第10話「ままでいい」
午前、田村係長に呼ばれて、部長の席へ行った。
佐々木恵部長だ。三十代後半。穏やかな声で、観察する目をしている。蜂の件も、備品の正確さも、剛係長から上がっているらしい。私は背筋を伸ばして立った。
「月村さん。いや、ムンムン、でいいのかしら」
『どちらでも、承知しています』
「そう。忙しいなか、蜂はびっくりしたわね。怪我なしでよかった」
『はい』
部長は書類に目を落とし、また顔を上げた。責めない。褒めすぎもしない。
「田村から聞いているわ。返事が硬い、ジョークが通じない、それでも仕事は早い、と。私は、それでいいと思っている」
『……ままで、いい、ですか』
「ええ。月村さんは月村さんのままでいい。無理に社内の空気に合わせなくて大丈夫。必要なところだけ、少しずつ覚えればいいわ」
美咲さんに近い言葉だった。過去の輪郭を知らない人の口から出ると、重さが少し違う。私は『はい』とだけ返した。胸の奥が、静かにあたたかい。認められた、という感覚は、剣の評価とは違う。勝ち負けがない。
「何か困ったら、田村か私に言って。窓は、次から係長が気をつけるそうよ」
『田村係長は、比喩とジョークが多いです』
部長は、短く笑った。
「それが彼のままだわ。あなたが事実で返してあげれば、いいバランスよ」
席に戻ると、田村係長が遠くから親指を立てていた。私は「わかりました」の練習のつもりで、小さく頷いて返した。
退勤間際、陽太さんが総務の入り口に現れた。
「ムンムンさん、お疲れ様です。今、大丈夫ですか」
『はい』
「あの、また虫とか出たら、僕は逃げます。そのときはムンムンさんに……じゃなくて、総務に連絡します」
『それが、正しい手順です』
陽太さんは顔を赤くして笑い、手を振って去った。私は、その背中を見てから、カバンを持った。好意、という言葉が、頭の端をかすめた気がした。かすめただけだ。意味は、まだ自分のものになっていない。
家で、白嶺様に短く報告した。
『部長に、ままでいい、と言われました』
「そうか」
『佐藤さんにも、似たことを言われました』
白嶺様はソファに沈んだまま、目を細めた。大きくて、温かい見守り方だ。
「なら、続けろ。ムンムンのままでいい」
『加藤さん、にも、言われました』
「家では白嶺でもいい。今日はよくやった」
私は彩華様の部屋を確認し、鍵を見た。
カイシャでは、ままでいいと言われる。家では、白嶺様がそう言ったあとで、茶を飲む。
自分の人生の歩み方は、まだ知らない。
それでも、ままでいいと言われた席に、明日も座りに行くつもりだった。




