第29話 想いの向く先
翌朝、カサンドラが教室へ向かう廊下の角を曲がると、少し先の窓辺に朝の光を受ける見慣れた金髪が見えた。
その姿が王子だと気づいた瞬間、意識する間もなく歩調が僅かに軽くなる。
朝の陽光に照らされる輝きに神々しささえ感じて、何度も目瞬きを繰り返してしまった。
この世界にカメラはないが、カサンドラは自分の双眸をファインダーと思いこの瞬間を記憶に焼き付ける。
ようやく視野が広がり、彼の隣にはジェイクがいることも分かった。
二人とも男子寮から登校してきたばかりなのだろう、鞄を手にしたまま窓際に立ち、何やら話をしているようだ。
――相変わらず仲がいい。
声までは聞き取れない距離だったが、こちらへ向かって歩いていくうちに、先にカサンドラの存在へ気づいたジェイクが顔を上げた。
何故かジェイクが身体の向きを変えたところで、王子が何気なく彼を呼び止めたのが見える。
まだ話の続きがあったらしくジェイクは足を止め、再び王子と笑いながら話し始めたのだ。
「おはようございます、王子。
――ジェイク様」
「おはよう、カサンドラ嬢」
「おう、おはよー」
アーサーが穏やかな笑みを浮かべて挨拶を返してくれるだけで、何でもない朝が少しだけ特別なものになったように思えてしまう。
二人は話の途中だったようだし、わざわざそこへ割って入ってまで引き止める理由もない。
カサンドラは軽く一礼して、教室に入ることにした。
「それでは、失礼いたします」
二人の横を通り過ぎると、すぐ背後から先ほどまでと変わらない調子で話を続ける声が聞こえてきた。
別に期待はしていなかったけれど…と、幾ばくかの肩透かし感を覚えるカサンドラ。
昨日、あれだけ自分の本心を話したというのに、ジェイクは今日も普段と何も変わらない。
王子のことをもっと知りたい、それは好きだからなのだと。
普段なら到底口に出来ないようなところまで正直に話したのだから、少しくらい意識されても不思議ではないような気もする。
もしカサンドラが逆の立場だったら、ちょっとは気を利かせようかなと考えるかもしれないのに。
けれど、相手はジェイクである。
こういうことをいちいち気にして態度を変えるような人ではないことくらい、昨日の時点ですでに分かっていた。
むしろ他人の恋愛事情など出来れば聞きたくもないだろうに、最後まで付き合った上で王子のことまで少し教えてくれたのだから。
彼なりには『十分親切だった』と納得する他ないだろう。
カサンドラはそんなことを考えながら、自分の席へと向かったのである。
※
昼食を終えたカサンドラが向かったのは、王立学園の図書室だ。
昨日ジェイクから聞いた話が朝からずっと頭の片隅に残っていたし、昼食中もチラチラと王子の顔を見てはその想いを強くしていた。
王子は夜になると木の下へ腰を下ろし、一人で空を眺めているらしい。
きっと夜空が好きなのだろう。
カサンドラだって、美しい夜空はロマンチックで大好きだ。
特に、この世界の夜空はくっきりと星々が輝いて見え、視界いっぱいに飛び込んでくる壮大さを感じることも多々ある。
そもそも、普通に生活を送っていて「星空が嫌いです」なんて人間がいるとも思えない。
綺麗な星空を嫌う人など、夜陰に紛れて悪事を働こうとする泥棒くらいではないだろうか。
話題としても一般的だし、ジェイクの性格を考えると、かなり気の利いた情報をくれたものだと今になって感心。
もし王子が本当に星を見ることを好んでいるのなら、自分も少しくらい知っておきたいとも思う。
何を好み、何を美しいと思い、どんなものへ心を動かされるのか。
そうした些細なことを一つずつ知ることが出来れば、これまでよりほんの少しだけでも、王子という一人の人間へ近づけるような気がする。
夜空について博識ぶった発言をすれば、付け焼刃でぼろが出てしまうかもしれない。
だが王子がもしも星々の話をしてくれた時、話を理解できて会話になったら彼も見直してくれるかもしれない…
会話の端緒として相応しいのではないか、とカサンドラは胸を躍らせた。
図書室へ入ったカサンドラは館内の案内を確かめ、普段ならまず足を踏み入れない天文関係の書架へ向かう。
インクや木の匂いがほのかに満ちる静かな空間は、カサンドラもお気に入りの場所だった。
