第15話「ジム」
美咲さんが、私を給湯室で呼び止めた。
「ムンムンさん、今いいですか。相談、というか、お願いなんです」
『はい』
「体型が気になって、キックボクシングのジムの無料体験に行こうと思ってて。一人だと不安で。……ムンムンさん、一緒に来てもらえませんか」
キックボクシング。殴る、蹴る、避ける。名前は聞いたことがない。後の美咲さんの説明で身体を動かす種目だということはわかった。彩華様のこともある。私は『一度、持ち帰ります』と返した。
家で、白嶺様に話した。
『美咲さんに、ジムへ誘われました。キックボクシングの、無料体験です』
「行け」
『彩華様が』
「私がいる。行ってこい。佐藤さんとの外出は、いいことだ」
白嶺様はそれ以上の理由を言わない。見守る側の、短い許可だ。私は『わかりました』と答え、美咲さんに参加の旨を伝えた。
ジムは、鏡とマットの匂いがした。
インストラクターの説明を受け、基本の構えを真似る。美咲さんは真面目に動き、ときどき息を切らしている。私は、指示された通りに体を動かした。
最初のジャブの軌道が、遅い。避ける位置が、自然に決まる。キックのデモを見て、軸足の角度だけを真似ると、インストラクターの手が止まった。
「……月村さん、やったことあります?」
『いいえ。初です』
「初、に見えないんですけど」
周りの練習生が、鏡越しにこちらを見ている。美咲さんが「ムンムンさん、すごい」と小さく言った。私は特別なことをしているつもりはない。重心を戻し、次の指示を待つ。ミット打ちでは、音が正確に揃った。強さではない。遅れがないだけだ。それでも、誰かが「あの人、OL?」と囁いた。別の誰かが「武術とか、絶対やってる」と返している。
空気が、ただの無料体験ではなくなってきていた。
「あなた、すごいね。ボクとスパーリングしようよ」
練習生の男性が、グローブをトントンと合わせる。笑っている。舐めた目と、別の下心が、同じ顔にある。美咲さんが「え、いきなり」と小さくなった。私は『ルールを、教えてください』とだけ言った。
短い合図のあと、相手が前に出る。私は半歩ずれて、手首の外側で軌道を外し、膝の位置を崩さないまま、相手の構えの隙間に掌を当てた。強くはない。正確なだけだ。相手の膝がマットにつく。二度目は、もっと短かった。三度目は、相手が手を上げた。
「……つ、強い。ごめん」
下心は、どこかへ消えていた。称賛と、軽い恐怖が残っている。私は『無料体験、ありがとうございました』と頭を下げた。美咲さんは、私の横で、何かが解けたような顔をしていた。以前、家で聞いた話への疑念が、完全に消えた顔だ。私はそれを、深くは聞かない。
翌日、カイシャで、話が先に歩いていた。
美咲さんが、営業企画で「ジムでムンムンさんが強くて」と口を滑らせたらしい。キックボクサーを一瞬で倒した、という形に変わって、総務まで届く。田村係長が寄ってきた。
「ムンムン、キックもできるの」
『無料体験です。倒した、というより、止めただけです』
「その区別、もう遅いかな。ムンムン最強説、再燃してるよ」
陽太さんが遠くから心配そうに手を挙げ、玲奈さんが「気に入った理由がまた増えた」と廊下で言った。白嶺様は退勤前に、短くだけ言った。
「佐藤さんから聞いた。スパーリング、一瞬だったらしいな」
『下心が、先に出ていたので。止めただけです』
白嶺様は、呆れた顔のまま、目だけが少し楽しそうだった。
「ほどほどにしろ。……まあ、佐藤さんの前でやったなら、いい経験だ」
『はい』
家では、白嶺様が茶を飲みながら、小さく笑っていた。面白がっている。私は彩華様を抱き、ジムのマットの感触を思い出した。ただのOLではない、と周りに言われた。美咲さんと二人で行った昼は、仕事でも、盾でもない。幸せの種類の、また別の一枚だったのかもしれない。
鍵を確認しながら、私は思った。
倒していない。止めただけだ。
社内の話は、それでも止まらなかった。




