第7話「蜂」
その日、私は備品の発注で、別フロアへ書類を届けに行っていた。
戻ってきたとき、総務部の空気がおかしかった。椅子が動き、誰かが小さく悲鳴を上げ、田村係長が窓のそばで両手を広げている。
「動くな、刺激するな——いや、でも開けたの俺なんだけど」
『……何が、あったのですか』
「ムンムン! 蜂だ、蜂が二匹。窓開けたら入ってきて」
蜂。
虫の一種だということは知っている。刺す。痛い。それ以上の知識は、今の私には必要なかった。二匹は、天井近くと、コピー機の上を飛んでいる。総務の人たちは、書類で顔を隠したり、机の下を覗いたりしている。パニック、という状態らしい。
私は、壁に立てかけてあったほうきを手に取った。
『離れないでください。動かないでください』
「ムンムン、大丈夫? 刺されるよ」
大丈夫かどうかは、考えていない。軌道が見える。速さも、高さもある。剣ではない。ほうきだ。それでも、身体が先に動いた。一歩目で距離を測り、二歩目で角度を合わせ、短い払いを二度入れた。一匹目が床に落ちる。二匹目が窓の方へ逸れたところを、同じ軌道で止める。音は、ほとんどしない。
田村係長が、窓を急いで閉めた。
「……今、なにをした」
『蜂を、外に出さないようにしました。二匹です』
総務部に、短い沈黙が落ちたあと、ざわつきが返ってきた。すごい、早い、忍者、ムンムン最強——という言葉が、あちこちから聞こえる。私はほうきを元の場所に戻した。称賛、らしい。受け取り方が、わからない。
「ムンムン、趣味で武道とかやってる?」
『……以前、身体を動かすことが多かっただけです』
「いや、多かったレベルじゃないでしょ。係長、窓、次から気をつけてくださいね」
田村係長は「俺のせい」と何度も呟きながら、蜂の処理を手伝い始めた。私は自分の席に座り、キーボードに手を置く。手が、少しだけ熱い。
その様子を、廊下の入り口近くから見ていた人がいた。
佐藤美咲さんだ。営業企画の人で、白嶺様の部署にいる。目が合った。美咲さんは、驚いた顔のあと、小さく手を挙げた。称賛というより、安堵に近い顔だった。私の過去の輪郭を知っている人の顔だ。私は軽く頭を下げて、画面に戻った。
退勤前、白嶺様に廊下で会った。
「総務が騒がしかったな。蜂だって?」
『二匹、入りました。ほうきで対応しました』
「……ほうき」
『はい』
白嶺様は、短く笑った。今回は、からかう笑に近い。
「ムンムン、活躍したらしいな。美咲も見たらしい」
『必要なことをしただけです』
「そうか。怪我はなし、な」
『はい。問題ありません』
「なら、いい。また窓には気をつけろ」
『はい』
家に帰っても、蜂の話は短く済んだ。
彩華様を抱きながら、私は天井を見た。今までは、剣を振るのが当たり前だった。振って、止めて、守る。それが評価されることも、喜ばれることも、ほとんど考えてこなかった。だが今日は、ほうき一丁で、周りの人が嬉しそうに褒めてくれた。すごい、早い、助かった——その声が、まだ耳の奥に残っている。
恥ずかしい。
顔が熱くなるような、落ち着かない感覚がある。なのに、嫌ではなかった。心地よい、と言っていいのかもしれない。自分の動きが、誰かの安心になった。その事実が、胸の浅いところに、温かく残っていた。
カイシャでは、蜂も、パニックも、称賛も起きる。
ムンムンと呼ばれても、まだ慣れない。
それでも今日は、席に座るための一日に、小さな光が混ざった。
鍵を確認しながら、私はそれだけを、静かに確かめた。




