3 思い当たるふし(1)
霧島の勝ち誇った表情と立村のやけっぱちな微笑を見送ったのち、乙彦はぼんやりと玄関口に腰かけていた。ここで待っていなくてはならないようだったし、なんだか一気に疲れがどっと出た。はっきり言って動きたくない。
──まあいい。俺にはやましい節などないからな。
なぜ、菱本先生が折り入って乙彦と話をしたいと言い出したのか、正直全く訳が分からない。もともと青大附中の教師と青大附高に外部生として入った乙彦とはなんの縁もないはずだ。パンの間に挟まった具のような連中……立村であり古川であり、また清坂、霧島など……とはつながりがあるけれども所詮乙彦は外様だ。よっぽど何かがない限りは接点を持つことなどない。
──古川が俺のことをどう言いふらしているかが気になるが。
もう乙彦も慣れている。青大附高副会長としての立場が自分の思っている以上に周囲に影響を及ぼしているらしいということに。
──さて、どうするか。
立村がとことん嫌っていた、中学時代の恩師がどんな奴かじっくり観察し今後の話の種にするのも悪くない。扉を開けて空気を入れ替えた。しっかり掃除したとはいえ、やはりむせそうだ。
「よお、君かあ!」
扉の向こうからどでかい声がした。思わずのぞき込み直す。
「あ、あの」
どもりそうになるのを堪える。目の前にひょっこり現れたその男性が、
──地球が破滅してもあいつを俺は許さない!
などと立村に罵倒されまくられていた、かの菱本先生であることは間違いなかった。反射的にぺこりと頭を下げた。
「初めまして。僕が、青潟大学附属高校二年A組、関崎乙彦です。よろしくお願いします」
破顔一笑、目の前の男性は乙彦の両肩を親しみ込めてどっしり重みをかけてきた。まだ名乗っていないのに、
「そうかそうか! 君なんだなあ。いろいろ古川や清坂からうわさは聞いているぞ! いつか関崎、君と熱くこれまでの出来事について、腹割って語りたかったんだが、ひょっこりこんな機会もあるもんだなあ。よし、今日は無礼講だ。さあまず外行くか!」
「外、ですか?」
「当たり前だろう! さすがにここは人様の家だ。これから古川とうちの嫁が一緒に来て片づけの続きをするはずだ。女子の家だからなあ、野郎に見られたくないものもどっさりあるはずだ。今日は全部うちの嫁が手配してくれるはずだ、どんと任せておけ! んで、俺はこれから、関崎、君とたっぷり語り合いたいぞ。霧島もお前のことを非常に買っていたからな。なによりもだ! あの立村を」
まずい。とにかく黙らせよう。ここは公共の場だ。マンション内、誰が聞いているかわからない。これはうわさに聞いた通り、一筋縄では行きそうにない。もともと青大附属の教師は乙彦の認識している「教師」のイメージを大幅に覆すキャラクターの持ち主だった。今さら驚いてもしょうがない。
「ではどこに行けばいいでしょうか」
「そうだなあ、杉本から聞いたところによると、関崎、君はカラオケをこよなく愛する美声の持ち主だそうだが、自覚はあるのか?」
──いったいどこでそんな噂が流れているんだ?
口が開いたままふさがらない。菱本先生……まだ名乗りはなし……は親しげにまた肩をばしばしぶったたいた。口元にげんこつをあててマイクのポーズだ。
「歌は好きですが好みによります」
「それならうちに来い!今日は嫁がここに泊まり込みになるからな。うちにはカラオケセットが一式ある。誰も知らないだろうが、俺もカラオケはちょっと自信があるんだぞ。カラオケボックスみたいな金のかかるところよりも、教師の家で安全に歌いまくるほうが、いろんな意味で楽しいと思わないか? もちろん食い物もあるから安心して来いよ」
なんだか教師の業務外としか思えない言動だが、どちらにせよ話はしなくてはならない。いや、というよりも、なんというか、
「菱本先生、ひとつ伺いたいのですが」
「なんだ、言ってみろ」
「さっき霧島くんから、今回のことについての状況説明を聞いていたのですが、そうではないんですか」
少し話を戻す必要があるのではと感じた。
いや、そうでもしないとつい、
──菱本先生、カラオケセットの楽曲はすべて演歌ということなどないでしょうか?
思わずのりのりで尋ねてしまいそうだった。まずい、一瞬のうちに飲まれてしまっている。しっかり首根っこつかまれてしまっているようだ。
菱本先生は一瞬黙った。素の表情がほころびた。すぐに顔を引き締めた。
「まあなあ、普通は教育的指導だがなあ。今日はなんてったって春休み中だ。古川や立村の様子を見ても、まあ大したことなさそうだしなあ。立村は弟分の霧島が大喜びで引っ張って行っちまった。古川はうちの嫁と一緒にミーハー話に盛り上がって気分よくなるだろうよ。まあ、俺はまず、関崎とじっくり腹を割って語り合いたいってことだ。カラオケ、好きだろ? さあ行くぞ!」
ここまでの会話はすべて、扉を開けたまま行われた。
ちらりと隣の部屋の窓が開く気配を感じたが、もう知らないふりをすることにした。あとで騒音抗議がきたら、それはその時、古川と、菱本先生の奥さんに対処してもらうしかない。なるようになるしかない。鼻歌ふんふん状態の菱本先生にまずはくっついていくことにした。
菱本先生が手元の鍵をしっかり閉め、改めて扉を見つめている。
「しっかし、いいマンションだったな」
過去形の使い方が、妙だった。




