第2話「月村」
朝、白嶺様が書類のようなものをテーブルに置いた。
「働け。ここは安全になった。昼の食い扶持は、自分で稼げ」
私は湯飲みを持ったまま、固まった。
『……は?』
「うちの会社に欠員が出る。紹介する。断りは認めない」
白嶺様は、いつもより少しだけ起き上がった姿勢で続ける。家ではソファに沈んでいる人なのに、こういうときは早い。
「名字だ。今日から月村でいい」
『……月村』
「無月の月を取った。シンプルだろ」
紙を見る。月村無月——と、すでに印字されている。
『月が、二つあります』
「気がついたか。気に入らないなら自分で考えろ。ただし、今日の手続きには間に合わせろ」
私は名字の文字を、もう一度目で追った。白嶺様はお茶を一口飲んでから、低い声で言った。
「契約は、ここで終わりだ。取引も、役割も、今日まで。これからは対等だ。お前の人生を、自分で歩け」
『……対等』
その言葉の意味を、私はまだ測りきれない。それでも、頷いた。白嶺様が「働け」「稼げ」と言うなら、やる。彩華様が「あー」と声を上げる。私は習慣で、その頭を撫でた。
『わかりました。月村、で。人生も、自分で』
「よし。服は普通のでいい。刀は置いていけ」
刀、という言葉だけが、胸の奥に小さく残る。詳しくは考えない。カイシャという場所に、刀は持っていかないらしい。それだけは理解した。
初出勤の朝、私はスーツに袖を通した。
白嶺様の古い服を借りたものだ。肩が少し余る。白嶺様は背が高い。私はその差を、鏡の前で確認してから家を出た。白嶺様とは別々に向かう。同じカイシャでも、入り方が違うらしい。
受付で名前を言った。
『月村無月、です』
「はい、月村さん。総務部ですね。ご案内します」
総務部——。初めて聞く単語だった。紙に書いてある。私はそれを覚えようとして、案内されるままフロアへ移動した。人が多い。机が多い。画面が光っている。カイシャとは、こういう場所らしい。
廊下で、一人の女の人と目が合った。
佐藤美咲だ。白嶺様の会社の人で、以前、家に来たことがある。私の事情の一部を、彼女は知っている。会釈はしなかった。彼女もしなかった。ただ、目だけで、短いやり取りをした気がした。
——加藤さんを、よろしく。
——そちらも、頼む。
目を逸らして、私は案内された席に座った。
画面を開く。何をすればいいかは、まだわからない。隣の席の人が笑っている。遠い席で誰かが電話をしている。私は背筋を伸ばして、キーボードの上に手を置いた。
働け、と言われた。
食い扶持は自分で稼げ、と言われた。
カイシャに来て、席に座った。
それだけは、確かだった。




