第27話 <リゼ>
午後の選択講義を前に、女子更衣室にはまだ何人かの生徒が残っていた。
窓から差し込む春の日差しが床へ長く伸び、壁際には学園から貸与された訓練服が整然と並べられている。
剣術講義用の服は、普段の制服とは似ても似つかない簡素なものだった。
淡い色の上衣に濃色の細身のズボン。
袖や裾は動きやすいよう絞られており、装飾らしいものはほとんどない。
リゼは上衣へ腕を通し、肩を動かしたところで僅かに顔を顰めた。
その上、ズボンへ脚を通すだけでも太腿の奥がじわりと痛む。
いつもなら何でもない動作なのに、片脚を上げるたび壁へ手をつきたくなるほどだった。
痛い。
腕だけではない。
背中も腰も、歩くたびに全身が重かった。
「はぁぁぁ…」
体を少し動かすだけで、ミシミシと嫌な音が立つ幻聴が聞こえる。
特に脚の痛みは筆舌に尽くしがたく、階段の上り下りは地獄そのものであった。
外傷は一切ない、ただ体を激しく動かし続けたというだけでリゼの体は悲鳴を上げているのだ。
これが――筋肉痛。
覚悟はしていたものの、想像を超える痛みに愕然とする。
こうなった原因は考えるまでもない。
初めての剣術講義のせいだ。
――同じ剣術講義を選べば、少しくらいジェイクと一緒にいられると思ったのに。
現実はそう都合よく出来ていなかった。
経験者どころか上級者にあたるジェイクは、中央訓練棟の中で実戦形式の講義を受けている。
一度も剣を握ったことのないリゼが、最初から同じ場所へ混ざれるはずもなかった。
自分は校舎裏手にある小さな訓練場を「初心者用」としてあてがわれたわけで。
校舎裏の小訓練場は拍子抜けするほど静かだった。
石敷きの端には雑草がボーボーに伸び、風が吹けば木の葉の擦れる音まで聞こえる。
人の気配より、放置された場所の寂しさの方が強い。
華やかで美しい学園に、こんな寂しい場所もあったのかと逆に感心したくらいだ。
『あ? ……まさかとは思ったが…
お前が、剣術志望の初心者? …うっそだろ』
硬質な茶色の髪、赤い瞳。
行儀悪く膝を開き、地面すれすれまで腰を落とした格好のオジサンがリゼを睨んできたのである。
若干三白眼で目つきが悪いせいだろう。
普段愛想の無さを自覚しているリゼをしても、「もう少し愛想よくして」と思わずにはいられない…
要はガラの悪いオッサン。
それが、リゼの「担当教官」だったのだ。
『ま、これも仕事か。
…オレはフランツ。
超初心者に稽古をつけて、他の連中と一緒に訓練できる程度まで指導する…ってわけだ』
ゆっくりと立ち上がったフランツは、体格が非常によいと一目で分かる。
硬い髪は手入れする気がないのか、ところどころ好き勝手な方向へ跳ねていた。
無造作に捲られた袖から覗く前腕は太く、手の甲には古い傷。
座り方だけ見ればだらしなかったのに、身体つきはどう見ても剣士だった。
なんでリゼのようなひょろひょろの女子が剣術を受けたのか、とフランツの目は終始胡散臭そうなものだ。
『なぁ、講義の選択間違えてないか?』
『間違えてません!』
最初から、ジェイクと一緒にいられるだなんて期待してはいけなかった。
現実は決して甘くない。
この講義は、自分があの人に近づくために必要な第一歩なのだと気持ちを鼓舞する。
あわよくば姿を見ることができないかな、と思ったのは確かだけど。
物理的にも心理的にも立場的にも遠すぎて、今のリゼは近づくことさえ叶わない。
『リゼ・フォスターです!
よろしくお願いします!』
声を張り上げ、フランツを強く睨み返す。
この人に認められれば、きっとジェイクたちのいる訓練場に参加できるはず。
何もしない内から諦めるなんて、絶対嫌だ!
