8 初めてのアジ文字(3)
難波と更科が頭を上げて座り直した。乙彦も合わせた。
いつの間にか棒状にまるまってしまったわら半紙を、難波は改めて開き直した。無言で見つめ、時折更科に頷く。更科が遠慮しつつ乙彦にも頷き返す。そんなに難波は乙彦と顔を合わせるのが苦痛なのだろうかと勘ぐりたくなるが、たぶんそれは当たっているのだろう。
こちらから聞くしかない。
「さっき言っていた、アジ文字だかゲバ文字とはなんだ」
「見たことないのか。大学方面に足運ぶことないのか」
質問返しにはむかつくが仕方ない。難波にしかわからないことがたくさんあり、名倉もそれを認めている以上、乙彦はしつこく確認するしかない。
「ここに書いてある書体は、ゲバ文字と呼ばれているものだ。政治的扇動を目的とする文言を大学の壁に立てかける看板にしたり、こうやってビラにしたりする。看板バージョンのことを「アジ看」とよび、今俺の前にあるこの紙のことを「アジビラ」と呼ぶ」
━━なんだそれ。こんなビラで政治的扇動なんて難しそうなことできるのか、なにが”悔い改めよ”が。
演説が始まるとかならずする、ストローを加えるくせ、さすがにそれはみっともないと突っ込みたいが黙る。なぜならばホームズだからだ。
「さらに言うと、「ゲバ」とはドイツ語で「ゲバルト」、すなわち暴力という意味の略語だ。そして俺たちの親世代にあたる人々が学生運動に携わった時生まれたのがこの書体だ。遠くから見ても読みやすいだろう」
「そうだな。確かに」
「しかしこの文字の持つ一番のメリットは何だと思う、更科?」
せっかく乙彦が相槌を売っているのに無視するのはどうかと思うが、奴はホームズだ。我慢する。
「ええっと、この文字、わかりやすいけど誰が書いたかわからないよね」
こくっと首をかしげる仕草。高校二年とは思えない愛らしさ。なんとかしろ。
「たまに大学行くとこんな漢字ででっかい看板がずらずら並んでるよ。俺たちが中学に入った頃に比べると半分くらいに減ったけど。でも、普通の文字と比べると、みんなおんなじ人が書いたみたいなんだけど」
「さすが俺のワトスン、冴えてるぞ。そうだ。わかったか関崎」
噛み砕くのに時間がかかっている。すなわち、誰が書いたかわからないということは、つまり、どういうことなのだろうか。
━━やはり俺が頭を下げるしかないのか、このホームズめ。
屈辱を感じつつ乙彦はもう一度答えを求めた。
「申し訳ない。俺にはわからないので答えがほしい」
「仕方ない。答えは一言」
勝ち誇ったように難波は言い放った。
「誰が書いたかを特定させないための対策ということだ」
難波の演説はまだ続く。まだ誰も来ない。
「学生運動については正直俺もわからない。これから勉強するが、今の問題とは関係ない。だが、この意味不明なビラをなぜ二年英語科の女子靴箱にだけ投げ込む必要があるか。まずはそこから考えていきたいのだが」
ここで難波は言葉を切った。ぐるりと見渡した。
「清坂たちがきてからこの点は説明したい。おそらく職員室で規律チームと顔を合わせて話し合いをしている最中かもしれない。新しい情報を持ち帰ってくるかもしれない。情報を集めてからのほうが正確な判断ができるのでいったんこの件はおいておく」
━━何をもったいぶっているんだ。
心の中で突っ込む。難波が心身ともにホームズというのはよく理解しているつもりだし、こればかりは頭を下げるしかないともわかっている。ただ、二年A組英語科は乙彦のホームクラスであり、一刻も早く正確な情報を得る必要がある。他の生徒会役員たちが来る前であっても、早く把握したいのが本音だ。
「まあまあ、ホームズ。確かにそうだよね。清坂さんや羽飛を待ったほうがいいと思うよ。でも、ほんとは別のことを関崎に言いたいんだよね。早く言ってやりなよ。そうしないとほら、二年英語科と関係ない人たちが集まってきて、退屈しちゃうよ」
「そうだな、さすが更科、俺の懐刀」
━━ホームズでも「懐刀」という言葉を使うのか。
どうでもいいことに心で突っ込みつつ、乙彦は難波の言葉を待った。
「関崎、さっきの規律委員会の先輩についてだが、どういうポスト持ちか知っているか」
「ポスト?」
規律委員会には一年前期だけお世話になった。多少の縁はある。だがポストなど確認する必要もないと思っている。
「俺も先輩に対して失礼な言い方をしたくないが、あの人はいわゆる平の規律委員だ」
「平?」
ますますわからない。
「委員長・副委員長・書記・場合によっては渉外。このポストについていない委員という意味だ」
