それぞれの森
話は少し前に戻る。荒れた台地で野営をしてエショナが消えた朝、メキリオに突き放されたアルジは地面に尻餅をついたまま考えた。
何がいけなかった?何故エショナを好きになってしまった?こんなに彼女を困らせると判っていたら、自分の気持ちを打ち明けようとしなかったろう。今までの関係のまま、セニエスランドまで送って、そして笑顔で手を振って…。本当にそうか?そんな事ができたのか?エショナが向こうで待っている夫の元に帰ると分かっても笑顔で送れたのか?
違う。そうじゃない。結局、自分の事ばかりじゃないか。もっと大人になりたい。自分はガキだ。自分の大事な人を守る事も、相手の気持ちに寄り添う事もできない。もっと大人になりたい。エショナを笑顔にできるような強い大人に。
目の前の自分の荷物から、エショナが昨日まで着ていた上着が覗いている。アルジは立ち上がってノソノソと近づき、上着を取り上げる。暫くそれを見つめる。これに袖を通しフードを被ったエショナの姿が目に浮かぶ。アルジは上着に顔をうずめて大きく息を吸う。微かなエショナの匂いが鼻腔を満たす。
エショナ。どうすれば良い?自分の望みは、エショナが幸せで、いつも笑顔でいて欲しいだけなんだ。
『お前が今やる事はそんな事か』
メキリオの言葉が耳の奥で反響している。フードに隠れて泣いていたエショナの姿が思い出される。
何をすべきか?今?どうすれば良いか?今?今!そんなの…そんなの決まっているじゃないか。メキリオならきっと、迷わず行動している。くそ!なんて馬鹿なんだ。強くならなくちゃ。強い男に。
アルジは顔を上げる。向こうでメキリオが出発の支度をしている。
出掛ける?駄目だ。エショナと一緒じゃなくちゃ意味が無い。
アルジは足を踏み出す。メキリオに向かって。
もう止まらない。メキリオが何を言っても、諦めたりしない。
「メキリオ、カーベルを貸して。エショナを探して連れ戻す。」
そう、固く心に決めた筈だった。後悔などしないつもりだった。なのに、岩場でエショナを助け上げた時、セニエスランドの小川の岸辺でエショナの瞳を間近に見た時、固い筈の意思はいとも簡単に吹き飛び、湧き上がって来る感情は、自分の思いのままに行動しろと激しく急き立てる。全身が震える。抑えても、抑えても、止まらない。エショナに悟られない様に、メキリオに見透かされない様に、必死に平静を装う。自分の意思など何の頼りにもならない。激しくエショナを求める気持ちに呑み込まれていく。
最後の夜、宿の寝床の中で背中を丸め、アルジははっきりと自覚した。
ジルが見つからなければ良い。ジルが見つからず、探すのを諦めてしょげかえったエショナが、自分達とデクレシアに戻ってくれれば。両親は村で死んでしまった。エショナが来なければ、どこかで家族を待っている筈のジルは、きっとみんな死んでしまったと思って諦めるだろう。
レスクウェルの街中を歩きながら、アルジはそう願い続けた。エショナの為じゃない、自分の為に。
「ジル!」
アルジの望みなど知りもせず、エショナがアルジの知らない男に向かって駆け出して行く。アルジの存在など忘れてしまったかの様に、振り返りもせず真っ直ぐに駆けて行く。2人は出会い、互いの存在を確かめ合う。
「もう、行こう。」
ジルに抱きしめられるエショナの姿を見て、アルジはメキリオに言う。
「良いのか?」
抑揚の無い言葉だ。
「良いよ。早く。」
アルジはエショナから顔をそむけると、メキリオの脇腹を押す。
2人は黙って歩いた。方向はメキリオに任せて、アルジは自分の足元の地面だけを見つめて。何処をどう通って馬車まで戻ったか覚えていない。そんな事はどうでも良い。いつの間にか馬車に乗り込み、気が付いた時は、元来た坂道を峠の検問所に向けて登っている。
守るものを失って、もう馬車に幌は要らない。幌を外した荷台の隅でアルジは膝を抱えている。御者席で手綱を握るメキリオには、アルジにかける言葉など無い。アルジの気持ちが理解できたとして、彼にできる事は何もない。新しい出来事による上書きが、或いは、降り続く時間の堆積が、アルジの今の気持ちを覆い隠してしまうのを、ただ、ただ只管に待つだけだ。
うねうねとのたうつ様に斜面を登って行く道を辿り、トキ峠を越えてメキリオとアルジは自分達の生活に戻って行く。
アルジはこの峠を忘れない。峠の向こうにある小川も町も忘れない。遠くこの地に焦がれながら、2度と近付く事も無い。彼の目の前をゆっくりと過ぎて行く大小の岩の群れを眩しそうな目で見つめながら、両手で膝を抱え、アルジは自身の内側で激しく出口を求める何ものかと必死で戦い耐えている。彼はいま森の中にいる。
御者席のメキリオは、その手に手綱を絡めて、くたびれきった麦わら帽子を目深に被る。白味が強い岩に跳ね返る日射しを眩しそうにしながら、うねる坂道の先の虚空をぼんやりと眺めている。彼もまた森の中にいる。
了




