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第5話 王子が眩しすぎる件

「カサンドラ嬢」


 王子に名前を呼ばれた。

 ただそれだけのことなのに、頭の中が一瞬で白くなり、つい先ほどまで何を言おうとしていたのか思い出せなくなりそうだ。


 落ち着け、落ち着けと口から飛び出て来そうな心臓を必死で宥める。

 名前くらい呼ばれて当然だ。


 私は、婚・約・者!


 むしろここで「君は誰?」などと言われたら、その方がよほど大問題である。

 そんなことになったら恥ずかしすぎて、登校拒否一直線だ。


「ごきげんよう、王子」


 どうにか普段通りの微笑みを浮かべると、王子も穏やかな表情のままこちらへ向き直った。


「改めて、入学おめでとう。

 お互いにね」


「ありがとうございます。

 今日から同じ学園で過ごせること、とても楽しみにしておりました」


 口にした瞬間、少し直接的過ぎただろうかと胸の奥がざわついた。

 けれど、別におかしなことは言っていない。

 婚約者なのだから、これから同じ場所へ通えることを嬉しく思っていたと伝えるくらい、何も不自然ではないはずだ。


「ありがとう。

 これから三年間よろしく、カサンドラ嬢」


「……はい」


 綺麗。

 近くで見ると、やっぱり綺麗だ。

 昨日までの自分なら、これだけで三日くらい機嫌よく過ごせたのではないかと思うほど、王子の笑顔には破壊力がある。

 もちろん今だって嬉しいのだが、同時にほんの少しだけ引っ掛かるものがあった。


 王子の笑顔は完璧だった。


 柔らかく穏やかで、少しも威圧的ではない。

 婚約者であるカサンドラに対して礼を欠くところなど一つもなかったし、こちらが話しかけたことを迷惑がっている様子もない。


 けれどそれは、つい先ほどまで彼を囲んでいた生徒達へ向けていた笑顔と、それほど変わらないようにも見えた。

 誰に対しても丁寧で、誰に対しても感じがいい。

 今自分へ向けられているものだけが特別なのだと言えるような違いは、まだどこにも見つからない。


 ――当たり前だ。


 まだまともに話したことすらない相手!


 婚約が決まったからといって、突然自分だけに特別な表情を見せてもらえるわけがない。

 分かっているけれど、それでも少しくらい期待してしまうのだから、我ながら欲張りなものだと思う。


 これから彼のことを知ればいい。

 こちらが王子を知りたいと思うのと同じように、王子にも自分を知ってもらえばいいのだ。


 そのためには、ゲームの悪役令嬢としてではなく、カサンドラ自身として彼と話していくしかない。

 難しいことのように思えていたけれど、やるべきことだけを考えれば案外単純なのかもしれなかった。


 ゲームの中の彼は世界を憎み、最後には王国を滅ぼそうとした。

 そんな結末に至らないよう、彼の事情を知りたい。


 ただの書類上の婚約者には話せないことを、教えて欲しい…!


「カサンドラ嬢?」


「何でしょう」


「私に用があったのでは?」


「…………!」


 そうだった。

 王子の顔を眺めるためだけに、人垣を割ってここまで来たわけではない。

 いや、それも目的の一つではあるけれど、少なくとも建前としては違う。


「ありがとうございます、王子。

 恐れ入りますが、少々お話しするお時間をいただいてもよろしいでしょうか」


 よし、言えた!


 ――では、次に何を話すべきか。


 好きなもの?

 嫌いなもの?

 趣味?

 学園のこと?

 いざ本人を前にすると、聞きたいことが多過ぎて、逆に何から始めればいいのか分からない。


 そもそも婚約者なのだから、その程度のことは既に知っていてもおかしくないはずなのに、自分は王子について何一つ知らないに等しい。


 好きな食べ物も、どんな時間を楽しいと思うのかも、どういう話で笑う人なのかも知らない。

 会話って、こんなに難しいものだったの?

