第13話「種類」
つながり月間の準備は、数字から始まった。
備品棚の棚卸し、ブース用の資材リスト、不足分の発注。私は表を埋め、田村係長に確認してもらう。係長は「ムンムンの表はミスがない。心の表も作ってみない?」と言い、私は『心は、表にできません』と返した。また事実だけが残った。
午前、廊下で白嶺様とすれ違った。
様子が、いつもと違う。声のトーンは同じなのに、歩幅がわずかに軽い。機嫌がいい、という状態らしい。私には、その判別がまだ難しいが、今日ははっきりしていた。
『加藤さん。ご機嫌、ですか』
「……見えるのか」
『歩幅が、違います』
白嶺様は短く鼻で笑い、通り過ぎる。こちらからは追わない。つながり月間で、営業企画とも連携が増える。午後に資料の共有がある、とだけメモした。
昼休み、白嶺様が総務の入り口に現れた。
「ランチ、付き合え。奢る」
『……は?』
「佐藤さんも呼んだ。三人だ。すぐ来る」
断る理由が、見つからなかった。白嶺様が機嫌がいい日の誘いは、稀だ。私は『わかりました』と席を立ち、近くの定食屋へ向かった。美咲さんがすでに席を取っていた。三人で座る。白嶺様はメニューを開き、私と美咲さんに同じように「好きなものを頼め」と言った。
食事の途中、白嶺様が美咲さんの方を見て、静かに言った。
「この子は、まだ知らないことが多い」
『……白嶺様——加藤さん』
「いい。聞いていろ」
白嶺様の声は、会社で主任をしているときの温度のままだ。多くは語らない。感情を乗せない。それでも、言葉は正確だった。
「幸せの種類が、たくさんあることも、まだ知らない。私は、それを少しずつでいいから、見せてやりたいと思っている。佐藤さんも、よろしくお願いね。」
美咲さんは目を大きくして、すぐに真顔で頷いた。
「はい。わかりました」
私は箸を止めた。顔が熱い。恥ずかしくて、同時に、胸の浅いところがあたたかい。守る、守られる、以外の話を、白嶺様が人に託している。しかも、私の知らない「種類」についてだ。自分の人生の歩み方を知らない、とずっと思ってきた。その歩き方の先に、種類があるのだとしたら——。
『……必要以上の、心配は』
「心配ではない。希望だ」
白嶺様はそう言って、茶を飲んだ。クールな顔のまま、希望、と言い切る。美咲さんは私に、小さな声で「一緒に、少しずつですね」とだけ言った。私は『はい』と返した。声が、いつものより少し小さい。
ランチのあとも、白嶺様の機嫌は良いままだった。
私は総務に戻り、資材の表を開いた。数字は正確に入る。なのに、指の感覚が、少しだけ違う。恥ずかしくて、嬉しい。その二つが同時にあることを、今日、初めてはっきり知った。
つながり月間の準備は、続く。
幸せの種類の話も、まだ始まったばかりだ。
夜、鍵を確認しながら、私は白嶺様の「希望だ」を、もう一度だけ心の中で繰り返した。




