3 思い当たるふし(2)
てっきり古川や立村が残っているかと思っていたのだが、既に退散しているようで、オートロックのガラス戸を抜けても誰もいなかった。
「うちの嫁が古川を回収しているからなあ」
乙彦の問いに、菱本先生……いまだ名乗りなし……はこともなげに答えた。改めてその姿を見ると、ジャンバーにジーンズといった、学校内ではど顰蹙を買いそうな教師らしからぬ格好だった。いや、
──水鳥中学なら問題ないかもしれないが。
青大附属ではちょっとまずいだろう。
「まあ車に乗れ。うちからはすぐそこなんだがな、トランクに重たいもんが入っているんだ、あとで中に入れるの手伝えよ」
すでに友だち口調で乙彦をせかす。見上げた顔は、確かに若い。
──雅弘の父さんをもっと若くした感じだな。
「ありがとうございます。失礼します」
助手席に乗り込み、シートベルトを探した。まずはこれからだ。
「関崎、ずいぶん手際いいなあ」
「シートベルトは社会の義務です」
「すぐそばだぞ。そんなしなくてもな」
「その一瞬の油断で取り返しがつかなくなることもあります」
両親の口癖をそのまま繰り返した。いや、本当にそうだろう。自分の奥さんを連れてくる時も、まさかシートベルトさせてないなんて言ってないだろうか。それは絶対にまずい。
「わかったわかった。じゃあ行くか」
シートベルトごときで議論もむなしいと悟ったのか、菱本先生は素早くエンジンをかけ、乙彦に笑いかけた。
「じゃあ行くぞ、青大附高のヒーロー君!」
「関崎、君は青大附中に前、顔出してたよなあ。ええとなんだったけか」
「はい、生徒会と評議委員会の交流会で、水鳥中学の代表としてきました」
たぶん立村からそのあたり話は聞いているのではないだろうか。意外と到着までには時間がかかっている。手持ちぶたさで音楽をかけるにも中途半端な距離とかで、結局語り合いとなる。青大附属の人間はいつもそうだ。
「ああそうだ! 立村がご執心だったあれだ! それで確か俺の記憶だと、生徒会と協力して合同座談会もやったよな」
「はい、あの中にいました」
一番のハイライトのはずなのだが、そこに行きつくまでの半年間があまりにも長すぎて、乙彦にとっては印象が薄い。いろいろあった。本当に大変だった。つい先ほども尾を引いている問題の張本人と話をしたばかりだ。
菱本先生は特に何かといった風でもなく、いったん信号で止まった。だいぶ車内も温まってきたようだ。
「そこで立村たちと友だちになったってわけか」
「はい。おかげで青大附高に合格できました」
嘘ではないのでしみじみと答える。菱本先生がほうと頷く。
「立村は気に入った奴にはせっせとご奉仕するからなあ。関崎も惚れられたんだろう」
「そういうわけではないですが、一生懸命勉強に付き合ってくれました」
「例えば」
「青大附中で使っていた問題集や、カセットテープ、その他過去問題の情報などをことあるごとに教えてくれました」
嘘ではないし悪いことではない。事実、乙彦と一番仲良くしてくれたのが中学三年の、あの時期だったと言えなくもない。一年後まさかこんな訳の分からない関係になるとは、正直乙彦も思っていなかったのだが。
信号が青に変わった。ゆっくり車を滑らせる菱本先生。
「外部から入学するのは、中学から入るのと違った苦労があると思うんだが」
「中学受験で落ちたのでそれは覚悟してました」
これも当たり前だ。青大附属の試験はかなり特殊であり、満点の感触がたとえあったとしても不合格となるのは小学六年の卒業間際に経験している。
「奮起したっつうわけだなあ。で、どうだ、今青大附高に来てみて一年だろ。古川から聞いた話だと、思う存分高校生活をエンジョイしていると聞いているんだがな。それと、まあなんというか、いろいろ面倒なことも引き受けてくれているようで、古川からもくれぐれも、関崎に失礼な言動がないようにと俺が釘を刺されちまってる始末だ。たまったもんじゃあねえなあ」
