第29話「問診」
朝、彩華様が私の袖を掴んで離さなかった。
白嶺様はソファに横になったまま、片手だけを上げてパンをちぎっている。髪は結んでいない。私服の襟は、半分寝癖のまま開いている。会社の主任・加藤とは、別人のようなだらしない朝だ。
「行かないで、ではない。いつもより強いだけだ。ムンムン、そっち着けるな。私がやる」
言いつつ、白嶺様は五秒動かない。動かないまま、あくびをして、やっと上体を起こす。私はスーツのボタンを留め、そのあいだに白嶺様がやっと彩華様の口元へパンを運ぶ。動作が全体的に遅い。なのに、欠けるところはない。だらしないのに、最低限は守る人だ。
『白嶺様。彩華様を、お願いします』
「当然だ。……ムンムンは、問診票を嘘なく書け」
『はい』
玄関で靴を履くと、白嶺様はソファから移動せず、声だけ送る。彩華様が「あー」と手を振る。私は鍵を外側から確認し、駅へ向かった。同居は美咲さん以外知らない。この、ソファに沈んだ白嶺様の朝だけが、私たちの本当の表だ。
会場は、大会議室を区切った仮のブースだった。
採血、視力、身体測定。私は指示された通りに腕を出し、文字を読む。問題は、問診だ。
お酒は週に何回——打ち上げで少し。
運動習慣——以前は多く、今は備品と導線。
睡眠——彩華様が起きなければ足りている。
保健師の方が、紙を見て顔を上げた。
「月村さん、運動、かなりされてます? 筋肉量、デスクワークにしては高いです」
『以前は、多く。今は、会社、です。総務、です』
「お酒は控えめを」とだけ書かれ、隣では田村係長が「ムンムン、痛い?」と聞く。私は『採血は、一瞬でした』と返した。陽太さんとは結果待ちの椅子で会い、短い業務の挨拶だけ交わした。美咲さんが手を振り、玲奈さんが「身体の数値、見せて」と冗談を言い、私は『個人情報です』と返した。
白嶺様は、別枠で淡々と受けているのを、後で廊下で見た。背筋が伸び、名札が正しい。家の横になった人と同じ人だとは、社内の誰も思わないだろう。
夜、家に帰ると、白嶺様はソファに沈んでいた。
スーツは床の近くの椅子にかけてあり、本人は薄い部屋着のまま、片足を組んでいない。組む力も、今は出していない顔だ。テレビはついているが、見ていない。彩華様が私を見つけると走ってきて、白嶺様は「おかえり」とだけ、口を動かす。手は、茶のカップの縁に乗ったまま、しばらく上がらない。
『ただいま、戻りました。数値は、後で出ます。運動の項目で、聞かれました』
「そうか。……茶、自分で入れて。私のは、温めてくれ」
だらしなさの頂点が、そこにあった。命じる力はある。身体が、家だと本気で休んでいる。私は茶を温め、彩華様の手を洗い、白嶺様のカップを差し出す。白嶺様は「よし」とだけ言って、目を細める。大きくて、温かい。だらしなくても、見守りは消えない。
夕食のあと、白嶺様は「風呂、先に入る。あと、五分」と言って、三十分動かなかった。動かないまま彩華様を膝に乗せ、髪を適当に撫でている。適当なのに、彩華様は機嫌がいい。私は問診票をカバンから出し、机に置いた。
『白嶺様。書けないことは、空欄にしました』
「それでいい。嘘より、空欄だ」
『はい』
風呂の順番がやっと始まり、白嶺様は湯から上がると、またソファに戻った。タオルを頭に載せたまま、乾かさない。私は彩華様を寝かしつけ、鍵を確認し、白嶺様の頭からタオルを取ってやる。白嶺様は「ムンムン」とだけ呟き、目を閉じた。
会社では空調を二十六度で固定し、社全体の前で名前を呼ばれ、湯の余談で顔を赤くする。
家では、このだらしなさの横で、茶を温め、鍵を閉じる。
どちらも、今の私の一日だ。
測れる数値と、測れないだらしなさを、同じ棚に置いて、今夜も眠ることにした。