目的の書架には星の運行を記した専門書から季節ごとの夜空を図解した本まで様々なものが並んでいる。
試しに手に取った一冊には見慣れない数字や計算式が頁いっぱいに並んでいたので、数頁眺めただけでそっと棚へ戻した。
別に天文学そのものを極めたいわけではないのだから、もう少し気軽に読めるものがいい。
背表紙を順番に眺めていると、『夜空を巡る星座と伝承』という題名が目に留まった。
これなら自分にも読めそうだと取り出して、近くの閲覧机へ運ぶ。
頁を開くと、季節ごとに見られる星座の位置が挿絵とともに紹介されており、いくつもの星を線で結んで人物や動物、道具に見立てた図が並んでいる。
今まで星空など綺麗だと思って眺めるくらいで、そこに一つ一つ名前があることさえ、カサンドラはほとんど意識したことがなかった。
読み始めてみれば思っていた以上に面白かったのだ。
正直なところ、どう繋げればそれがその形に見えるのだろうと首を傾げたくなる星座も少なくなかったが…
昔の人々が同じ夜空を見上げながら様々なものを思い描いたのだと思えば、それすら妙に楽しい。
さらに読み進めていくと、星座の由来となった古い伝承が紹介されていた。
遠く離れた土地で暮らす恋人同士が、離れている間も同じ星を目印に夜空を見上げていたという話。
長い旅へ出た青年の帰りを、娘が毎晩星を眺めながら待ち続けたという話。
生前には結ばれなかった二人が、死後は隣り合う星となって永遠に寄り添ったという話。
ひとつ、ふたつと読んでいくうちに、それまで単に夜空で輝いているだけだった星が、おとぎ話の世界へと早変わりだ。
それに、空はどこまでも続いている。
離れた場所にいても、同じ夜空を見上げれば同じ星を見ることが出来るというのは、考えてみれば素敵なことではないだろうか。
――もし同じ場所で、隣り合って夜空を見上げることが出来たなら――
静かな夜の庭で、頭上には満天の星が広がっていて、その隣には王子がいる。
そんな光景を想像して、思わず悶絶しそうになり体を「く」の字に折り曲げてしまった。
いい! 凄い! ロマンチック!
今日覚えたばかりの星座を見つけて名前を口にすれば、彼も同じ方角へ顔を上げて、穏やかな声で何か答えてくれるかもしれない。
そんな光景をかなり具体的に思い浮かべてしまい、カサンドラは慌てて本へ視線を戻した。
星について少し知りたいと思って図書室まで来ただけなのに、何故いつの間にか二人きりで夜空を眺めるところまで話が進んでいるのだろう。
誰に見られているわけでもないのに頬が熱くなってきて、余計な想像はやめようと自分へ言い聞かせながら次の頁をめくる。
ところが、そこに紹介されていたのは星を見上げながら将来を誓い合った男女の伝承だった。
これではどう考えても本の方が悪い。
カサンドラは一度だけ額へ手を添え、それでも結局は続きを読み始めた。
しばらく星座の本に夢中になっていると、少し離れた席で椅子を引く音が聞こえて我に返る。
何気なく顔を上げると、リゼが教本とノートを抱えて腰を下ろしたところだった。
カサンドラに気づくと小さく頭を下げたので、こちらも会釈を返す。
リゼの赤いリボンが、頭の動きに合わせて軽やかに揺れた。
わざわざ話しかけるほどのことでもないらしく、リゼはすぐに教本を開く。
午前中に受けた授業の内容を確認しながらノートへ何かを書き始めたのである。
涼しい顔で当たり前のように勉強を始めるリゼを見て、カサンドラは思わず目を留めた。
何気ないリゼの行動のように見えるが…
本来、主人公のパラメータを上下させるのは毎日の講義スケジュールであったり、特別なイベントが起こった時に限られているはずだ。
数値で表示されたパラメータが変動し、運動をしただけなのに知力が下がった!
と絶望するような事態が起こってしまう。
だが…
リゼはその枠を自ら壊す勢いで、黙々と授業の復習、つまり勉強を行っている。
本来なら下がるはずのパラメータをここでしっかりとフォローするべく、自らの意志で、努力で補おうとしているのだ。
それはカサンドラから見たら、衝撃の一幕である。
世界の構築はあの乙女ゲームを基にしているが、リゼはその枠組みを全く意識せずに乗り越えようとしているのではないか。
ゲームで表現できる世界は一部でしかない。
自分の意思で、不足しそうになるパラメータを底上げする努力もできるのか…!?
