8 初めてのアジ文字(2)
全速力で駆け抜けていく二年A組規律委員コンビの後ろ姿を見送った後、乙彦は生徒会室に向かった。
まだ名倉は来ておらず、更科と難波が窓辺に席を取っている。来てから間もないのだろう。空気はまだ温んでいなかった。ストーブが必要な時期というのを思い起こさせた。
とりあえず片手を上げて挨拶をし、更科の向かいに座った。廊下を背にする格好となる。
「今日、英語科賑やかだったね」
更科がいつもの子犬的笑顔で問いかけた。
「A組」というよりも「英語科」と言われるのが新鮮に感じたりする。
難波も乙彦の顔を見上げるようにして、
「古川が来たな」
シンプルに一言告げた。
「ああ、いいタイミングだった。あと五分遅かったらえらいことになっていた。クラスが救われたといって良い」
大げさかもしれないが、乙彦の本音でもある。立村だけではなく難波も古川の件について、悲観的なことを口走っていたのだからそれをひっくり返すことができたのはなによりだ。そう、いくら頭でっかちに物事を考えたとて、結局は現実が勝つということだ。
「救われただと?」
「そうだ。ちょうど古川が現れた時間、ロングホームルームだったこともあって、宿泊研修の委員をどうするかとか、代理の委員を立てるべきかとかで揉めていたんだ」
「そっか。気がつけば宿泊研修だよね。早いよね。まあ青潟山というのはちょっと近すぎるかなって思うけど、大学のセミナーハウスよりはましだよね」
更科がずれた回答をする。難波は黙っている。
「古川がいない間どうする、ってことになり、危うくうちの規律委員が代行する寸前まで話が進んだ」
「え、規律って立村が?」
すっとんきょうな声を出す更科。違う違う。引っ掛け問題だ。
「違う、女子の疋田だ。今まではピアノのことしか考えていなかったのに、規律委員を経験してからやたらとクラス運営にくちばしを突っ込むようになってきて、正直うるさい」
最後の一言は本音である。立村頼むから疋田を黙らせろ、と本当は言いたい。
まだ難波は黙っている。いつもならここらへんで嫌味ったらしいことをぶつけるはずなのに珍しい。相手をしてくれるのはやはり更科だ。
「疋田さんかあ。中学時代同じクラスだったから知ってるけど、あの頃はそんなにはしゃぐイメージなかったよ。とにかくピアノに命かけてて、体育はほとんど休んでるし、授業終わったらすぐ帰るし、アポは一週間前でないとOKでないとかいろいろ。けど合唱コンクール終わってから立村と規律委員でコンビ組んでからのご活躍、いやもうびっくりだよ。ほら、立村や吹奏楽の連中とすっごくしゃべっていて、ほら最近は『ピアノ出前一丁、プレゼント演奏何でも引き受けます!』をキャッチフレーズにいろんなとこ営業してるし。キリコも疋田さんのこと名前じゃなくて苗字で呼んでたよ。それだけ距離あったんだよあの人。いや変わるよね人って」
━━この話初めてじゃないんだが。
疋田の大活躍は去年もちょこちょこ生徒会テーブルの話題に上がっていた。
━━それ以上に、生臭い問題が多すぎたんだ。
「けど、古川さんが来たから、ほぼ問題解決って感じなのかな」
解決なんだよね、という断言口調ではない。更科の言い方にはもやっとしたものがある。「詳しいことを聞いたわけじゃないが、清坂と羽飛には女王復活を伝えるようにと伝言を預かってきた。合宿もそうだが、クラスのこととか、ああそうだ、規律委員会といえば立村にもポストの件で確認取っていた」
おおっぴらに話していたことだから隠し事ではないだろう。自然に話す。難波がちらと乙彦を睨んだように見えた。こいつのくせだ。ホームズだからしかたない。そう割り切る。
「へえ、なんだろポストって」
「規律委員会で非公式のポストとして、南雲専用の書記を用意したいらしい。それで立村に打診があったそうだ。正式な書記は三年にいるので、あくまでも非公式。顧問の許可が出たら受けると話していた」
「受けると言ったのは、立村か」
ここで難波が問いかけた。隠すこともないので答える。
「ああ、そうだ。いろいろ事情があるので流れるかもしれない、あてにするな、とは言ってたがな」