けらけら笑う。本当にこの人は中学教師なのだろうか。
「ちっと話が戻るんだがな。中学三年の頃の立村と、今とだとだいぶ雰囲気変わってるだろう? 驚かなかったか?」
「はい、驚きました」
自然と口に出た。嘘ではない。
「そうか、例えば」
「中学時代の立村は、あの」
瞬きして姿を瞼の裏に蘇らせてみる。少し汗ばむくらい車内が暑くなってきている。悪いが暖房止めてもらっていい状態だ。いい言葉が浮かばない。いったん黙って口の中で転がしてみる。
「いろんなことに前向きで、一生懸命度が高かったような気がします」
「一生懸命度、か」
ふふと笑う気配あり。
「今は、一生懸命ではないという感じか?」
「いえ違います。誤解しないでいただきたいのですが」
慌てて訂正する。立村がらみの件については言葉を本当に選ぶ。
「中学時代が表立って頑張っていたのに対して、今は影に隠れて動いてるといった感じです」
「なんかいい子ちゃんの言い訳だなあ。もっと本心語ったっていいんだぞ。別に俺は立村に言いつけたりなんぞしない。そもそも俺、立村に思いっきり嫌われちまってるからなあ」
自覚はあるらしい。思わずうつむいて噴き出しそうになる。
「どうした、受けたか」
「いえ、菱本先生が嫌われている以上に、僕も一年の頃、もろ避けられました。今はだいぶ前に戻ってきましたけれど、昔ほどじゃないです」
「お前も避けられたのか! 仲間だな、同士だな!」
──もっとも地球が壊滅した後も許されないというほどではないと思うんだが。
妙に連帯感を感じている菱本先生ののりに、だんだん心地よさを感じてきてしまう。立村には悪いが、この世の終わりが来る前に、普通の関係で十分行ける人ではないだろうか。いわゆる、青大附属の「わるくない」教師、というレベルでだが。
「でもなんで避けられたんだ?」
「さあ、わかりません。オリエンテーションで普通に話をしようとしたら」
「したら?」
わざわざ路肩に車を止める菱本先生。なんなんだこれは。
「学校では他人の振りをしておいたほうがいいと、立村本人からはっきり言われました」
「他人の、振り、か」
完全にエンジンを切り。菱本先生は腕を組み頷いた。
「まあ、なあ。事情は関崎も把握しているだろうが、そういうことなんだ」
「今は普通の友だちとして接してますので問題ないです」
言い切った。なんだか喉に引っかかったものがある。えへんと咳払いをしてみる。取れない。
「ただ、卒業するまでの間にはなんとかして、立村をあの頃のあいつに戻したいとは常々考えてます」
突然声が干からびた。うまく声が出ない。もう一度咳払いをする。
「無理しないでいいぞ。ゆっくりと言っていいぞ。なんだ、立村をあの頃のあいつに、ってことは中学時代にか」
菱本先生が両膝に手をついて、無理やり乙彦のほうに向いてくる。シートベルトが見るからに邪魔そうだ。
「はい、その通りです。あの頃の立村は、自分を高めるためにはさまざまな努力をしてきてましたし、体育大会でクラスの足をひっぱりたくないからと言っては陸上部だった僕に特訓を申し入れてきました。その他、いろいろありますが、高校以降のようにひっそり息をひそめてこそこそと動くようなことはしてません。もっと表立って堂々とふるまえるようにしてやりたいと思ってます」
ふうっと菱本先生が息を吐いた。
「やっぱり古川はよく見ているよなあ。まったく」
改めてクラッチを踏む気配あり。
「さてと、ここからは急いでうちに向かうぞ。酒は出せないがオレンジジュースだったら山のようにある。ゆっくり語ろうな、関崎」
立村が野々村先生に迫られたという噂も、単に青大附属の教師たちがやたらと生徒を思う気持ちがあふれてしまっただけのような気がしてきた。
乙彦にとってはまんざら悪くない。古川の吹込みがどんなものかも気になるし、ここはしっかりカラオケを楽しませてもらおうと決めた。腹の虫も鳴き出した。