だが、リゼの運動神経のなさはフランツを驚愕させるものだったのである。
『へっぴり腰!』
バシッ、と背中をチョップされる。
『身体が硬い!』
腕を掴まれ、ねじりあげられる。
『お前に剣はまだ早い! 四月いっぱいは身体作りだ!』
最終的に、木剣を取り上げられて走り込みをさせられた――そのせいで筋肉痛。
フランツの罵声に、リゼはただひたすら耐えるしかなかったのである。
初日から、運動が苦手なリゼにとって想像を絶する辛い時間が待っていた。
※
「……今日もあの教官か…」
思わず零れた呟きに、自分でも少し腹が立ってきた。
昨日の自分が酷かったことくらい、リゼにも分かっている。
木剣は思っていたよりずっと重く、構えろと言われても正しい持ち方さえ分からなかった。
腰を落とせば身体が揺れ、腕を上げれば硬いと笑われ、挙げ句の果てには木剣を取り上げられた。
その後に待っていたのは、走り込みと柔軟、それから延々と姿勢を直される時間だけが過ぎていく。
剣術を学びに来たはずなのに、一度も剣を振らせてもらえなかったのだ。
だが、フランツの指導は間違っていない――と思う。
悔しいがリゼにも理解できてしまう。
今のリゼは、文字を書けないのに難しい問題を解こうとしている子供のようなもの。
まずは基礎…文字を覚え、計算方法を学ぶという知識の土台を築かなければ何も身につかない。
走り出してあっという間に息が上がってヘロヘロになる自分に、剣を持たせるなんて!
言われてみればありえない話だ。
フランツからしこたま運動音痴を馬鹿にされたが、リゼは歯を食いしばって、彼の「指導」に食らいついた。
午後の二コマの講義の両方、目いっぱいフランツの罵声を聞いてたような気がする。
この学園に、こんなにも口と態度が悪い講師がいるだなんて思わなかった。
でも、お世辞も嘘も言わない歯に衣着せぬ物言いは、そこまで嫌じゃない。
悪意がないし、自分なんかが剣を学びたいと言っていることへの心からの戸惑いが伝わってきたから。
この山を乗り越えて、絶対ジェイクのいる訓練場まで辿り着いて見せる!
生来負けず嫌いなリゼは、激しい筋肉痛に耐えながらも気合を入れて上衣の紐を結び終える。
絶対見返してやる、という意地もあった。
辛いから逃げ出すなんて絶対、嫌。
既に着替えを済ませた生徒達は次々と更衣室を出ており、室内も随分静かになっていた。
彼女たちは体術講座に行くのだろう、キャッキャと楽しそうに会話をしながら出て行く。
体を動かすことが好きな女子にとって、ちょうどいい講義なのだろうな。
リゼは何の気なしに栗色の短い髪を耳へ掛け、鏡の中の自分を見る。
制服ならまだそれなりに見えるのに、身体の線が出る訓練服では細い腕や頼りない肩が余計に目立った。
これが貧相な体って言うのか。
…と、ガックリしながら鏡の中の自分から目を逸らす。
「まぁ、貴女」
不意に後ろから声を掛けられた。
振り返ると、少し離れた場所に一人の女子生徒が立っている。
銀色の髪を高い位置で一つに結び、青灰色の瞳を真っ直ぐこちらへ向けていた。
同じ訓練服を着ているはずなのに、背筋を伸ばして立つ姿には妙な凛々しさがある。
昨日も更衣室で一緒になった上級生だった。
着替えを終えた彼女が剣を持って更衣室を出ていくのを見て、リゼはてっきり同じ場所へ向かうものだと思ったものだ。
初めての講義で訓練場所もよく分からなかったため、これ幸いとその後についていったのだが――
『貴女はこちらではなくてよ』
中央訓練棟へ向かう途中で呼び止められ、初心者は別の場所だと教えられた。
さらに校舎裏手にある小訓練場までの道順まで説明してくれたのが、目の前の女生徒だったのである。
「えーと…先輩…ですよね?」
「――私はレオノーラ・ディ・ウェレス。
上級生です」
「あ、はい。私はリゼです」
上級生と言うことは、一つ年上か。
先輩であることに間違いはなかったようだ。
リゼは彼女の自己紹介で、ああ、中央の偉い貴族なんだなと察した。
ミドルネームは、彼女たちだけに許された識別の証でもある。
上級貴族が一体自分に何の用だろう、と警戒心が立ち上る。
「昨日の新入生ですね」
「はい、昨日は場所を間違えてしまい、ご迷惑をかけました」
「そのようなことはどうでもよいのですが」
レオノーラはピンと姿勢を伸ばしたまま、人差し指を顎に添える。
そして、リゼの頭の先からつま先まで凝視したのだ。
――美人からの不躾なまでの視線は耐えがたい。
こちらも負けじとレオノーラを見据えるものの…
彼女の背筋は一本の線を引いたように真っ直ぐで、重心がぶれない。
ただ立っているだけなのに、訓練服の肩や腰回りが妙に馴染んで見えた。
剣を握ることが特別ではなく、日常の一部なのだと分かる立ち姿。
「――今日も続けるのですか?」
問い詰めるというより、本当に疑問だから尋ねているような顔で放たれた言葉に、リゼは思わず眉を寄せた。
続けるつもりだから着替えている。
わざわざ確認されるようなことでもない。
だが、若干試すような口ぶりで彼女はぽつりと呟いた。
「…もしかして、ジェイク様が目的…とか?」
上衣を整えていたリゼの手がぴたりと止まる。
まさか、ここでその名前を出されるとは思っていなかった。
動揺のせいで肩が跳ねてしまう。
「なんでですか?」
「昨日、中央訓練場を気にしていらしたので」
「あれは…場所を間違えただけなんで!」
確かに履修表の案内に初心者用の訓練場があると書かれていたけれど!
