62 塩にぎりの朝 宿泊研修三日目(1)
本当はオールナイトで語り合いたい気持ちもあったのだが、ベッドに横たわり、目を閉じた次の瞬間には、もう朝が来ていた。合宿という名のつく行事では、いつもこのパターンを繰り返している気がする。
──今回は一日目だけでも、きちんと夜に深い話ができたのだから、よしとするべきか。
自分が社会的に一歩成長したのだと思いたい。時計を見ると六時半を回っていた。普段目覚める時間よりも遥かに遅い。明日からはまた「みつや書店」での早朝バイトが始まるのだが、果たして無実に出勤できるのか、乙彦は密かに心配になった。
「関崎くん、おっはよー!」
声を掛けてきたのは、昨日、臨時ホームルームで熱くぶつかり合った女子陣の面々だった。
「おはよう。早いな、みんな」
「そうよ。今日はね、早朝ライブがあるから気合を入れてるの」
萌崎がゆったりと、しかしにこやかに答えた。彼女たちはまだ制服には着替えていない。
「るりちゃんの『吹鳴演舞』でしょ。あと、時間があれば疋田ちゃんのモーツァルト・コンサートもあります!」
「芸術的な朝だな」
心底そう思いつつ言葉にすると、疋田もつられて笑った。
「関崎くんがOKを出してくれるなら、伴奏しまーす!」
とお誘いまでしてくれた。もちろん断る理由などない。歌える場所があれば、乙彦はいくらでも声を張るつもりだ。
「そうだ。江波たちが言ってたけど、関崎くん、讃美歌に興味があるんだって?」
今度は「ぶたかん」森宮が質問してきた。女教師モードは影を潜め、朝の気怠さが残る柔らかな表情だ。
「よくわからないんだが、江波には勧められたよ」
「だったら、私たちと一緒に練習しない? いえね、私たち、中学時代の友だち……ほら、昨日来ていた、ゆいちゃんの『結婚里帰りパーティー』の時に讃美歌を歌う予定なのよ。その練習をしていたんだけど、関崎くんのレパートリーを増やすためなら、喜んで協力するわ。来なさい、来なさい!」
「歌詞はわからないんだが、大丈夫か」
正直、格調高い「讃美歌」の世界にはこれまで一度も触れたことがない。しかし、歌詞さえもらえれば断る気はさらさらなかった。
「食事が終わったら、歌詞カードを用意しとくね」
萌崎が相変わらずののんびり口調で答えた。朝から本格的な発声練習ができるということだ。乙彦は期待を胸に、一階のキッチンへと向かった。料理班の二人は、すでに戦場に立っているはずだ。
「おはよう、関崎」
「早いね」
思った通り、小折が手際よく炒め物をし、立村が巨大な鍋で米を炊いていた。朝食までまだ時間はかかりそうだが、食材はそれなりに揃ったらしかった。立村が現状を説明してくれた。
「海苔がたくさん余ってたんだ。おにぎりは大丈夫だよ。具材は今朝、小折とコンビニに行って、ツナ缶をあるだけ買ってきた。マヨネーズは残っていたし、塩胡椒もたっぷりある。あと、それと……」
次を引き取ったのは小折だった。ニヤニヤと楽しげに笑いながら、
「俺も今まで知らなかったんだけどさ。この坂を少し下りたところに『朝市』があるんだよ。地元の人……特に朝が早い人向けの店なんだけどさ。もう、朝っぱらから酒をかっくらってる親父さんたちがいて、まじでびびったけど、そこは揚げ物とかが充実してたんだ。おにぎりの上にちょこっと乗せる程度であれば足りそうだったから、まとめて購入してきたぞ」
「そう。だから腹持ちは良いと思うよ。七時過ぎにおつゆも作るから待ってて。食べ終わったら、コーヒーか紅茶、ハーブティーのサービスをするから」
二A料理班コンビのホスピタリティには微塵のブレもない。だがそれにしても、朝から酒とは……。
「この辺りには、そういう生活の人たちがいるのか。朝から酒とは信じがたいな」
「ああ、そうだよ。夜に漁をする人たちが戻ってきて、『お疲れさん』って感じで一杯飲んで帰るんだ。朝と夜が逆転している人たちが結構いるんだよな。俺も親父からそういう人たちがいるって話は聞いていたけど、生で見るとやっぱり衝撃だよ。同じ青潟でも、いろんな世界があるんだってこと、この二泊三日で嫌ってほど学んだよな。なあ、立村」
