第4話「ムンムン」
午後、総務の若い社員が、私の席の後ろで話していた。
「ねえ、新人の名字、月村無月だって」
「月が二つ? ムーン・ムーンじゃん」
「ムンムンだ」
笑い声がした。私は画面から顔を上げなかった。自分の話だと気づくまでに、少し時間がかかった。ムンムン——。月村無月の、短縮らしい。意味は理解した。なぜそれを呼ぶのかは、わからない。
夕方、給湯室で水を汲んでいると、別の社員に声をかけられた。
「ムンムンさん、コップそこですよ」
『……月村、です』
「あ、ごめん。あだ名、もう定着しそう」
私は水を入れて席に戻った。ムンムン。キーボードの次に、覚えなければならない音が増えた気がした。
退勤前、廊下で白嶺様とすれ違った。
白い髪は、会社では「染めた」ものとして通っている。主任の名札をつけている。家の白嶺様とは、背筋の伸ばし方が違う。私は自然と、足を止めた。
『白嶺様——』
「加藤さん、だ」
短く、はっきりと訂正される。
『……加藤さん』
「何回言えば覚える。会社では加藤さん。家でも、そろそろ練習した方がいい」
『家では、白嶺様、で』
白嶺様は、小さく息を吐いた。呆れている顔だ。それでも、目の奥は怒っていない。むしろ、どこか楽しそうに見える。私には、その区別がまだ難しい。
「今日、どうだった」
『キーボードで、文字を打ちました。田村係長のジョークが、どの部分かわかりませんでした』
「……そうか。まあ、続けろ」
白嶺様はそれだけ言って、先に歩いていく。私は後ろから、名札の「主任 加藤」の文字を見た。命をかけて守ると決めた人が、カイシャでは主任と呼ばれている。私は月村で、ムンムンと呼ばれ始めている。
夜、家に帰ると、彩華様が手を伸ばした。私は抱き上げ、白嶺様に短く報告した。
『会社で、ムンムンと呼ばれました。月が二つあるからだそうです』
白嶺様は、ソファに沈んだまま、短く笑った。
「いいじゃない。ムンムン」
『白嶺様まで、言わないでください』
「加藤さん、だ。それから——ムンムン」
私は彩華様を抱いたまま、少しだけ顔を熱くした。カイシャでも、家でも、新しい呼び名が増えている。自分の人生の歩み方は、まだわからない。ただ、今日も席には座った。キーボードも、触った。
ムンムン、と呼ばれても、戻ってくる場所は、ここにある。