それは関係あるのだろうか。全く意味不明だが話を聞き続けるしかない。難波の言葉には学ぶべきことが多すぎて、個人的なむかつきを耐えざるを得ないのだ。
「ポストを持っている委員、これはどこの委員会でも同様だが、過去の委員長経験者や生徒会役員について不必要な批評を表立った場では行わない。ましてや立村は青大附中の評議委員長まで務めている相手だ。さらにあいつの後ろ盾は本条先輩だ。立村を生徒会室で罵倒することが、どれだけ危険なことなのか把握できていない、それが平の委員ということだ」
だんだん温度が上がってきているのを感じる。ストーブの火に近い熱量だ。難波が燃えている。どうするのだろういざとなったら更科が冷やしてくれるのだろうか。言えるのは難波が、先程の「平」である三年規律委員の先輩に対して怒り心頭ということだけだ。
「今の俺は決してしないが、もし誰かが本条先輩にこの内容を報告したとしよう。何が起こるか恐ろしすぎて考えたくもない。規律委員会が存在できるかどうかレベルの出来事が起こる可能性、多分にある。百歩譲って前科持ちの立村が相変わらずへまやらかして泣き事言っている程度であれば、本条先輩も大人だ、仕方ないと流してくれるかもしれない。しかしだ」
難波はストローを反対にくわえなおした。
「今回に限って言えば、このビラ配布は大事件だ。ボヤどころか大火事、青大附属が全部燃え尽きても不思議のない出来事だ。それを早めに発見してくれた立村に対し感謝もなく、仲介した南雲のみ信用するあの態度、決して認められるものではない!」
━━ホームズは友情に篤い。
その点は過去のいろいろなことからも伝わってくるのだが、乙彦にはどうしても納得いかないところがある。
「難波、俺もあの先輩が立村に対して敵愾心を持っているのは理解したし納得いかないのもわかる。ただ、お前たちは突然立村が問題を起こした前提で最敬礼をし、先輩に詫びている。俺もつられて礼をしたので責めるつもりは全くない。だが、なぜあそこまで頭を下げる必要があるのかが、俺には理解できない。むしろ今難波が話したことをまろやかに伝えるべきだったのではないかと思う」
呆れたように難波は乙彦を上から見下ろした。
「関崎、今の言葉は絶対に口にするな。今の立村が規律委員会で、南雲の引きで、やっとポストをもらえそうな時にだ。いや平のままでいたとしてもだ。無駄な敵を増やす必要はない。南雲もそれがわかってるからへいこらしているに違いない。ついでにこの件が、規律委員会では太刀打ちできない内容だからということであえて、清坂を餌にして先輩を連れてきたんだろう。教師より、生徒会のほうが、確実に動いてくれる。過去の青大附中評議委員会のように」
ここまで熱を帯びた大演説がピークを迎えようとした時、引き戸が開いた。
「難波くん、今の話全部廊下に聞こえてる。だめだよ」
やせこけた鶏状態の清坂が、羽飛に荷物を持たせてゆっくり入ってきた。
「貴史ごめんね。持たせちゃって」
「お前持ってたら落とすだろが! 階段で滑り落ちて頭打ってお陀仏なんでしゃれになんねえぞ」
さりげなくふたりの漫才めいたやり取りが続いた後、生徒会長席⋯⋯いわゆるお誕生席⋯天に腰掛けた。
「でも、すっごくわかる。うん。そうだね。立村くんのおかげで気づくことできたのにね。感謝しなくちゃいけないね。関崎くんも気づいてると思うけど」
当然のように清坂は語りかけてきた。
「こずえのこと攻撃してるよね、このビラのこと」
羽飛が例の毒々しい野菜ジュースを清坂に注ぎながら頷いている。言葉はまだない。清坂の言葉をそのまま続けさせている。
「立村くん、だから疋田さん連れて週番に飛んできたんだよ。けど、先輩たちは立村くんのこと嫌ってる。直接だと聞いてくれないってわかってたからその場にいた南雲くんつかまえて、とにかく三年の先輩に引き継いでもらって、すぐに上の人に対応してもらわなくちゃって。けど立村くんの思い込みが激しすぎるって切られたら大変だってことで、一緒にその紙を見つけた疋田さんに証言してもらったんだよね。先輩に気に入られている南雲くんが説明して、証人として疋田さんがいれば、いくら立村くんのこと嫌いな先輩でも、動かなくちゃならないってこと。そして私たちも、今すぐやらなくちゃいけないこと、見つかったってこと」
「それはいったい」
清坂ではなく、羽飛に尋ねた。
「青大附属の誇る下ネタ女王様のお命を全力で守る。これっきゃねえだろ」
下僕である羽飛の言葉に、清坂は大きく頷いた。




