第35話「下書き」
昼休み、給湯室が混んでいた。
玲奈さんが「ムンムン、お茶碗貸して」と言い、美咲さんが「それ私のコップです」と返し、玲奈さんが「じゃあムンムンの」と方向を変える。私は自分のコップを差し出し、『洗って、返してください』とだけ言った。玲奈さんは「堅い」と笑い、美咲さんは「玲奈さん、ちゃんと洗ってくださいね」と念を押す。ドタバタ、という状態らしい。私はその輪の端に立っているだけで、なぜか輪から外されない。
「そういえばムンムン、陽太とはどうなの」
玲奈さんがいきなり本筋に来る。美咲さんが「急です」と止める前に、私は事実だけ返した。
『また、食事しています。歩きも、しました』
「お、進んでる。次はムンムンから誘ってみれば」
『……自分から、ですか』
「相手ばかりにさせるなよ。平等。つながりの月間、覚えてる?」
冗談のようで、胸に残った。美咲さんが「無理しなくていいですよ」とフォローする。私は『持ち帰ります』と答え、コップを受け取って席に戻った。自分から誘う。二回目は陽太さんからだった。一回目も陽太さんからだった。歩いたのは私からだった。食事の誘いを自分の口で出すのは、また別の扉だ。
午後、備品の発注をしながら、スマホのメモを開いた。
『よかったら、また食事に』
『日程が空いていれば』
『鈴木さん、今度は私から』
下書きが増える。消す。また書く。顔が熱い。田村係長が「ムンムン、耳赤いぞ。空調か」と聞き、私は『二十六度です。問題ありません』と返した。係長は「ならいい」と去り、下書きは誰にも見られない。
陽太さんから業務のチャットが来た。事務的な本文だけだ。返信して、その下に誘いの文を足そうとして、また消す。送信はできない。想像もしていなかった「少し歩きませんか」より、こちらが重い。恋と名付けられた二字が、手順を要求してくる。
退勤前、白嶺様とすれ違った。
『加藤さん。自分から、誘う、という話が、出ました』
「中村か」
『はい。下書きは、できています。送れません』
「送れ。完璧を待つな。ムンムンの文でいい」
『……はい』
家では、白嶺様がソファに沈み、彩華が私の髪を引っ張る。だらしなさの横で、私はスマホの下書きをまた開いた。美咲さんから「先ほどのは冗談でも、ムンムンさんの気持ちが先なら大丈夫です」と短いメッセージが来ている。玲奈さんからは「挑戦しろ」とだけ。
送信は、今夜はしなかった。
下書きのまま、鍵を確認した。
自分から誘う、の扉の前で、影ではない足が止まっている。
それでも扉は、もう見えている。




