第30話「申請」
午前、総務のトレイに、他部署の経費申請が積まれていた。
同じ区間のタクシーが、短期間に何度も乗っている。地図で確認し、経路を確認し、私は申請書の端にメモを書いた。使いすぎ、ではない。説明が不足、と。感情は入れない。数字と、社内のルールが、そう示しているだけだ。
田村係長が覗き込んだ。
「ムンムン、営業のタクシーだな。またか。優しく書いて。優しく」
『不足しているのは、理由欄です。優しく、足りません』
「……事実だ。係長が仲介する。ムンムンは表を守れ」
『はい』
指摘は、係長経由で先方に戻った。後日、理由が追記されて再提出される流れになる。私は戦争をしない。二十六度のときと同じで、数字で持つ。窓の蜂とも、胸元の余談とも違う、総務の本業の味だ。
昼過ぎ、陽太さんが総務の入り口に来た。申請とは別の顔だった。
「ムンムンさん、今、いいですか」
『はい』
「前の食事、楽しかったです。つながらなくても。よかったら、また二人で——今度は、少しだけ長い時間でも」
二回目だった。
一度目は持ち帰って、白嶺様に「行け」と言われた。今回も、身体が先に『一度、持ち帰ります』と答えそうになる。でも、楽しいの仮の表は、まだ消えていない。私は一拍置いて、言った。
『……日程が、空いていれば、お受けしたいです。持ち帰って、確定を、連絡します』
陽太さんの顔が、明るくなった。耳は赤い。
「はい。待ってます。業務のタクシーの件、うちの部もあったら、理由、ちゃんと書きます」
『お願いします。理由欄は、重要です』
陽太さんは笑って、営業へ戻った。玲奈さんが遠くで「また気に入った」とわかる口形をし、美咲さんは給湯室で後から「無理なく楽しんでね」とだけ言った。同居のことは、触れない。
夜、家で白嶺様に両方報告した。
白嶺様はソファに横になったまま、片耳だけこちらに向けている。だらしなさは、健在だ。
『経費の申請で、タクシーの理由不足を、指摘しました。係長が、仲介します』
「妥当だ。敵を作るな。数字だけ渡せ」
『はい。それと、鈴木さんから、また食事に、誘われました』
白嶺様の目が、細くなる。
「行け。二回目は、自分の足で決めろ。私は命じない。ただし、行かない理由が『私』なら、却下する」
『……行きます。空いている日で』
「そうしろ。胸元は、好きにしろ」
顔が熱い。白嶺様は面白がって茶を飲み、動かない。彩華様が私の膝に乗り、申請のことも、二人の食事のことも、理解していない顔で笑った。私はスマホで、陽太さんに短い文を打った。
『再来週の土曜日、空いています。ご相談ください』
送信のあと、通帳でも表彰状でもない熱が、胸の浅いところで鳴った。タクシーの理由欄は、足りないものを足せば通る。恋の理由欄は、まだ書き方の途中だ。
鍵を確認しながら、私は二十六度の公平さと、二回目の「お受けしたい」を、同じ一日の棚に並べた。