乙彦には答えず、難波は更科に頷いて見せた。
「動く気は、あるな」
「そうだね。いい方にいってほしいね」
「まったくだ」
乙彦が呟いたとたん、冷ややかな目線を向けるのはやめろと言いたい。
━━俺は喜ばしいことだと思っているんだ、なぜ共感しないんだ。
入口側の引き戸が開いた。お次は誰かと振り返ると、ちょうど話題煮上がっていた規律委員関係者がふたり、並んでいた。立村と疋田はいなかった。去年、乙彦が規律委員だった時にお世話になった三年の先輩だ。そしてもう一人は南雲だった。あいかわらずちゃらちゃらした髪型だが、さすがに先輩の後ろではきちっとした格好で待機している。
「よう、おつかれさん。あれ、我らがアイドル清坂ちゃんはお留守かな」
いつから清坂はアイドルになったのだろう。すぐに更科が答えた。
「清坂さんたちはまだ来てませんよ。先輩、なにか事件ありましたか、それとも誰か衣装を必要とするイベントの相談だったりしますか?」
規律委員がふたり現れるというのは、生徒会室でもそうたびたびあることではない。南雲は難波に向けて軽く手を振り、ついでに乙彦にもこくっと頷いて見せた。「みつや書店」の」バイト仲間としての朝夕挨拶にすぎない、さっぱりしたものだ。
「いや事件ってわけでもないんだがな、こいつが、一応生徒会と共有しといたほうよくないかってことで。清坂ちゃんがいてくれればよかったんだがなあ」
おそらく先輩は清坂ファンだろう。そうすると今規律委員でひっそり座っている立村のことは目の敵にしているんじゃないだろうか。アイドルの昔の彼氏、というのは面白く内に違いない。立村が今期、規律委員会で肩身狭い思いをしないためにも、南雲の非公式書記ポストをぜひとも勝ち取っていただきたいと、心の中で祈った。
「俺たちでは対応が難しい内容ですか」
難波が無機質に問いかけた。
「いや、いいよ。先輩、むしろホームズ難波に話したほうがあとあと楽だと思いますよ。なにせホームズは文字鑑定お得意ですからねえ。知ってますか先輩。ホームズは名無しのラブレターをしっかり鑑定して誰から送られたものかをぴたりとあてたことがあるんです。青大附中時代の伝説ですよこいつ。さすがホームズ」
南雲がいつものちゃらちゃら調子で先輩に勧める。
━━文字鑑定だと?
さらに更科が輪をかける。
「そうなんだよ。だから選挙の開票作業の時にはホームズを混ぜないようにしないと、機密が守られないって言われてたんだ。ほら、せっかくの無記入投票が無駄になっちゃうじゃないかってね。ほんとぴたって当てるんだよ。ホームズ天才!」
天性の太鼓持ち更科に褒められて、難波も少し機嫌を直したらしい。改めて、
「俺は文字鑑定確かに得意ですが、それ活かせる案件ですか」
興味津津と言った風に、さらに問いかけた。
「そうだな、まあ急ぎの件ではないんだがな。難波、このチラシ見てもらえないか」
縦にくるくる丸めた棒状のものを乙彦に手渡した。難波ではないが受け取り引き継いだ。
「拝見します」
押しいただくようにして、難波は机の上にゆっくり開いた。紙の端をほんの少しおさえるようにしてまじまじと眺めた。隣で更科も覗き込もうとし、ぎょっとした顔で目を見開いた。
「ホームズ、これって」
「アジ文字、いやゲバ文字ともいう」
小声で難波がつぶやき、改めて文字を音読する。
B4のわら半紙ど真ん中に真紅の四文字。
”悔い改めよ”
乙彦にもそのように読めた。
どこかの宗教ビラだろうか。
手書きではなく、コピーであることも把握できた。
読みやすいことは読みやすいのだが、漢字が妙に簡略化されている。やたらと四角く刷毛で一筆書きしたようにも見える。
「先輩、これ、どうされたんですか」
ほよよんと、やわらかく更科が指差すと、
「たった今、あの、二年英語科の」
「要はりっちゃんですね」
さらっと南雲が注釈をいれる。
「そう、あの立村が南雲を通じてこのビラを持ってきた。なんでも二年A組女子の靴箱に一枚ずつ入っていたらしい。血相変えて飛んできた」
━━まさか。
ついさっき立村と疋田が駆け抜けていったのは、このことなのか!