ならばゲーム上のパラメータだけでは、この世界で生きる彼女達の成長を測れないのかもしれない。
ただリゼが昼休みに勉強をコツコツしているというだけで、カサンドラは大きな衝撃を受けたのである。
そんな動揺も知らず、程なくしてシリウスの姿も現れた。
彼もカサンドラへ目線を遣っただけで、目的の本を探すため書架の奥へ向かっていったようだ。
やがて三人は同じ一角にいながら、それぞれ自分のことへ集中し始める。
カサンドラは星座の由来を読み、リゼは午前中の授業を復習しながら出されていた課題を順番に片づける。
シリウスは分厚い本を開いて時折手元の紙へ何かを書き留めている様子が見えた。
頁をめくる音やペン先が紙を擦る音だけが静かに重なり、高い窓から差し込む昼の光が長い机の上をゆっくりと移動していく。
誰かと同じ場所にいるにもかかわらず互いに干渉しない時間は、不思議と居心地が良かった。
――ガタッ。
暫くしてリゼが席を立ち、教本を開いたまま近くの書架へ向かう。
カサンドラも特に気に留めず星座の本を読み続けていたが、次の本を手に取ろうとして顔を上げた時のことだ。
少し離れた棚の前で妙に不自然な動きをしているリゼの姿が目に入ってしまった。
上段にある本を取りたいらしいものの、腕を上げる動きは恐ろしく慎重!
背伸びをしようとしても腰も膝もほとんど曲がらず、まるで全身を一本の棒にしたまま何とか指先だけを伸ばそうとしているように見える。
あと僅かで届きそうなのに、その僅かな距離を縮めることがどうにも難しいらしい。
リゼが何度も深く呼吸をし、覚悟を決めたようにもう一度ゆっくり腕を伸ばした――
するとその横から長い腕が伸び、目的の本を先に棚から抜き取ったのだ。
「これか?」
いつの間にか近くまで来ていたシリウスだった。
「あ、はい。
ありがとうございます」
リゼが本を受け取ると、シリウスはそのぎこちない動きを改めて眺め、怪訝そうに眉を寄せた。
「その動きはどうした?」
「筋肉痛です」
「……そうか」
「はい」
会話はそれだけで終わり、リゼは何事もなかったように自分の席へ戻っていく。
シリウスもまた元いた場所に引き返し、再び書架に並ぶ背表紙を確認し始めたのだ。
二人のやりとりに一瞬ぎょっとして、ハラハラと様子を伺っていたが…
以前のようにリゼが身構えることもなく、シリウスもそれ以上話しかけようとはしなかった。
何事もなくそれぞれの時間へ戻っていく様子に、カサンドラも密かに安堵。
……穏便に、何事もなく時間が過ぎるのならばそれが一番いいことだ。
カサンドラも特に何かを言うことなく星座の本へ視線を戻し、それから暫くの間、三人の間で言葉が交わされることはなかった。
リゼは持ってきた本と教本を見比べながら黙々とノートを取る。
姿勢を変えるたびにほんの僅か顔をしかめてはいるものの、手を止める様子はない。
その真剣な表情は凛としていて、気軽に話しかけられる雰囲気でもなかった。
今週になって初めて受けた剣術講座の影響なのだろうが――
あれほど全身が痛そうなのに、昼休みに遊びに行くでもなく午前中の復習をしているのだから、本当に真面目な子だ。
カサンドラも負けてはいられないと自分の本へ集中し、いくつか星座の名前と由来を覚えていった。
王子は、こういう話をどれくらい知っているのだろう。
何事においても知識が多そうな王子のことだから、教養として星座の一つや二つは当然知っていてもおかしくない。
もし得意げに覚えたばかりの話を披露した直後、「それは知っているよ」と微笑まれたりしたら、それはそれでかなり恥ずかしいかも?
そう考えると、もう少しくらい調べておいた方が安心かもしれない。
そんな理由をつけて隣に積んでいた二冊目へ手を伸ばした頃には、最初に読むつもりだった量などとうに超えていた。
やがて館内の時計へ目を向けたリゼが、顔を上げて眉根を寄せる。
はぁ、と手元に広げたノートに大きな印をつけた。
「こんな時間……
着替えもあるし、行かないと」
午後の選択講義が始まる時刻が近づいていたらしく、慌てて教本を閉じてノートや筆記具をまとめ始める。
カサンドラも時計を確認して本を閉じたが、まだ続きを読みたかったので星座について書かれた本を二冊借りていくことにした。
このまま時間ギリギリまで図書室で粘るより、講義室で続きを読もうと思ったのだ。
「リゼさんも、もう行かれますか?」
「はい。次は剣術なので」
「大丈夫ですか?
