第3話「キーボード」
席に座ってから、しばらく、私は何もできなかった。
前にあるのは、白い枠の板と、光る四角い画面だ。板の上には、小さく文字が並んだボタンがたくさんついている。キーボード——という名前は知っている。家で白嶺様が使っていた。指で叩くと、画面の中に文字が出る。それだけは見たことがある。だが、カイシャでは、それを使って何をするのかがわからない。
隣の席の人が、こちらを見た。
「月村さん、初日から緊張してるね。田村係長、来ますよ」
立ち上がるべきか、座ったままでいいのか、判断がつかないうちに、一人の男が近づいてきた。三十代前半くらい。名刺を出される。田村剛、と書いてある。総務部の係長で、私の直属の上司らしい。
「月村さん、よろしく。はじめは覚えること多いと思うけど、なんでも聞いてね。硬いこと言わずに、気楽にいこう」
『はい。承知しました』
「……うん、その返事、もう少し柔らかくてもいいよ? たとえば『わかりました』とか」
『わかりました』
田村係長は、一瞬だけ黙った。何か言うつもりだったのが、言葉を失った顔をしている。私は姿勢を正したまま待った。
「……まあ、いい。まずはパソコンの基本から。キーボード、触ったことある?」
『名前は知っています。白嶺様が——いえ、家で使っているのを見たことがあります』
「家で? ……あ、同居家族とか? まあいいや。じゃあ、パスワード入れて画面開いてみようか。ほら、このキーを——」
私は指示された通りに指を動かす。画面が変わる。田村係長が「お、意外と早い」と言った。早いのではない。指示された位置を、正確に押しただけだ。剣の軌道を覚えるのと、似ている気がした。似ているが、違う。こちらは誰も斬らない。
「月村さん、笑顔なくてもいいけど、たまに息抜こうね。係長のジョークも、そのうちわかるようになるよ」
『ジョーク、ですか』
「うん。今のは、半分ジョーク」
『……どの部分が、ですか』
田村係長は、また黙った。遠くで誰かが咳をした。私は真面目に待った。答えは、すぐには返ってこなかった。
「……まあ、徐々にね。徐々に」
田村係長はそう言って、自分の席に戻っていった。背中が、少しだけ落ち込んでいるように見えた。私はキーボードの上に手を置き、画面の文字を見つめた。
カイシャでは、これを使って仕事をするらしい。
仕事の中身は、まだわからない。
ただ、一つわかった。
田村係長の言う「ジョーク」は、私には届きにくいらしい。




