第26話「温度」
総務の電話が、午前中から鳴っていた。
「ムンムン、寒い。上げて」
「総務? 暑いから下げて。今のままでいい人の気持ちも考えて」
同じ通路の、違う席から、反対の要望が来る。カイシャの温度は、数値で決まっている。なのに、体感は人によって違うらしい。田村係長が頭を抱えた。
「エアコン戦争、始まったな。ムンムン、設定は総務管理だぞ」
『現在、二十六度です。規定の範囲内です』
「範囲内なのに、戦になる。これが会社だ」
私はリモコンの位置と、ログを確認した。昨日も二十六度。今朝も二十六度。変えていない。なのに、寒い人と暑い人が、同時に正しい顔をしている。幸せの種類に似て、温度の種類も多いのかもしれない。
営業から陽太さんが、別件で顔を出した。
「ムンムンさん、書類。……あ、ここも寒い暑い、言われてます? 僕は普通です」
『普通、の基準が、わかりません』
「わかる。触れないのが正解です」
陽太さんは書類を置いて、早目に戻った。二回目の誘いは、まだ来ない。距離は、余韻のまま保たれている。私はそれに、今は触れない。
美咲さんからチャットが来た。「企画側も寒暖で割れています。ムンムンさん、負けないでください」。玲奈さんからは「寒いで統一してほしい」とだけ。白嶺様からは何も来ない。主任は、自分でカーディガンを着ているのを、後で廊下で見た。
私は全体に、短い文を出した。
『空調は二十六度で固定します。個別の体感差は、衣類で調整してください。変更希望は、部署の代表から一つにまとめてください』
送信のあと、しばらく静かだった。
誰の味方もしない文面だ。炎上しそうで、しない。事実だけが、通路に残る。田村係長が親指を立てた。
「ムンムン、公平だ。係長は寒い側だけど、賛成する」
『係長も、衣類で調整してください』
「……一枚、持ってくる」
午後は、二十六度のまま、キーボードの音だけが安定した。寒い人は膝掛けを出し、暑い人は袖をまくった。戦争は、休戦になった。私はログに「変更なし」と書いた。
退勤前、白嶺様とすれ違った。
『加藤さん。空調は、二十六度で固定しました』
「妥当だ。私は一枚着た」
『はい。個別の体感は、衣類、と伝えました』
「いい。温度は、人の話を全部聞くな。数字で持て」
白嶺様は短くそれだけ言って去る。家では、ソファで「今日は会社が寒かったか」と聞かれ、『規定内です』と返した。白嶺様は「それでいい」と茶を飲んだ。
陽太さんからの二回目は、まだ先でいい。
今夜の棚には、「二十六度」と「衣類で調整」だけを置いた。
群れることも、恋の続きも、温度の好みも、種類が多い。
私は、測れるものから、合わせていくことにした。




