第25話「余韻」
翌営業日、社内の空気が、私の周りだけ少し違った。
陽太さんと廊下ですれ違うと、以前より会釈が長い。業務の連絡が、チャットでも丁寧になっている。それ以外は、普通だ。なのに、玲奈さんが給湯室の入口で言った。
「ムンムン、顔が柔らかい。いいことあった?」
『食事に、行きました。二人で』
「……ストレートね。気に入った。相手は陽太でしょ」
『はい』
玲奈さんは満足そうに去り、美咲さんは別のタイミングで、小さくだけ聞いた。
「無理は、してないですか」
『会話は、つながりませんでした。楽しかった、と思います』
「それが、いちばん大事です」
美咲さんは同居のことも、過去の輪郭のことも、ここでは出さない。知っている人の、配慮した距離だ。田村係長は「ムンムン、笑顔が増えた?」と言い、私は『計測していません』と返した。また事実が残った。
陽太さん本人は、午後に備品の件で総務に来た。
「ムンムンさん、昨日はありがとうございました。僕も、楽しかったです。会話は上手くできなかったけど。」
『はい。私も、そう、思います』
短いやり取りで、陽太さんは戻っていく。顔の温度が、お互い高い。社内では、それ以上の話はしない。私はキーボードに指を戻し、「楽しかった」を、心の表に仮で入力した。まだ確定ではない。なのに、消したくもない。
夜、家で白嶺様が、私の私服を見ながら言った。
「昨日の服、胸元、わざとだぞ」
『……は?』
「緩くしてあった。気づかなかったな」
顔が、一気に熱くなる。淡いブルーと、陽太さんの赤くなった顔が、初めて一本の線になった。白嶺様はソファに沈んだまま、面白そうに茶を飲んだ。
「見せる前提ではない、と言っていたな。結果、可能性は残った」
『白嶺様——』
「家では、好きにしろ。次は、お前の好きな服でいい」
『……わかりました』
からかわれている。なのに、怒れない。白嶺様は、働けと言ったときと同じ目で、私の昼の人生を見ている。胸元の意図に、昨日は気づけなかった。今日、余韻の中で気づかされた。恥ずかしい。なのに、楽しかった、という仮の表は、消えていない。
彩華様を寝かしつけ、鍵を確認する。スマホに、陽太さんから業務ではない短い「お疲れさまです」が一つ。美咲さんからは何も来ない。白嶺様は、家の中にいる。
余韻は、社内と、胸元と、二人の席に、まだ残っていた。
自分の人生の歩み方の一覧に、「つながらないまま楽しい」を、今夜は残して閉じた。




