第16話「ほどほど」
ジムの話は、一日で社内の共有事項になっていた。
「ムンムン、蹴られたらどうしよう」
「止めただけらしいぞ」
「無料体験でスパーリングするジムって、そんなことある?」
総務の誰かが言うたびに、田村係長が首を振った。
「ムンムン、ほどほどにね。係長は窓の次に、ジムも管理できない」
『会社の管理対象外です』
「……事実だから、返せない」
陽太さんが、昼前に総務の入り口まで来た。
「ムンムンさん、怪我はなかったですか。相手の方は……」
『私は、問題ありません。相手も、立ち上がっていました』
「よかった。僕、聞いたとき心配で。強さより、ムンムンさんが無理してないかが」
『必要な範囲で、止めました』
陽太さんは安心した顔と、まだ何か言いたそうな顔を重ねてから、営業へ戻っていった。心配される、という感覚も、まだ一覧表にうまく載らない。
午後は、つながり月間の最終確認に戻った。
導線、備品、ブースの位置。私は表を更新し、美咲さんに共有した。美咲さんは画面を見ながら、声を落とした。
「ムンムンさん。昨日は、ありがとうございました。一人じゃ、あそこまで行けなかった」
『誘ってもらった側です』
「それに……」美咲さんは一度、言葉を選んだ。「ムンムンさんのこと、前に伺った話、ちゃんと納得できました。疑ってたわけじゃないんです。でも、目で見て、納得しました」
過去の輪郭への疑念が消えた、という意味だ。私は深く掘らない。『はい』とだけ返した。美咲さんは小さく笑って、「つながり月間、裏方よろしくお願いします」と業務の顔に戻った。白嶺様は別件で席を外していたが、後で資料に「佐藤さん確認済」の文字が残っていた。
玲奈さんが廊下で会ったとき、短く言った。
「ジムね。気に入った理由、また増えた。次は私を守って」
『業務外は、相談ください』
「その答え、いいわ」
玲奈さんは満足そうに去った。私はほどほど、を意識して、棚の番号を指で追った。身体が先に動くのは、長所でもある。白嶺様は面白がりつつ、ほどほどにしろと言った。その両方を、胸にしまう。
退勤前、白嶺様と短くすれ違った。
『加藤さん。つながり月間の数字は、揃っています』
「お疲れ。ほどほど、守れたか」
『今日は、表だけです』
「いい。続けろ」
家では、彩華様を抱きながら、マットの感触と、美咲さんの「納得しました」を同じ棚に置いた。幸せの種類は、まだ数えきれない。それでも、今日は倒さず、止めて、席に戻れた。
鍵を確認して、私は思った。
ほどほどで、いい。
明日も、ムンムンのまま、数字を合わせるつもりだった。




