第6話「夜の報告」
家に帰ると、白嶺様はすでにソファに沈んでいた。
スーツのままではない。私服に着替えて、髪を下ろしている。会社の主任・加藤と、家の白嶺様は、同じ人なのに印象が違う。彩華様は先に寝たらしく、部屋の奥が静かだ。私は靴を揃え、鍵を確認してから、リビングの端に座った。
「今日は、どうだった」
『総務部の仕事を、教わりました。縁の下、という説明でした』
「縁の下、か」
『備品の数を数えました。キーボードで表にしました。田村係長のジョークは、またどの部分かわかりませんでした』
白嶺様は目を閉じたまま、短く「そうか」とだけ言った。茶が、テーブルにある。私のは、すでに冷えている。それでも、手で包んだ。
カイシャに行き始めて、まだ数日しか経っていない。
なのに、昼間の自分と、夜の自分が、少しずつ分かれていく感覚がある。昼は月村無月で、ムンムンと呼ばれ、係長に「もう少し柔らかく」と言われ、数字を正確に書く。夜は、白嶺様の傍で、彩華様の寝息を確認する。どちらも自分なのに、昼の自分の方が、まだ借り物のように感じる。
『白嶺様。対等、とは、こういうことですか』
「どういうことだ」
『カイシャに行き、席に座り、自分の名字で呼ばれること、です』
白嶺様は目を開けた。天井ではなく、私の方を見ている。静かで、大きな目だ。怒るための目ではない。私が何を言っても、すぐには否定しない目だ。その視線の中にいると、昼間の硬い背中が、少しだけゆるむ。
「近い、けど、全部じゃない。お前が、自分の足で昼を終わらせて、ここに帰ってくる。それが続いていけばいい」
『……続きます。白嶺様が、働けと言ったので』
「それだけが理由か」
答えに詰まった。
働けと言われたから、行った。それだけではない気がする。席に座ったあと、備品の数が合ったときの、小さな静けさ。ムンムンと呼ばれて戸惑いながらも、名前を訂正できたこと。白嶺様に『加藤さん』と呼べたこと。どれも、以前の自分にはなかった。
自分の人生の歩み方は、まだ知らない。
ただ、歩み始めていることだけは、否定できなかった。
『……わかりません。ただ、明日も、行きます』
白嶺様は、短く笑った。からかうときとは違う。見守るときの、薄い笑いだ。大きくて、温かい。私はその温度を、剣の感触よりもしばらく長く、胸に残した。
「それでいい。ムンムン」
『白嶺様』
「加藤さん、だ。家でも練習しろ」
私は茶を置いて、立ち上がった。彩華様の部屋の方を確認し、窓の鍵をもう一度見る。白嶺様はソファに戻っている。だらしない。それでも、私は命をかけて守ると決めた人だ。カイシャで主任と呼ばれる人でもある。
夜の報告は、それだけで終わった。
言葉にしきれない心情は、白嶺様のあの視線のまま、胸の奥に残った。
明日も、キーボードの前に座る。
それでいい、と白嶺様は言った。私は、その言葉を、今夜の鍵のようにしまってから、眠ることにした。




