第39話「隣」
白嶺様が、ある夜、ソファに沈んだまま言った。
「引っ越せ。隣の部屋が空く。そこにしろ」
茶のカップが傾いている。だらしなさのままの、はっきりした命令だ。私は鍵の確認を中断して振り返った。
『彩華様を、白嶺様を、お守りしなくては、なりません。距離が、空くと』
「空かない。壁一枚だ。お前の守るものは、もう彩華でも私でもない。一番に守るのは、自分の想いだ。席に座った足で、恋も、会いたいも、自分で持て」
『……私の、想い』
「拒否するなら理由を出せ。『白嶺様が』は却下する」
言葉に詰まった。働け、対等だ、行け、と続いてきた線の、また先にある。壁一枚の隣なら、鍵の音も、何かあれば届く。それでも「同じ家」ではない。自分の名前の下に、自分の玄関ができる。通帳の数字が、また別の形になる。
『……わかりました。隣、に、します』
「よし。手続きは一緒にやる。荷物は少なくていい」
彩華様が起きていて、私の袖を掴んだ。白嶺様は「いなくなるわけではない」と短く言い、彩華様の頭を適当に撫でた。適当なのに、力はこもっている。
引っ越しは、静かに終わった。
荷物は本当に少ない。私服と、スーツと、自分で選んだスカートと、通帳と、スマホ。剣と装束は必要なものだけ。新しい部屋の鍵を回す感触は、白嶺様の家の鍵と似ていて、少しだけ軽い。壁の向こうに、白嶺様のだらしなさと彩華様の声がある。守る対象は、一番近くの隣にいる。なのに、今夜から寝る床が違う。
初日の夜、私はまた白嶺様のドアを叩いた。
『報告に、来ました』
「来るな、とは言っていない。日課にするな、とも言っていない。好きにしろ」
『では、日課に、します』
白嶺様は呆れた顔のまま茶を出し、彩華様が嬉しそうに飛んでくる。なついている。私も、膝に乗せる。壁一枚の向こうの生活が、すぐ隣の報告でつながる。一歩前進だと、自分でもわかっている。同じ屋根の完全な影ではない。自分の玄関を閉めてから、隣の玄関を開ける。
『陽太さんとも、続いています。会いたい、も、自分の文です』
「知ってる。隣でも、お前の人生は続く。私は茶を飲んでいる」
『だらしなく、していてください。何かあれば、壁を、叩きます』
「……あの無月に、そこまで言われるとはな」
白嶺様の口元が緩む。見守りは、命令のあとも消えない。私は彩華様を白嶺様に預けて自分の部屋に戻り、新しい鍵を内側から閉めた。
守るものは、白嶺様の言う通り、自分の想いに一番を置いた。
それでも日課のように隣へ行き、報告し、彩華様に懐かれる。
影のままで終わらなかった人生が、壁一枚分だけ、自分の側にせり出した夜だった。




