表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/41

第15話「ジム」

美咲さんが、私を給湯室で呼び止めた。

「ムンムンさん、今いいですか。相談、というか、お願いなんです」

『はい』

「体型が気になって、キックボクシングのジムの無料体験に行こうと思ってて。一人だと不安で。……ムンムンさん、一緒に来てもらえませんか」

キックボクシング。殴る、蹴る、避ける。名前は聞いたことがない。後の美咲さんの説明で身体を動かす種目だということはわかった。彩華様のこともある。私は『一度、持ち帰ります』と返した。

家で、白嶺様に話した。

『美咲さんに、ジムへ誘われました。キックボクシングの、無料体験です』

「行け」

『彩華様が』

「私がいる。行ってこい。佐藤さんとの外出は、いいことだ」

白嶺様はそれ以上の理由を言わない。見守る側の、短い許可だ。私は『わかりました』と答え、美咲さんに参加の旨を伝えた。


ジムは、鏡とマットの匂いがした。

インストラクターの説明を受け、基本の構えを真似る。美咲さんは真面目に動き、ときどき息を切らしている。私は、指示された通りに体を動かした。

最初のジャブの軌道が、遅い。避ける位置が、自然に決まる。キックのデモを見て、軸足の角度だけを真似ると、インストラクターの手が止まった。

「……月村さん、やったことあります?」

『いいえ。初です』

「初、に見えないんですけど」

周りの練習生が、鏡越しにこちらを見ている。美咲さんが「ムンムンさん、すごい」と小さく言った。私は特別なことをしているつもりはない。重心を戻し、次の指示を待つ。ミット打ちでは、音が正確に揃った。強さではない。遅れがないだけだ。それでも、誰かが「あの人、OL?」と囁いた。別の誰かが「武術とか、絶対やってる」と返している。

空気が、ただの無料体験ではなくなってきていた。

「あなた、すごいね。ボクとスパーリングしようよ」

練習生の男性が、グローブをトントンと合わせる。笑っている。舐めた目と、別の下心が、同じ顔にある。美咲さんが「え、いきなり」と小さくなった。私は『ルールを、教えてください』とだけ言った。

短い合図のあと、相手が前に出る。私は半歩ずれて、手首の外側で軌道を外し、膝の位置を崩さないまま、相手の構えの隙間に掌を当てた。強くはない。正確なだけだ。相手の膝がマットにつく。二度目は、もっと短かった。三度目は、相手が手を上げた。

「……つ、強い。ごめん」

下心は、どこかへ消えていた。称賛と、軽い恐怖が残っている。私は『無料体験、ありがとうございました』と頭を下げた。美咲さんは、私の横で、何かが解けたような顔をしていた。以前、家で聞いた話への疑念が、完全に消えた顔だ。私はそれを、深くは聞かない。


翌日、カイシャで、話が先に歩いていた。

美咲さんが、営業企画で「ジムでムンムンさんが強くて」と口を滑らせたらしい。キックボクサーを一瞬で倒した、という形に変わって、総務まで届く。田村係長が寄ってきた。

「ムンムン、キックもできるの」

『無料体験です。倒した、というより、止めただけです』

「その区別、もう遅いかな。ムンムン最強説、再燃してるよ」

陽太さんが遠くから心配そうに手を挙げ、玲奈さんが「気に入った理由がまた増えた」と廊下で言った。白嶺様は退勤前に、短くだけ言った。

「佐藤さんから聞いた。スパーリング、一瞬だったらしいな」

『下心が、先に出ていたので。止めただけです』

白嶺様は、呆れた顔のまま、目だけが少し楽しそうだった。

「ほどほどにしろ。……まあ、佐藤さんの前でやったなら、いい経験だ」

『はい』

家では、白嶺様が茶を飲みながら、小さく笑っていた。面白がっている。私は彩華様を抱き、ジムのマットの感触を思い出した。ただのOLではない、と周りに言われた。美咲さんと二人で行った昼は、仕事でも、盾でもない。幸せの種類の、また別の一枚だったのかもしれない。

鍵を確認しながら、私は思った。

倒していない。止めただけだ。

社内の話は、それでも止まらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