思わず先輩に乙彦も声かけた。礼儀を持って立ち上がった。
「生徒会室に来る前、立村たちを見かけました。規律委員なのに全力で廊下を走っていたので何事かとは思ったのですが」
「たかが宗教サークルのチラシを無差別配布しただけという気もするんだが、そうするとうちの高校にそういう集団があるかという疑問が湧く。俺たちが知る限り青大附中・附高にそういうサークルは存在しなかったし、学校側からそもそも許可が下りるわけがない。宗教に関するサークルが存在するとしたら思想的に幅広いうちの大学だが、大学生がピンポイントで二年A組の女子靴箱にだけ置くかってことになる。いくら布教に力を入れていたとしても、そんな間抜けなことは普通しないだろう」
「そうそうなんですよ。ね、先輩、疋田さんも証人として来てくれたんで助かりました。りっちゃんの勘違いじゃなさそうなんで先輩に報告した次第なんですがどんなものでしょう」
「南雲ならまあ信用できるしな。ま、そういうことでこれから俺たち規律委員で職員室に報告しに行くんだが、清坂ちゃんに一言声掛けしておこうかなと思った次第なんだ。清坂ちゃんそろそろ来るかな」
難波がおもむろに答え、さらに問いかけた。
「清坂は職員室に寄ってからここに来ることが多いので時間がかかると思います。むしろ職員室に足を運ばれたほうが顔を合わせやすいと思います。恐れ入りますが先輩」
しっかりと声を抑え、礼儀をがっちり保った声で確認をした。
「規律委員会において、評議委員会同期の立村がご迷惑をおかけしているようで、真に申し訳ございません。元評議委員同期として、また友人として、生徒会役員として、お詫び申し上げます! 今後このような失礼な態度を取らないよう厳しく指導いたします」
びっと立ち上がり、四十五度の角度で、しっかりと礼をした。同時に更科も立ち上がりそれに習い、最後は乙彦も付き合った。
南雲が首を振りつつ規律委員の先輩に向かい、
「先輩、これからもりっちゃんの話は俺がちゃんと引き継ぎます。ご迷惑をおかけすることはないと思うんで、今日のところは職員室いきましょうよ」
懸命になだめている様子だ。
━━一応礼をしているが、それって必要なのか? そもそもそんなに立村は規律委員会で悪いことしているのか。少なくとも今のことは、間違いじゃないだろう。
理不尽さを感じるものの、難波と更科の態度を真正面から見てしまうと、つられてしまう自分の単純さ。頭を下げたまま乙彦は横目で様子を伺った。
「悪かったな。お前らがあれの一番の被害者だものな」
生徒会役員を吊るすわけでもなさそうで、規律委員の先輩はねぎらいの言葉をかけてくれた。
「とりあえずはこういうことがあったってことを共有したかったってだけだ。ちょっとばかり面倒なことが起きそうな気もするので、今度は清坂ちゃんのいる時にでも足を運ぶよ。いやあ、でも、あの疫病神がなあ。本条だけじゃなくて清坂ちゃんまでも」
「先輩、清坂さん職員室にいますよきっと、こちらへどうぞどうぞ」
南雲が先輩を外に誘導し、引き戸をきっちり締めるまで難波と更科は最敬礼のポーズを崩さなかった。