「本当にそうだね。自分の見ている窓だけがすべてじゃないって思い知らされたよ。もっと見たいよね、いろんな景色を」
白衣にマスク、そしてビニール手袋をしっかりとはめた二人の姿は、まさに2Aの誇りだった。ふと思いつき、一旦部屋へと戻った。まだぐっすりと眠っている藤沖と片岡に気づかれぬよう、カメラを手に取る。キッチンへ戻り、白衣姿の二人の勇姿に向けてシャッターを切った。
「え、どうしたの?」
「いや……貴重なショットを撮っておきたいと思ったんだ」
「でも、あんまり冴えない光景だと思うけどなあ」
「いや、十分に冴えている。俺にとっては完璧な一枚だ」
戸惑う二A料理班を前に、乙彦は心からの謝意を伝えた。
「お前たち二人のおかげで、この合宿、最高の食事を楽しめた。まだ早いかもしれないが、今のうちに言っておきたい。ありがとう。……これからも、一緒に頼む。次回は俺も魚を捌けるように修行して、お前らを手伝えるようになるから」
二人が顔を見合わせ、目元を綻ばせた。マスクで隠されてはいたが、その笑顔は確かに伝わってきた。
「こちらこそ、喜んでもらえて嬉しいよ。ありがとう」
立村が代表して、穏やかに礼を返してくれた。
出来上がった「塩むすび」の山もしっかり撮影した後、乙彦はロビーへと向かった。そこにはすでに、藤沖と片岡、そして料理班の二人を除いた男子たちが集結していた。
「おはよ! 関崎も腹、減ったか?」
「ああ、めちゃくちゃ空いたな。だが期待していいぞ。塩むすびだけじゃない、いろんな『美味いもの』が揃っているようだ」
「うわ、そりゃ楽しみだ。やっぱり『2A料理班をなめんなよ』だよな!」
いつものスローガンを口ずさみつつ、江波がふと乙彦に問いかけた。
「んで、どうだった? お前ら『管理班』の様子は」
「俺は、管理班だったのか?」
乙彦が思わず呟くと、周囲から失笑が漏れた。
「自覚ねえのかよ、関崎は。まあいいや。大変だろうけど俺たちもサポートするから安心しろ。昨日はエラいことになっちまったけどさ、英語劇を応援してもらえるんなら、俺はもう何も言わねえよ」
「そうそう、要はそこだよな。結局、女王様は弟分が心配でならなくて、グチグチ言ってただけなんだろ。立村も災難だが、まあいいさ。立村の『慰めタイム』は俺たちがしっかり確保しておくよ。それと、うちの女子たちなんだがな」
直中も頷き、言葉を継いだ。
「しばらくは古川と顔を合わせなくてもいい、ってことで落ち着いたよ。ほとぼりが冷めるまで、この距離感でいればいいと俺は思う」
皆、無言でその言葉の意味を噛み締めていた。
「そうだな。理屈と本音は別だもんな」
「そういうこと。2A料理班あらため、下ネタ女王様の『下僕班』たる二人に、まずは任せるとするか!」
立村と小折。偶然にもこの二人が、これから先、古川こずえとの数少ないパイプ役となる。立村は品山という居住地の地理的条件から。小折は古川の弟の才能を支援したいという熱意から。
それはつまり、
──女子たちは、あの「えげつないほど台所を漁っていった女性」の娘と、直接顔を合わせずに済む。
という、残酷だが現実的な妥協案でもあった。
愛すべき2Aの「下ネタ女王」として古川こずえを再び受け入れるには、まだ時間が必要だということを、昨日の臨時ホームルームで乙彦はいやというほど感じていた。立村や小折の提案に女子たちは頷いてはいたが、男子たちのように100パーセント手放しで歓迎しているわけではない。その微妙な空気がロビーに漂っていた。
「時間だよ、時間。卒業したら、みんなで酒でも飲もうぜ」
「江波、小折みたいなこと言うんじゃねえよ。そもそもお前、酒飲めるのか?」
「たぶん大丈夫だろ。ウイスキーボンボンは食えるからな」
「それ、もろに法律違反じゃねえか!」
