第27話「湯」
玲奈さんが、給湯室でいきなり言った。
「ムンムン、美咲、今週末空いてる? 温泉行こう。加藤主任も誘う」
『温泉』
「湯に浸かって、ご飯食べて、寝る。女だけで。硬くならないで」
美咲さんが「いいですね」と目を輝かせ、私は『一度、持ち帰ります』と返した。家で白嶺様に伝えると、ソファの向こうから短い答えが来た。
「私は行かない。彩華がいる」
『では、私も——』
「行け。お前は行け。佐藤さんと中村もいる。問題ない」
『白嶺様を、置いて』
「盾は夜でいい。温泉は昼の人生だ。命じる。行け」
命じる、という言葉の重さで、反論が消えた。美咲さんと玲奈さんに参加を伝え、スマホに宿の案内が並ぶ。白嶺様は彩華様と家に残る。同居の事実は、美咲さん以外には出さないまま、私だけが荷物を作った。
温泉宿の湯気は、ジムともカイシャとも違う匂いだった。
脱衣所で、私は淡いブルーではない、普通の手持ちを畳んだ。湯船へ向かう途中、玲奈さんが足を止めた。美咲さんも、続いた。
「……ムンムン。なにその身体」
『……は?』
「引き締まってる。変な筋肉じゃなくて、きれいな線。何してるの」
『以前、身体を動かすことが、多かっただけです』
美咲さんが、恥ずかしそうに、でもはっきり言った。
「美しい、です。ムンムンさん」
顔が熱い。湯のせいだけではない。称賛は、蜂やMVPとも違う。身体そのものを、見られている。私は『湯が、冷めます』とだけ言って、先に浸かった。玲奈さんが「どこまでも楽しませてくれる子」と笑い、美咲さんが隣に来る。白嶺様のいない湯は、奇妙に広い。なのに、三人分の声で、隙間が埋まる。
夜は、部屋着でご飯とお酒を出した。
私は一口だけ含み、あとはお茶にした。浅い酔いの記憶は、打ち上げで足りている。玲奈さんが会社の愚痴を笑い話にし、美咲さんが「ムンムンさんの表、助かりました」とつなぎ、私が『必要なことをしただけです』と返す。いつもの回路なのに、畳の上だと柔らかい。
「加藤主任、来たらよかったのにね」
玲奈さんの言葉に、美咲さんと私だけが、短い沈黙を共有した。理由は言わない。言わなくていい距離が、三人の中にできている。
『加藤さんは、行かない判断をしました。私は、来ました』
「その言い方、好き。でも、楽しそうだよ、ムンムン」
玲奈さんが指摘し、美咲さんが頷く。楽しい——。一覧に、また仮で載せる。陽太さんとの食事とも、二十六度の会議室とも違う。女三人で、湯とご飯を共有する種類だ。白嶺様が「行け」と命じなければ、私はこの棚を知らなかった。
布団に入る前、スマホに白嶺様から短い文が来た。
「彩華は寝た。お前は、湯を楽しめ」
私は『はい。楽しんでいます』と返した。送信のあと、美咲さんの寝息と、玲奈さんの寝返りが近い。守る対象は家にいる。今の私は、命じられた人生の側に、ちゃんと浸かっている。
幸せを、噛み締めている——と呼んでいいか、まだ少しだけ迷う。
迷ったまま、湯の熱が身体の芯に残るのを、否定せずに目を閉じた。




