第33話「少し」
店内の会話は、また上手くつながらなかった。
陽太さんが話題を出して、私が短く返して、沈黙が落ちる。一度目より足の置き場はあるのに、言葉の置き場だけが狭い。楽しいのに、もどかしい。楽しかったと言えた前回の続きが、今夜は喉の奥で止まっている気がした。料理は熱くて美味しい。会計の数字も問題ない。なのに終電を気にするには早いのに、空気が、早くも解散の形を取り始めていた。
店を出る。
「今日も、ありがとうございました。」
『こちらこそありがとうございました。』
いつもの答えが先に出る。陽太さんが小さく頷いて、分かれ道の方を向きかけた。その背中を見て、私の口が先に動いた。
『少し、歩きませんか』
自分の声だった。
想像もしていなかった。持ち帰るとか日程を相談するとか、そういう手順の外の言葉だ。陽太さんが立ち止まって目を丸くする。私も、自分が何を言ったのかで胸がざわついた。もっと話したい。楽しいのもどかしさを、このまま駅で切りたくない。それを何と呼ぶのかはわからない。名前のついていない感覚が、足元から上がってくる。
「……はい。ぜひ」
陽太さんの声が、少し上ずっていた。私たちは駅とは反対の、夜の道をゆっくり歩いた。
『私は、今まで自由に生きてこなかった、と思います』
唐突だった。それでも、話せる範囲だけを選んだ。影も分家も、白嶺様の名も出さない。
『自分で選ぶ、という感覚が薄かった。会社に入って、お仕事をいただいて、席に座るようになってから、少しずつ増えた。食事も、今日のような歩き方も、以前の私にはなかった』
陽太さんは途中で何か言いかけて、やめて、最後まで聞いた。アドバイスを急がない。ただ隣を歩く。
「それでも、ムンムンさんはここにいます。僕は、それがすごいと思います。うまく話せなくても、こうして残ってくれるのが、嬉しいです」
『……残って、みました。自分でも、驚いています』
夜風が冷たい。胸元は開いていない服なのに、顔が熱い。もどかしさは消えていない。なのに、店の中より言葉が少しだけ長い。新しい感覚の芽が、名前を欲しがっている。私はそれを、今夜はまだ自分で付けられなかった。
分かれ際、陽太さんは深めに頭を下げた。
「また、連絡していいですか」
『はい。お受けします』
持ち帰ると言わなかった。二回目のその場の続きが、歩いた分だけ残った。
家に帰ると、白嶺様はソファに沈んでいた。だらしなさのまま、茶だけが新しい。彩華はもう寝ている。私は鍵を確認してから、同じ部屋の端に座った。
『歩きました。食事のあと、私が誘いました。自分でも、想像していませんでした』
「そうか」
『もっと話したかった、のだと思います。楽しいのもどかしさが、残っていて。これが何なのか、わかりません』
白嶺様は目を開けた。からかう目ではない。見守り側の、静かな目だ。
「それが、恋だ」
短い。多い説明はない。それでも、胸の奥のざわつきが、その二字に吸い寄せられる。
『恋』
「好きの手前かもしれない。それでも、今のお前が抱えているのは、そういう種類だ。無理に名前を飾らなくていい。ただし、逃げると言うなら理由を持て」
『……逃げません。まだ、知りたいです』
「なら、続けろ」
白嶺様はまた目を細めて茶を飲んだ。私はスマホの画面で陽太さんの名前を一度だけ見た。影として生きてきた一覧にはなかった二字が、今夜、白嶺様の口から渡された。
感謝は、また別の形で残っている。
恋、という言葉をカバンの中の通帳の隣に置いて、私は静かに鍵の感触を確かめた。