皆でふざけ合いながら、乙彦は漂ってくる朝食の香りに、鳴り止まない腹の虫を宥めていた。
「お待たせいたしました! ご飯ができたので、上の皆さんも呼んできてください」
立村の澄んだ声に、男子部隊が階段下から一斉に叫んだ。
「朝飯できたぞーっ!!」
やがて扉の開く音とともに、女子たちがゾロゾロと降りてきた。まだ制服を着ていないのは、食べてから着替えるという合理的な判断だろう。男子も同じだ。この場所で過ごす最後の時間に、まだゆとりがあることを実感した。
大テーブルの上には、海苔を巻いていない真っ白な「塩むすび」が皿いっぱいに並んでいた。脇にはパリパリの海苔が大量にセットされている。さらにその傍らには、佃煮、ツナマヨ、高菜、そして朝市で仕入れてきたという「唐揚げ」が豪快に並んでいた。食材が底を突いたと聞いていたはずなのに、この充実ぶりは一体どういうことだろう。
「塩の分量は適当なんだけど、物足りなかったら言ってください。作り直します」
「素手で握ったんじゃなくて、ちゃんと手袋を使ってます。苦手な人がいたら別の方法で用意しますから」
料理班の気遣いは凄まじかった。幸い、2Aにそこまで潔癖なこだわりを持つ者はいなかったようだ。皆、寝ぼけ眼を擦りながらも、笑顔でテーブルを囲んだ。
「立村くん、小折くん、ありがとう! 美味しそう!」
「海苔をギリギリまで巻かないのって、なんで?」
「あ、そっか。食べる直前に巻いたほうがパリパリなんだ! それ、『手巻き寿司理論』? かしこーい!」
騒がしくも温かな朝食が始まった。乙彦の席にも、特別感のある握り飯が並んでいる。遅れてやってきた藤沖と片岡が、麻生先生と一緒に現れ、その光景に素直な感動の声を上げた。
「これ……あいつらが作ったのか?」
「そうらしいです。証拠写真も撮影済みです」
「でかした!」
乙彦にガッツポーズを見せた後、麻生先生は席につき、全員が落ち着くのを待った。
「美味しそうだね」
とりわけ食欲に忠実な片岡は、唐揚げから目を離せない様子だ。
「近所に朝市があるらしくて、そこで買ったそうです。朝から酒を飲んでいる人が大勢いたそうですよ。料理班からの報告です」
「こんな朝っぱらからか?」
乙彦が説明を補足する前に、麻生先生が「大人の解説」を入れた。
「つまりだな。この辺りは夜に漁をする人たちが集まるエリアなんだ。きっと我らが料理班二名は結構な距離を歩いて買い出しに行ったんだろうな。そこには仕事を終えて、夜の一杯を引っ掛けたい連中が山ほどいる。たまたまそこに遭遇したんだろう。……世の中は広いんだよ、関崎。誰もが朝起きて夜寝る生活をしてるわけじゃねえんだ」
「本当に、そう思います」
乙彦は心の底から同意した。
「青潟の中の『外国』は本当にあるのだと、この二泊三日で思い知らされました」
「……いただきます!」
その声を合図に、皆が一斉にかぶりついた。それ以上、言葉は必要なかった。
焼きたての海苔を巻きつけ、具を押し込み、ひたすら食らう。一瞬のうちに唐揚げが消え、ツナマヨと干し大根の和え物が消え、最後には麻生先生が器用に高菜を平らげた。
「……美味かったな」
「うん」
藤沖と片岡が笑顔で感想を言い合っているのを見て、ほっとした。
──うちの母さんの塩むすびとはまた違うが、これもまた「あり」だ。……ごちそうさま。
濃いめの味噌汁を飲み干し、エネルギーは完璧にチャージされた。
さあ、やるべきことはひとつだ。乙彦は立ち上がった。
「ごちそうさま。皿洗いをやらせてくれ。……こんなに美味い飯を食わせてもらった以上、きちんと洗い物をするのが、関崎家のルールなんだ」
戸惑う料理班の二人に深く頭を下げ、乙彦は皿をまとめてキッチンへと運んだ。後に続く仲間たちが、口々に「おいしかった!」と伝え合いながら押し合いへし合いする様子は、この旅の最後を飾るにふさわしい、ごく自然で、そして幸福な光景に思えた。