その…お身体が辛そうですが」
思わず聞き返すと、リゼは自分の身体を見下ろした後、何故か自信ありげに頷いた。
「大丈夫です!」
先ほど棚の本を取ることさえ難儀していた姿を見た後では、あまり説得力のある言葉とは思えなかった。
それでも本人に休むつもりはないらしいので、カサンドラは無理だけはしないよう念を押し、一緒に貸出の手続きを済ませたのである。
シリウスはまだ席に残って本を読んでおり、こちらへ顔を上げる様子もなかった。
わざわざ北の実技棟まで移動して着替えなければいけないリゼは、当然他の皆よりも時間が押し迫っていると言える。
近くの席で没頭するシリウスの邪魔をしないよう、声を掛けずに二人で図書室を出た。
午後の講義へ向かう生徒が増え始めた廊下には、開け放たれた窓から柔らかな風が入り込み、壁際に並べられた鉢植えの葉を揺らす。
隣を歩くリゼへ改めて目を向けると、やはり歩き方はどこか固く、一歩踏み出す度に全身を庇っているのが分かって心が痛い。
「剣術は、かなり大変ですか?」
「そうですね、思った以上に大変です」
リゼは躊躇うことなく認めた。
「腕も足も痛いですし、昨日より今日の方が痛い気がします」
「それなら、今日は休まれてもよろしいのでは?」
「でも、やりがいがあります」
そう答えた時の表情には、少しも嫌そうなところがなかった。
「絶対、絶対教官に一泡吹かせてみせます…!」
リゼは内なる闘志を隠しもせずに、そう宣言したのだ。
しかし、熱意と身体状況は必ずしも一致しない。
カサンドラは彼女に剣術を勧めた手前、どうしても心配そうな表情になってしまったのだ。
そんなカサンドラを見て、リゼはニッと笑う。
「わたし、根性だけは自信がありますから!」
得意げに言いながら腕を曲げて力こぶを作ろうとするものの、細い腕の見た目にはほとんど変化がない。
それでも本人があまりに満足そうなので、カサンドラも思わず微笑を浮かべてしまった。
「でしたら、ほどほどに頑張ってくださいね」
「もちろんです」
元気よく返事をしながら勢いよく腕を下ろした瞬間、筋肉痛に響いたのかリゼの顔が僅かに引き攣る。
「……っ」
「リゼさん?」
「大丈夫です」
返事だけは驚くほど早かった。
強がりも入っているのだろうが、青い瞳に浮かぶ決意はカサンドラでも止めようがない。
心の中で全力でリゼを応援していると、背後からリゼの名を呼ぶ声が聞こえた。
条件反射で、二人は揃って振り返る。
「リゼ・フォスター」
図書室の方から歩いてきたシリウスが、片手に細身のペンを持っている。
二人の前まで来ると、それをリゼへ差し出した。
「――忘れ物だ」
「……あ!」
リゼが慌てて鞄の中を確認し、本当に自分のものだと気づいたらしい。
「すみません、ありがとうございます」
「気をつけるように」
シリウスはそれ以上何も言わず、リゼも受け取ったペンを鞄へしまっただけだった。
本人達にとっては、それで終わる程度のやり取り。
そして用事を済ませたシリウスが、身を翻していつも通りの早歩きで反対側へ進んでいく、ただそれだけの光景だった。
――だがその場面を見ていた令嬢達が、ひそひそと小声でささやき合う。
「……まさか! シリウス様がわざわざ届けにいらしたの?」
「シリウス様のお手を煩わせるなんて…もしかしてわざと?」
「三人揃って、随分とお付き合いがお上手ですこと」
カサンドラは思わず眉を寄せた。
黙ってペンを鞄の奥へ収めているリゼにパッと視線を移す。
決して大きな声ではなかったが、すれ違う距離なら聞き取れないはずもない。
けれど本人は何も聞こえなかったかのように、鞄を持ち直す。
表情も全く変わらない。
「リゼさん」
「はい、なんでしょう?」
いつも通りの顔で振り向かれ、カサンドラは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……いえ。何でもありません」
「そうですか」
リゼはそれ以上尋ねることもなく、再び歩き始める。
彼女はぎこちない足取りで、一生懸命実技棟へ向かっていった。
以前、リタに向けられた悪意のことも脳裏を過る。
何もしていないのに、ただ誰かと話したというだけで勝手な憶測を向けられていたのだ。
随分と理不尽な話だと思うと、カサンドラの胸の内も穏やかではなかった。
借りた本を掻き抱き、細い吐息を廊下に落とす。




