの?」
エショナは半歩後ずさる。
「僕が買いたい物だよ。エショナの服が買いたいんだ。」
襲撃を生き残ったエショナには何も残っていない。自分の服の上にアルジの上着を羽織ったままだ。
「ここは、サニキス人の奥さんが経営しているんだって。エショナに合わせて仕立ててもらう時間は無いから、既成の服しか買えないけどさ。」痒くも無いのに、頭を右手で掻く。「入ろう。」
アルジは固まっているエショナの腕を取って店に誘う。それでもエショナは動かない。
「駄目だよ。そんな事してもらう必要ない。私はこれで充分。」
「そうじゃない。さっき言ったろ。僕が買いたいんだ。さ、行くよ。」
アルジは強引にエショナの手を引いて店の扉を押した。
「いらっしゃい。」
店には、40代と思しき麗人が居て、アルジ達が店に入るなり声を掛ける。白い地に赤と青の刺繍が施されたシャツを着て、黒い細身のズボンを穿いている。黒い紐で縛ったウエストの細さが際立つ。黒い髪は後ろでお団子にまとめ、黒を基調に青と赤が織り込まれた組紐がお団子から垂れている。
「あの、エショ…彼女…じゃなくて、この人に合う服が一揃え欲しいです。」
アルジは、エショナを前に押し出す。
「エショナ、上着を取って。」
アルジはエショナに上着を取るように促す。
「あら、可愛らしいご夫婦だこと。」
エショナがフードの付いた上着を脱ぐと、婦人は2人を交互に見て言う。
「いえ、そうじゃありません。」
アルジは手を振って慌てて否定する。エショナは俯いて固まったままだ。
「あの、僕、サニキスの伝統衣装とか知らないし、どんな服が良いのか、よく分からないので、すいませんが、選んであげてもらえますか?」
「はいはい。任せて下さい。素敵な奥様に似合う服を選びましょうね。」
婦人はアルジを見て、大きく2回頷くと、エショナの手を取る。
「さあ、こっちに沢山ありますから、好きな物を選んで下さい。気に入るまで、何度でも着て良いですよ。」
「あ、僕、終わるまで外で待っています。決まったら、呼んで下さい。」
エショナが服を脱ぐと判って、彼女の手から上着を取り上げると、アルジは慌てて店の外に出た。
店の外でアルジは落ち着かなかった。居場所が無い。慌てて出てきてしまったが、ベンチがある訳でなく、人が通る街路に突っ立っているのでは、不審人物に思われないか気になってしまう。かと言って、店の中では丁度エショナが着替えているかも知れず、店に戻る事もままならない。えらく長い時間に思えた。間口が狭い仕立屋の店前を8歩歩いては振り返り、また8歩歩いては振り返って、何とか、通行人に溶け込もうとした。
「アルジ。」
死にそうなくらい長い時間が過ぎたと思った頃、店の扉からエショナが顔だけ出してアルジを呼んだ。アルジは救われた気持ちになって店の中に入る。
目の前にエショナが立っていた。空色の地にオレンジの刺繍が襟と袖に施されている。白い貝を使ったボタンが輝いている。ズボンは前と同じ黒だが、婦人がはいている物と同じ、細身の物だ。髪もくしけずり、結い直してもらったのか綺麗に整えられ、ショウウインドウからの日射しで輝いている。
どう?
エショナは口にしないが、不安そうな目がそう訴えている。
「オレンジは情熱…」
アルジの口から思わず、自分でも不思議な言葉が漏れた。
「流石サニキスの事を良くお分かりで。お綺麗で見違えましたか?」
エショナの後ろから、婦人が顔を覗かせる。アルジが、こんなに他人を邪魔だと意識したのは初めてだ。
「はい、これで。これを下さい!」
最後には叫んでいた。
「御免なさい。」
アルジの様子を見てエショナは目を伏せる。小さな声が消えてしまいそうだ。
輝くようなエショナの姿に舞い上がったアルジは、『御免なさい』がエショナの口癖だとしか考えなかった。