実技棟の配置に不慣れな自分には、パッと思い至れなかっただけだ。
そもそも、まさか建物でさえない野ざらしの地面の上の講義なんて…
「ふぅん」
レオノーラは特別興味もなさそうな顔。
凛々しい佇まい、切れ長の目とすらりとした長身。
「女騎士」と言われても納得する、貴族の女生徒。
彼女はただ細いだけではない。
無駄なく引き締まった腕も、床を踏む足の置き方も、昨日の自分とはまるで違う。
……ああ。
こういう人なら、ジェイクと同じ場所に立てるんだろうな、と嫌でも悟ってしまう。
現実を見せつけられ、後頭部を殴られたようなショックを受けた。
「…というか、私が何を理由に講義を選んだのかなんて、先輩に関係ないのでは?」
ここで喧嘩をしてもしょうがないのだが。
つい、剣呑な口調になるリゼである。
今の自分では到底届かないような場所に立っている彼女に、憧憬を抱いているのを認めたくない。
「ええ、そうですね。
私には関係ありません」
静かな声だった。
「…剣を学ぶ過程は、決して楽しいことばかりではありませんよ」
昨日のことを思い出し、リゼは無意識に痛む腕へ手を添えた。
それなら、既に十分思い知っている。
そんな仕草を見て、レオノーラも察したのだろう。
「フランツもさぞ戸惑ったことでしょうね。
剣を扱った経験の無い女生徒の指導を担当するなど、彼にとって初めてのはず」
「……。」
「先日、講義の帰りにあちらを通りました。少しだけ拝見しましたが――
少々無謀ではないかと思いました。
今の状態から剣を身につけるには、かなり時間が掛かるでしょう。
特待生ですもの、この学園には目的があって入学したはず。
他に将来役に立つ講義へ時間を使う方が良いのではないかしら」
ちらり、と彼女の視線がもう一度リゼの全身を映す。
「ご忠告ありがとうございます。
私は、自分のためになることだと信じてますので」
自分の動機が不純なものだってことくらい、自分が一番分かってる。
全然興味なんてなかったし、体を動かすのは嫌いだし。
教官に乱暴な言葉で叱られるのは苛立つし、官吏に向けての勉強時間も削れるし。
だけど可能性が少しでもあるなら、叶えたいと思ってしまった。
同じ教室でクラスメイトというだけでも奇跡だが――
たまたま与えられた奇跡だけで終わらせたくない。
そのための手段がフランツとの訓練であるなら、絶対に乗り越える。
「もうすぐ時間なので、失礼します。
…先輩も早く出た方がいいと思いますよ」
リゼは荷物を持って、更衣室を後にする。
自分の選択を誰かに否定されるのは、ムカムカしてしょうがない。
しょうがないじゃない!
――好きになったんだから!