 頭の中で必死に話題を探していると…


「カサンドラ嬢、申し訳ない」


 嫌な予感がした。


「生憎、これから学園長に呼ばれていてね。

 また別の機会に、お話を聞かせてもらってもいいかな」


「あ……」


 そうだった。

 王子は生徒会長なのだ。

 今日の式典でも、生徒会長として新入生へ挨拶していた。

 入学初日の式典直後なのだから、忙しくないわけがない。

 王子は周囲に残っていた生徒達にも視線を向けた。


「皆も、名残惜しいけれど今日はここで失礼するよ。

 話ができて楽しかった。

 ありがとう」


 王子はその場にいた生徒達へ視線を巡らせてから、再びカサンドラへ向き直った。


「……もしかして、急ぎの話だったかな」


 急ぎかと直截に問われれば、決して急ぎではない。


 三年後に悪魔になることを考えれば、一刻も早く事情を知りたい気持ちはあるけれど、そんなことを本人に言えるはずがないのだし。

 何より、今日話したかった一番大きな理由は、単純に王子と話してみたかったからだ。


「いえ、取るに足りないことです。

 お引き止めして申し訳ございません」


「君が謝ることではないよ。

 こちらこそ、せっかく声を掛けてもらったのに」


 少なくとも、迷惑そうな顔はしていない。

 申し訳ないという言葉通りの表情で、本当に予定があるのだろう。

 それだけで、少しだけ救われた。


「それでは、また」


「はい」


 反射的に頷く。


 王子は周囲に残っていた生徒達へ軽く会釈をしてから、扉を開ける。


 すると、廊下にはシリウスが待っていた。

 彼は眼鏡の位置を軽く直す。


 ああ、このポーズは何度も画面の中で見たな…と、ぼんやりと考えていた。


「終わったか。

 そろそろ時間だ」


「そうだね、行こうか」


 二人の姿が廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 ――また。


 王子が自分へ向けた言葉が、頭の中でリフレインする。


 話せた。

 名前も呼ばれた。

 笑ってもらった。


 失礼なことなど一つも言われていないし、むしろ王子は最初から最後まで申し分なく丁寧だった。


 なのに何故だろう。


 目の前にいたはずなのに、彼との間には透明な分厚い壁が一枚あるような気がしてしょうがない。

 もちろん、まだ互いのことをほとんど知らないのだから、距離があるのは当たり前だ。


 ……私、婚約者なの……よね?


