7 どんでん返し(4)
図書館には知り合いを見かけなかった。幸い隅の席が空いている。座ったとたん一気に眠気が襲ってきたのは早朝バイトの副作用か。ふっと息を吐いて鞄に顔を押し当てた。
短くも、なまめかしい夢を見た。
──まずい、寝すぎたか。
慌てて周囲を見渡す。時計を見上げる。二十分も経っていない。
──いったい何なんだ、いったい。
ひとりでぶつくさ言ってもしょうがない。夢の内容自体はごくありふれたものだし、誰に話す必要もない。ただ、真昼間の転寝に似合う夢ではなかった。頭の中を覗かれる心配はないし、乙彦の座っている席には誰もいない。つまり、ひとりで完結すればいいだけのこと。
──寝言なんか言ってなかっただろうな。
さすがにそのあたりは確認しようがない。とりあえず何事も起きていないようなので胸を撫で下ろす。ほんの僅かの間に見た、紳士の誇りを問われるような幻は、乙彦ひとりの中に沈んでいるだけだ。
教科書とノートを開き、ゆっくり息を吐き、身体の奥底を整える時間を取ることにした。今日は無理に生徒会室へ行く必要もない。実力試験の準備を優先しただけと言い訳すればいい。評議委員代行にまつわる問題は明日の朝、麻生先生の仕切りで話し合いが行われるはずなので、それから片を付けてもいい。
──雅弘に会って話でもするか。
青大附属にまつわるさまざまのことで疲れ果てた時、いつもなら雅弘の家に遊びにゆく。別に愚痴をこぼすわけではない。学校とは全く関係のない話でしょうもなくはしゃいだり、多少兄貴風ふかせてふんぞり返ったりもできる。頭を空っぽにして盛り上がることのできる、数少ない相手だった。
いつもなら、駅前の佐川書店に足を運んで声をかけに行くのだ。
──いや、だめだ。
シャープを握りしめ、何度もノートをつつく。これだけは雅弘に知られてはならない。絶対に勘づかれてはならない。一度ではない、忘れた頃にふっと夢に現れる、あのことを。
──さっき生徒会室でありもしない噂を連ねていたあいつらが、よりによって水野さんの話なんかするからだ。そうだ、あんなふざけた妄想を繰り広げるくらいなら仕事しろ。まるで俺が、親友の恋人を狙うような人間の滓のような言い方しやがって!
いったん燃え立ったものを抑えるのは人前では無理だった。
──出直そう。
玄関に向かい、ふとロビーに目をやると、
「関崎、遅かったね」
静内がいつものさらりとした笑顔で柱の椅子から立ち上がった。
──どうしたんだろう。
乙彦は近づいてまじまじと静内の顔を覗き込んだ。
「何か、変わったことでもあったのか」
「まさか。暇だったからちょっと座ってただけよ」
「今日は評議の打ち合わせでもあったのか」
「ないよ。全然。もう帰るなら途中まで一緒に行こうよ」
なぜか妙に静内の様子が気になる。何にうきうきしているのか、いったい何が楽しいのか、やたらと笑っている。制服のブレザーも、心なしかぴっちりしているように見える。別に太っているわけではないようなのだが。
「生徒会、寄るの?」
「いや、今日はやめておく」
とりあえずは靴を履き替える。玄関には数名時間つぶし目的の生徒がうろついているが、乙彦の知り合いはいない。静内も誰かに声かけられることはなかったようだった。
「それにしても久々だね。こうやって話すのって」
「全くだ。名倉とは毎日顔を合わせているんだがな」
「名倉はねえ」
静内は言葉を濁した。
「まあいろいろありそうだけど頑張っているようでなにより」
──変なことを頑張られても困る。
ふたりとも、心の奥に熱い革命の炎を燃やしている。そのことを知るものは乙彦以外にいない。ゆえに乙彦もかつてのように正直者ではいられなくなる。それがしんどい。
──名倉が言うように、俺だけ王道行ったってどうしようもないだろう。
静内の横顔をちらと見て話しかけようとしたが、言葉がうまく出てこない。
「どうしたのよ」
「いや、疲れた」
「生徒会で?」
「それもある」
いや、もろそれだと言いたいが、理由を問われたら困るのでぼやかしておく。
「名倉からも聞いているだろうが、とにかくいろいろ大変なんだ」
「A組も大変みたいだしね」
自分の襟をさりげなく直す静内の仕草が、どことなく幼く見える。
「評議委員会でもいろいろ噂流れててね。あの人、まだ来てないんでしょう」
古川のことだろう。静内は詳しい話をほとんど知らないはずだが、新学期が始まってから古川が一度も委員会に参加していないことは承知している。
「それも問題のひとつだが、相手のあることだ、待つしかない」
「そう、待つしかない、か」
自転車を引き出し、校門を出るまで静内は考え込むように首を回していた。
「関崎は待ってられないタイプだよね」
「内容にもよるがな」
「そう、だからなんだね」
大きく深呼吸し立ち止まり、静内はじっと乙彦の目を見据えた。
「だから、あの人のマンションに、この前行ったってわけなんだ」
自転車のベルが響いた。自分の指が無意識のうちにはじいていた。
──なんだと、なんだそれ。どういうことだ? なぜ、なんで、知ってる?
古川こずえの家に行って引っ越しの手伝いをしたことは紛れもない事実だ。
やましいことはなにひとつない。
だが、なぜ、そのことを静内が知っているのか。
その出どころが分からない。
「関崎、本当にあんた、嘘つけないんだね。別に脅してるわけじゃないよ。たまたまA組の男子評議さんがさっきあせった顔して麻生先生に直談判してたのを聞きつけただけ」
「藤沖がか」
「そう。藤沖くんが必死でね」
静内は冷静に、乙彦の視線をそらさずに続けた。
「このままだとあの人が評議から外されてしまうから、早く連絡を取って学校に来るように説得してくれって頼んでたよ。関崎に頼んで引っ越しの手伝いさせたから、居場所はわかってるはずだからってね」
──藤沖、あいつ、なんでそんな重要なことを大声で。
舌打ちしそうになる。
同時に、静内の瞳に吸い付けられる。
最近やたらと目が大きく感じられるのは気のせいか。
──妙だ。やはり最近の静内はおかしい。
──何かあったのか。あったはずだ。
──名倉も何も言わないが、絶対になにかあったはずだ。
──そうでなければ、こんな大きな目で、問いかけないはずだ。
問いかけ方が見つからない。
こんなまなざしの静内には。
乙彦の知る、唯一の誘い文句が口からこぼれ出た。
「ここでは話せない。カラオケ行くか」
静内は物言わず、乙彦を見つめたまま大きく頷いた。
今のような食い入るようなまなざしで見つめられた記憶はあるのだが、それが誰だか、乙彦には思い出せなかった。