筋肉痛の痛みを感じないほど頭を沸騰させて、リゼは昨日の野ざらし訓練場へと向かった。
中央訓練場に向かう小道から離れるほど、人の気配が消えていく。
代わりに聞こえてくるのは、風に揺れる枝葉と、自分の靴底が石を踏む音だけだった。
昨日と同じ、あまり手入れのされていない硬そうな茶色の髪が目に入る。
また大声で怒鳴られるのかと委縮しそうな心を奮い立たせ、
「フランツ教か……ん!?」
話しかけようとした瞬間。
「マジで今日も来たのか?
……別にサボってもよかったのに」
やる気のなさそうな顔で、後頭部に手を当てて振り返る指導教官、フランツ。
そして、彼と一緒に立っているのは…
「ジェイク様!?」
なんでこんなところに!?
幻か!?
自分の脳内の欲求が変な白昼夢を見せているのかと、リゼは大いに慌てた。
「おいジェイク、早く中央に行けよ。
いつまでオレに絡んでくるんだ」
フランツの隣に立つ赤い髪は、遠目で見る時よりずっと鮮やかだった。
訓練用の上衣は肩や腕の線を隠さず、普段の制服姿より一回り大きく見える。
腰には使い込まれた模造剣が下がっていて、立っているだけなのに妙に様になっていた。
「あ、もうこんな時間か。
……昨日、新入生がこっちに回されたって聞いたけど――」
こちらを見るジェイクは、首をひねる…というか、ちょっと不思議そうな顔。
「…リタじゃなかったんだな。
えーと…」
胸の奥に浮かんだ喜びが、そこで一度だけ勢いよくはじけ飛ぶ。
予想外という顔のジェイクを前に、つい感情が昂ってしまった。
まさか、リタに会いに来たと言う事か!?
なにゆえ!?
…いや、ジェイクがリタによく話しかけてるのは知ってるけど。
「私はリゼです。
リゼ・フォスター!」
「剣術選ぶタイプには見えなかったから、吃驚した。
教室じゃいつも真面目そうだし」
色んな感情がグワーッと湧き上がってくる。
「……そんなにダメですか?」
さっきのレオノーラとの会話が蘇る。
そりゃ、目の前の男子生徒のことを好きにならなければ、一生縁がなかったことは確かだ。
だから彼の疑問ももっともな事。
しかしそれを本人に指摘される状況に、感情の処理が全く追いつかない。
思わぬところで、ジェイクに会えたのは嬉しい。
そして、訓練着も彼が着ているとめちゃくちゃ印象も変わってよく似合っている!
たとえ…彼の目的がリタの方だったとしても!
こうして普通に話しかけてもらえるのは嬉しい…!
そんな内心の心理的アップダウンなど一切気づかないジェイクは、感心したように何度も頷く。
「いや、逆にスゲーよ。
どーせフランツにしごかれたんだろ? 女だからって手加減する奴じゃないし」
「あの程度をしごきだと言って欲しくはないが?
しょうがないだろう、初心者過ぎて全部ダメダメなんだから」
フランツは腕を組んで、大仰にため息をついた。
どうやらこの二人は、昔から見知った関係らしい。
…ということは、フランツはロンバルド関係の剣士…なのだろうか。
リゼを見て、ジェイクはハハッと笑った。
侯爵家の令息で騎士でもあるはずなのに、こうしている時の彼には全然「偉い人」という感じがしない。
「それで今日も来るって、根性あるな!
あ、こいつは口は悪いけど腕は確かだから、安心していいぞ」
「ほほう…ジェイクよ、さてはお前、年上に対する礼儀を家に忘れてきたな?
…いいからさっさと向こうに行け!
用なんかとっくの昔に終わっただろ」
フランツの声にも、ジェイクはしれっとした顔だ。
随分気安い間柄なのだろう。
ジェイクは言われた通り中央訓練場へと歩きかけたが……
パッと、リゼを振り返る。
「じゃあな、リゼ。頑張れよ」
昨日はあんなに苦しいとしか思えなかった時間が、その一言で一気に色を違えて見える。
まさか剣術を選んだ目的の張本人から、励ましてもらえるなんて思えなかった。
不安もあるし、焦りも強い。
でも――嬉しい。
「……フランツ教官」
「ん? なんだ? 辞めるか?
面倒ならサボってていいぞ?
オレも休憩でき――」
「何言ってるんですか、これからどこ走ればいいか言ってください!
二周してきます!」
今現在、彼の傍にどんな人がいようと――
自分から前へ進まなければ、いつまで経っても近づけはしないのだ!