 婚約が決まれば、簡単に距離が縮まるものだと思っていたのかもしれない。

 それは甘すぎる考えだったようだ。



 ※



 レンドール侯爵家の王都別邸へ戻った頃には、カサンドラはすっかり疲れ果てていた。


 学園へ行き、入学式へ出席し、前世の記憶を取り戻して、自分の破滅と王子のラスボス化まで知ってしまったのだ。


 おまけにゲームでは一人だった主人公が、この世界では三人に増えていることまで判明している。


 最後には勇気を振り絞って王子へ話しかけたものの、短い挨拶を交わしただけで終わってしまった。

 今日一日だけで、何年分の驚きを消費したのだろう。


「お帰りなさい、姉上」


 玄関ホールへ続く廊下で、聞き慣れた声に呼ばれた。

 銀色の髪に碧い瞳。

 まだ十歳だというのに妙に落ち着いていて、時折こちらより年上なのではないかと思うような口を利く少年。


「ただいま帰りました、アレク」


 何気なく答えてから、カサンドラはそこで初めて気づいた。


 アレク・レンドール。

 五年前からレンドール家で共に暮らしている、五つ年下の義弟だ。


 どんな性格なのかも、何が得意なのかも知っている。

 朝から姉を揶揄(からか)って楽しむ程度には口が達者なことだって、よーく理解しているつもりだ。


 カサンドラとして生きてきた記憶の中に、彼との五年間はきちんと存在していた。

 けれど、ゲームの中では一度も見たことがない。

 カサンドラ・レンドールに弟がいる。

 そんな設定を見た覚えもなかった。


「姉上?」


「……何でもありません」


 危ない。

 また気づかぬ内に人の顔を凝視してしまった。


 ゲームにいなかったと気づいた一瞬、アレクの存在そのものがおかしいように感じてしまったのだ。


 でも違う。

 いなかったのではなく、ゲームに出てこなかったというだけの話だ。


 ゲームの舞台は学園で、アレクはまだ十歳。

 カサンドラの家庭事情そのものが物語の中心になることもなかったのだから、弟がいたとしても画面へ登場する必要はない。


 そもそもカサンドラは、レンドール侯爵家の一人娘である。

 将来カサンドラが家を継ぐにしても、どこかへ嫁ぐにしても、跡継ぎの選択肢が一人しかいないというのは侯爵家にとって心許ない。

 だから五年前、将来有望な少年だったアレクを父が養子として迎えた。


 今ではカサンドラが王子と婚約したことで、彼がそのままレンドール家を継ぐ可能性も高くなっている。

 ゲームに登場しなかったからといって、彼の存在まで疑う理由はないのだ。


 なんて失礼なことを考えてしまったのだろう。

 心の中でアレクに手を合わせて謝っていた。


 ゲームでは一枚絵だった学園に、画面へ映らなかった場所がいくらでもあったように、物語で描かれなかった人間関係だって当然存在する。

 どうやら、自分が知っている世界は随分と狭かったらしい。


「随分お疲れですね」


「そう見えますか?」


「見えます。

 朝はあれほど浮かれて出て行かれましたよね。

 それなのに帰ってきた姉上が十歳くらいお年を召されたように見えて、大変驚きました」


「アレク……?」


「冗談です」


「笑えませんが?」


 全く、そんな風に年長者をからかうものではない。


 けれど、このやり取りには覚えがある。

 ゲームとは何の関係もない、カサンドラとして生きてきた日々の中で、何度も繰り返してきた姉弟の会話だ。

 この世界が何なのかは分からない。

 それでも少なくとも、目の前にいる弟も、この屋敷も、ここで過ごした五年間も、カサンドラにとっては確かに「現実」なのだ。


「それで、王子にはお会い出来ましたか?」


「え、ええ。

 勿論です」


 会ったのは確かだ。

 そこだけは誤解されたくない。


「とても素敵な方でした。

 それに、とても……お忙しいようでした」


「…………」


「何です、アレク。

 その顔は」


「姉上にも、楽しみにしていた菓子を取り上げられた子供みたいな顔が出来るんだなと思いまして」


「アレク?」


「申し訳ありません。

 なんだかいつもと違って…うーん、なんというか不思議な感じで」


 全く申し訳ないと思っていない顔で頭を下げる弟を睨み、カサンドラは歩き出す。

 その背中へ、アレクが不意に声を掛けた。


「――姉上、どこか変わられた気がします」


 足が止まった。

 振り返ると、アレクは少し考えるように首を傾げている。


「朝から思っていました。

 昨日までの姉上とは、何となく違います」


 そして、十歳の少年は何気ない口調で言った。


「まるで、別人のようです」


 心臓が、一つ大きく鳴った。


 別人。

 その言葉を、完全に否定することはできなかった。

 昨日まで知らなかった前世の二十九年分の人生が、今はカサンドラの中にある。

 物の見方も考え方も、昨日までと全く同じではいられない。


 けれど、朝、寝坊した自分を起こしに来たアレクのことは覚えている。

 彼が養子としてレンドール家に迎えられた日のことも、小生意気で賢い弟に些細なことで小言を言われ、軽く逆切れしたこともある。

 それでも翌日には何事もなかったように同じ卓で食事をした。


 それらは全部、誰かから聞かされた情報ではない。


 自分自身の記憶だ。


 王子を一目見て胸が高鳴ったことも、婚約が決まった夜になかなか眠れなかったことも、今日から同じ学園へ通えるのを楽しみにしていたことも。

 前世の記憶が戻ったからといって、カサンドラの十五年が消えたわけではない。


 二つの人生は、どちらかがどちらかを押し退けたわけでもなく、不思議なくらい自然に繋がっている。

 私は、「私」。

 自分以外の誰かになった記憶など、一度もないのに。


「アレク、よろしくて?」


 カサンドラは片手に鞄を持ったまま、もう片方の手を腰へ当てる。

 大きく息を吸い、背筋をぴんと伸ばした。


「わたくしは、王立学園の生徒になったのですよ?

 そして、正式な王子の婚約者!」


 アレクがカサンドラの勢いに吞まれたのか、僅かに目を見開く。


「今までのように貴方に苦言を呈されるような態度を改め、王子に相応しい女性になれるよう決意を新たにしただけにすぎません!」


 気づけば、堂々と言い切っていた。


 アレクは今度こそ青い両目をカッと見開き、愕然とした顔をしている。

 口がパクパクと開閉し、「そんな馬鹿な」とでも言いたげだ。

 そこまで姉の更生ぶりが信じられないというのか!?


 どこまで信用がないのだ、カサンドラ。


「はぁ……。

 まあ、ご自身を顧みられるのはいいことですよ」


 アレクはゆっくりと肩をすくめ、銀の髪をさらりと揺らした。


「何です、その顔は」


「やっと分かりました、姉上。

 慣れないことをしたから、お疲れなんですね」


 重ねて失礼な言葉が飛んできた。

 だが、疲れたのは確かである。

 本当の理由は、誰にも話せないけれど。


「わたくし、少し部屋で休みます」


「分かりました。

 お茶はどうされます?」


「後でいただきます」


 義弟に再び背を向け、自室へ向かおうとしたところで、ふと足を止めた。


「アレク」


 肩越しに振り返ると、アレクは不思議そうに小首を傾げている。


「はい、なんでしょう」


「わざわざ出迎えてくれて、ありがとうございます」


「…………」


 少年の整った顔が強張った。

 動きまで止まっている。


「やっぱり変です」


「何がです?」


「違和感しかありません」


 アレクは真顔だった。


「もう結構です!」


 たまらずカサンドラは声を張り上げ、そのまま自室へ猛進する。


 ――この義弟には、あらゆる面で勝てる気がしない。

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