第32話「朝」
デートの朝、彩華はまだ眠っていた。
白嶺様はソファに横になったまま片目だけを開けていて、私服の襟も結んでいない髪もいつものだらしなさのままだった。私はもう一式の服に袖を通し鏡の前で肩の線を確認する。サイズは合っている。胸元は開いていない。白嶺様が選んだ、動ける方の一式だ。
「行ってこい」
『はい』
「遅れたらメッセージしろ。殺気は出すな」
『食事に殺気は不要です』
白嶺様は短く鼻で笑ってまた目を閉じた。私は彩華の部屋を一度だけ覗き鍵を確認して家を出る。駅までの道は休日の朝の明るさで、カイシャの席は今日はない。カバンの中にはスマホと、白嶺様に渡さず持っている自分の食い扶持の残りがある。
歩きながら、胸の奥がざわついた。
影として生まれ影として生きてきた。分家の端で支える側に回り守る対象だけを見てきた。恋など仲間など自分の人生の歩み方など考えたこともなかった。カイシャという言葉の意味すら最初はわからなかった。
それが今は、自分の名前で外に出ている。
席に座る日々の先に、二人で食事に向かう朝がある。命じられたから動いた部分も大きい。それでも歩き出している足は自分のものだ。白嶺様が「働け」「対等だ」「行け」と言わなければ、この朝はなかった。感謝は礼の言葉だけでは足りない気がする。今の私が外に出られていること自体が、白嶺様の見守りとだらしなさの横で続いた結果だ。
駅の改札を出る。待ち合わせは駅前だ。陽太さんはまだ見えない。私は時間より少し早く着いてしまう側だとわかっている。スマホの画面に、いくつかの名前が並んでいる。影の一覧にはなかった名前だ。
胸のざわつきは緊張でもあり喜びの手前でもある。
今日は二回目の二人だ。会話はまたつながらないかもしれない。それでも楽しかったと言える朝の続きを、私は自分のサイズの服で迎えに来ている。
白嶺様ありがとう——と心の中だけで一度言った。
送信はしない。家に帰ってから茶の横で、別の形になる言葉だ。
改札の人混みの向こうに、手を挙げる人影が見えた。陽太さんだ。私は一度息を吸って、影ではない自分の足でそちらへ歩き出した。




