第8話「評価」
蜂の翌日から、総務での私の位置が、少し変わった。
「ムンムン、これ高い棚お願い」
「ムンムン、窓の鍵確認して」
「ムンムン、また何か飛んできたら頼む」
名前の前に、軽い信頼が乗るようになった。ムンムン呼びは、もう訂正しても戻る。私は『月村、です』と一度だけ言ってから、言われたことを正確にこなすようにした。高い棚も、窓の鍵も、剣より軽い。なのに、頼まれるたびに、昨日の称賛の余韻が顔の奥で熱くなる。恥ずかしい。嫌いではない。
田村係長が、午前の終わりに寄ってきた。
「ムンムン、昨日は助かった。係長としての威厳は窓と一緒に飛んでいったけど」
『威厳は、窓からは入りません』
「……今の、ジョークで返した?」
『いいえ。事実です』
田村係長は胸に手を当て、小さく倒れる演技をした。誰も拾わない。私は真面目に待った。またスベったらしい。
「ムンムンは、褒めても調子に乗らないし、ボケても乗らない。逆にすごい」
『乗らなくて、いいのですか』
「いい、いい。そのままで。ただし、報連相だけは柔らかく頼む」
『承知しました』
「そこ」
『……わかりました』
田村係長は親指を立てて去った。私は「わかりました」の感触を、口の中で一度繰り返した。柔らかい返事は、まだ練習中だ。
昼休み、営業の鈴木陽太さんが、総務の入り口に現れた。
「ムンムンさん、昨日の蜂、聞きました。すごいですね」
『必要なことをしただけです』
「僕、虫だめなんですよ。だから余計に。あ、これ、お礼ってほどじゃないですけど」
小さな菓子の袋を出される。受け取るべきか、断るべきか、判断に一秒置いた。カイシャでは、こうしたやり取りがあるらしい。私は『ありがとう、ございます』と受け取り、頭を下げた。陽太さんは顔を赤くして、「また何かあったら」とだけ残して走るように去った。
私は菓子の袋を見て、席に戻った。
お礼。称賛。ムンムン。どれも、以前の生活には薄かった。
退勤前、白嶺様に短く会った。
「また評判だな。蜂のムンムン、らしい」
『……加藤さん』
「呼び方はいい。無理するなよ。身体が先に動くのは、お前の長所だが」
『はい』
白嶺様はそれ以上何も言わず、先に歩いた。見守る目だった。私は総務の席で、陽太さんにもらった菓子をカバンに入れた。評価される日が、続いている。恥ずかしい。なのに、明日も席に座りたい、と思っていた。




