第34話「二字」
翌営業日、キーボードの上で指が一度止まった。
恋。
白嶺様が名付けた二字が、まだ胸の浅いところにある。業務の表には書けない。なのに備品の数字を合わせている途中でも、夜の道の沈黙と陽太さんの「残ってくれるのが嬉しい」が重なる。田村係長が「ムンムン、窓は閉めてある」と事実を確認し、私は『はい』と返した。係長には食事の続きは話していない。
陽太さんとは廊下で会った。
「ムンムンさん。昨日は、歩いてくれてありがとうございました」
『こちらこそ、です』
「また、連絡します」
『はい』
短い。社内ではそれで十分だ。耳が熱いのはお互い様で、玲奈さんが遠くからこちらを見て何も言わずに笑った。自分から話すほどではない。美咲さんには給湯室で、必要な分だけ伝えた。
『鈴木さんと、また食事に行きました。そのあと、歩きました。白嶺——加藤さんに、気持ちの名前を、教えてもらいました』
美咲さんは目を丸くして、すぐに優しくする。
「……よかった。急がなくていいですよ。ムンムンさんの速さで」
『はい。まだ、一覧の途中です』
同居のことも、二字の詳しい中身も、それ以上は出さない。美咲さんは過去の輪郭を知っている人のまま、茶を持って先に出た。私はコップの水を飲んで、恋という音を心の中で一度だけ繰り返した。逃げない。まだ知りたい。白嶺様の言葉が、そのまま残っている。
午後、陽太さんから業務のチャットが来た。本文は事務的で、末尾にだけ「昨日の夜風、冷たかったですね」とある。私は『はい。それでも、歩けてよかったです』と返した。送信のあと、顔が熱い。表計算のセルが、少しだけぼやける。すぐに焦点を戻す。カイシャでは月村無月だ。ムンムンだ。恋をしていても、数字は合わせる。
退勤前、白嶺様とすれ違った。
『加藤さん』
「顔が、赤いぞ。」
『……考えていると、こうなってしまいます。』
「それでいい」
主任の顔のまま白嶺様は去り、私は総務の席で連絡先一覧を見た。陽太さんの名前が、昨日より近く見える。錯覚だとわかっている。それでも消さない。
夜、家では白嶺様がソファに沈み、彩華が私の膝で玩具を振っていた。だらしなさは健在で、茶のカップは傾きかけたまま白嶺様の指にかかっている。私はカップを直してから、短く言った。
『社内でも、残りました。恋、という二字が』
「無理に飾るな。お前の速さでいい」
『美咲さんには、名前を教えてもらったことだけ、伝えました』
「佐藤さんなら、いい。他は、お前が決めろ」
『はい』
白嶺様はあくびをして横になる。見守りは、だらしなさの中に埋まっている。私は彩華を風呂に入れ、鍵を確認し、スマホの通知を見た。陽太さんから追加はない。それで安心でもあり、少しだけ物足りない。恋の初期の、測れない温度らしい。
二字は、まだ新しい。
それでも今夜は、影の一覧ではなく自分の一覧の方に、その欄を残したまま眠ることにした。




